シモーヌの場合は、あまりにもおばかさん。----ヴェイユ素描----〈12〉

 自他の区別のつかない、慰めのない「不幸」の中で、自らに対する執着を捨て、自分自身の魂を「真空」の状態にすること。そのときはじめて人は、「不幸」というものと向き合うことができるところとなる。不幸な人々と共に生きることができるところとなる。
 ではこの「真空となる」ということはどういうことなのか?
 「…この真空はどんな充満状態よりも、充ち溢れている。…」(※1)とヴェイユは言う。真空であるからこそ、人は満たされている。なぜならこの真空には、「神が迎え入れられている」のでもあるからだ、と。そして注意力とは、この「真空に迎え入れられた神から発せられているもの」でもあるのだから、と。
「…このわたしが消え去り(中略)それを用いてキリストが隣人を救う…。」(※2)
 私を捨て去ることで、私ははじめて完全に満たされ、「私を愛するように他者を愛する」という「隣人愛」の境地に達する。それは、真空になった私の魂に神=キリストが入り込み、その私の魂の中に入り込んだキリスト自身のなせる業として、はじめて可能なこととなるのだ。
 そのためにも私は、「…自分自身を根だやしにしなければならない。木を切って、それで十字架をつくり、次には日々にそれを負わなければならない…」(※3)のだ。そして、「…真の自分の場所にいることができるために、無となること…」(※4)が必要なのだ。
「…ただ注意のみ、この〈わたし〉が消えてしまうほどに張りつめた注意のみが、わたしには要求されているのだ。…」(※5)

 このようなヴェイユの考え方について、吉本隆明は次のように評している。
「…ヴェイユの自己抹殺は、否定的な実存の意識ではなく、文字どおりじぶんの実在の抹殺と消去だといったほうがいい。…」(※6)
「…泥のようにただ自分を無化し、抹殺してゆこうとする無への意志は、思想のマゾヒズムの極致で、否定性の倫理、ぞっとするような〈信〉のかたちを垣間みせる。…」(※7)
「…自己抹殺の理念のほうが自然死の理念より価値があるかのように言葉を駆使するシモーヌ・ヴェイユ。この思想家はほんとの悲劇だ。そしてほんとに根拠のある病気だ。…」(※8)
「…ヴェイユは屍体の病巣のなかに神を住まわせている。…」(※9)
 たしかに、ヴェイユの思考の仕方は、倒錯に倒錯を重ねているという印象さえ与える。言い方は悪いが、いささかクレイジーであるように思える。この人は、一体何を言っているのだろう?彼女がその注意力を差し向けようとしていた当の「不幸な人々」でさえ、思わずたじろいでしまうのではないか。自分たちの「不幸」とは、そんなに極端な話なのか?そんな極端なことをしなければ、してもらわなければ、私たちの不幸は救われることはないのか?ヴェイユのその突き詰めた思考は、むしろ不幸な人々をよりいっそう遠ざけてしまうのではないだろうか。
 それにしても、一体どこの誰が彼女に、そんな極端な思考や行動を要求したというのだろう。「不幸な他人」がわざわざ彼女にそのようなことを望むだろうか。結局のところ、そのように望んでいるのは、「彼女自身でしかなかった」のではないのか?

 ヴェイユが、慰めのない不幸の果てに自らの執着を捨て去り、「無となることを望んだ」のは、まさしくキリスト=イエスがそうだったからであろう。しかしもし、贖いが信の根拠となりうるのならば、「イエスの後」にはもはやそのような慰めのない不幸はありえないのだということが「信じられているのでなければならない」のではないだろうか?
 また、イエス以上にそのような慰めのない不幸を誰も味わうことができないということが、イエス=キリストに対する「信」の根拠となっていなければならないのではないだろうか?「イエスの不幸を我が身をもって再現する」ということが、果たして許されることなのだろうか?
 それは彼女の欲望、エゴイズムではないのだろうか?
(つづく)

◎引用・参照
(※1)ヴェイユ『重力と恩寵』
(※2)ヴェイユ『重力と恩寵』
(※3)ヴェイユ『重力と恩寵』
(※4)ヴェイユ『重力と恩寵』
(※5)ヴェイユ『重力と恩寵』
(※6)吉本隆明『甦えるヴェイユ』
(※7)吉本隆明『甦えるヴェイユ』
(※8)吉本隆明『甦えるヴェイユ』
(※9)吉本隆明『甦えるヴェイユ』

◎参考書籍
シモーヌ・ヴェイユ
『抑圧と自由』(石川湧訳 東京創元社)
『労働と人生についての省察』(黒木義典・田辺保訳 勁草書房)
『神を待ちのぞむ』(田辺保・杉山毅訳 勁草書房)
『重力と恩寵』(田辺保訳 ちくま学芸文庫)
『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』(今村純子編訳 河出文庫)
吉本隆明
『甦るヴェイユ』(JICC出版局)
冨原真弓
『人と思想 ヴェーユ』(清水書院)

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