不十分な世界の私―哲学断章―〔9〕

 ガラッと変わってしまった私、まるで別人のようになってしまった私。それは私自身が見ようとしていた、あるいは見たかった私ではなかったのかもしれない。もしそのような、私にとって思いもよらない、私の思うようにではない私自身の変化が、私の「外」からもたらされた、何らかの出来事によるものだとしたら、私は私自身のことよりも、そのような出来事の方を恨みに思うのかもしれない。
 しかし、たかだか何がしか一つの出来事を経験した程度のことで、私の存在そのものが変貌してしまった、あるいは変容してしまったかのように見られてしまう、または見えてしまうというのは、要するに私とは「その程度の存在」としてしか見られていない、もしくは見ていないということになるのではないか?結局のところ、一般的に人は、人のことを、「見えているところしか見ていない」ということになるのだろうか?そしてそのように見る限りで、「その人にはその程度の意味しかなかった」ということになるのではないだろうか?「その人」は、「その程度の日常しか送ってこなかった」と見なされてしまうのだろうか?
 ある出来事を経験することでガラッと変わってしまった、私の日常。それにより、その日常を喪失した私は、それ以外の日常を、私自身としてどのように送ればいいのか。あるいは私はそれによって、日常そのものまでもを喪失してしまうことになるのだろうか?そんなにたやすく喪われる日常とは、一体何なのだろう?

 グレゴール・ザムザはある朝突然、自分自身が巨大な虫になっているという出来事を経験する。しかし実のところザムザは、「自分が虫になった」とは少しも思っていなかったのではないだろうか?彼の意識は相変わらず「虫になった後」でも、彼自身の仕事やらなんやかんやについてあれこれと思いめぐらせ、気をもんでいたのではなかったのだろうか?
 また、ザムザがもし「虫から元の人間に戻った」としたら、一体どうだっただろうか?おそらく彼は何事もなかったかのように、「元の生活を繰り返す」のだろう。そして、こう考えるのではないだろうか?「ああ、とんだ目に遭った!災難だった!」と。彼は、「虫になる前」も、「虫になった後」でも、自分自身は変わらずにグレゴール・ザムザであり続けるのだ、と思っていることだろう。それこそ自分の「変化=変身」のことなど、「虫に刺された程度」に感じるくらいの異常でしかないのであり、変わらない日常に還元されているところの、「私はグレゴール・ザムザだ」という自分自身への意識が、彼自身を変わらずに正当化していくことだろう。そのとき、彼が虫になったという出来事は、それこそ彼の意識によって無視されているのではないか?
 そもそも、ある一つの出来事によって存在自体が「変身する」と、なぜ考えられるのだろうか?そこでは、存在が変身したという事実自体が容易に受入れられている。このこと自体に疑問を持たないのは、一体なぜなのだろう?結局こういうところで、人は「その存在」の何を見ているのかがわかる。人はその存在に起こった出来事を、「その存在に還元して見ている」のだ。ザムザの家族は「虫になったグレゴール」を、「グレゴール自身に還元して」見ている。「虫になった」という出来事により、グレゴールは私たちの家族として存在する意味を喪失したのだ、と彼の家族は思っている。存在それ自体を変身させてしまっているのはまさしくそのような、出来事に存在を還元する意識である、というように見ることは、はたしてできないことだろうか?
 それにしても、ザムザの家族はなぜ、ベッドの上に虫がいたということだけで、グレゴールが虫に変身したのだと直結的に判断したのだろうか?別に彼が虫へと変貌していくさまを目撃したわけでも、かねてからその兆候を見せていたというわけでもないのに。それとも彼らは、グレゴールはいずれ虫になりうる者であるとでもいうように、あらかじめそういう目で見ていたのだろうか?

〈つづく〉

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