不十分な世界の私―哲学断章―〔33〕

 私たちは、『他者』の視線に絶えず晒されている。そして私たちは、その「最後の他者」を特定することはできない、私たち自身がその「最後の他者」になるのでない限りは。しかし、その事実を目撃し証言してくれる者は、誰もいない。それを目撃し証言してくれるのは、「他者であるのに限られる」からである。だから私たちは、その「他者が、無限多数に存在する可能性」を否定することができないし、同時に、その「他者が、絶えず存在する可能性」も否定することができないのだ。そして、他者が絶えず存在しうるとすれば、それはまた、他者が無限多数に「あらわれ続ける」ことも、現に生きている私たちからはけっして否定することができない。ゆえに私たちは、その「世界の全体を規定すること」もけっしてできない。
 また、私たちは「特定の他者」を他者として指定して、それ以外の者を他者であることから除外することもできない。「その他の他者」も、『他者』として無限多数にあらわれ続け、私たちは、それらの他者から無限に目撃されうることから免れえない。
 現に生きている私たちが『他者』を目撃する経験と、その目撃した経験に基づく『他者』に対する認識は、私たちを目撃する他者の「経験と認識の無限性」に対して、常に不十分なものにならざるをえない。そして、私たちのその「不十分さ」もまた、他者に絶えず目撃され証言され続けることになるのである。

 不十分な経験と認識ながらも、それでもなお私たちにも考えうるような『他者』とは、一体「何者」なのか?
 それはおそらく、ただ単に「私ではない者、私と異なる者」ということではないだろう。少なくとも「ただ単に異なる者」というだけで、『他者』を考えることはできないだろう。ただ単に異なっていることを見出すだけでは、私たちが『他者』を見出すまでには至らない。むしろそこで見出されてしまうのは、「異なっているというほどには違っていない」ように見えてしまう『同質性』であるかもしれない。
 「…人間の差異性(ディスティンクトネス)は他者性(アザネス)と同じものではない…」(※1)とアレントは言っている。『差異』によって見出される者が、すなわち『他者』ではない、ということを言っているようにも思える。だが、とはいえそれら『差異性(distinctness)』も『他者性(otherness)』も、言うほどには「かけ離れている」というようにも思えない。少なくとも、それらが「同じである」ように一般に誤解を与えてしまう程度には、その文脈においては互いに通じ合っているのではないか?
 otherness=『異他性』とは、その他のもの=othersに対する、あるいはそれからの差別化=distinctionである。そこで、その他のものを「みな一様に同様=同質である」と見なし、それに対して、あるいはそこから区別する(distinct)ことによって、私は私自身の個別性を見出す、とする。「私は、あいつらとは違うのだ」と、何らか目に見えて突出しているような「差異」を見つけ出すようにして。
 しかし、その区別=差異化の基底となっているのはむしろ、私とその他のもの「との同質性」であり、私の個別性は、その同質性から「選別=alternativeされたもの」としてあらわれる。私とその他のものは、何らか目に見えてわかる「同じ地平」に立って、あるいは「同じ根」を持って、そこから何らか目に見えてわかるほどに突出しているものが、私の、その他のもの「に対する差異性」である。私の、その他のもの「に対する違い=個別性」は、私とその他のものが立つ同じ地平や、同様に持つ根から「目に見えて選り分けうるもの」として見出される。
 ゆえに、私の個別性が維持されるには、私とその他のものとの同質性が維持されていなければならず、よって私とその他のものとの差異性=distinctnessは、私とその他のものの同質性に依存していなければならない。

〈つづく〉

◎引用・参照
(※1) アレント「人間の条件」第五章24 志水速雄訳

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