不十分な世界の私―哲学断章―〔31〕

 人が何事かの終わりを見出すとき、そこにはすでに「新しいはじまり」が潜んでいる。そのとき人は、すでに「新しいはじまりの中」にいる。そしてその、すでにはじまっていることが、その人のそれまでのことを終わらせることになる。「終わりとはじまり」は、人が現にしていることの中に、つまり『日常』の中に常に潜んでおり、またそこで絶えず起こっていることなのだ。
 「…すでに起こった事にたいしては期待できないようななにか新しいことが起こるというのが、「始まり」の本性である…」(※1)とアレントは言うが、しかし「新しいはじまりに期待をする」ということは、その「期待できるようなことが、すでにはじまっている」という証拠でもあるだろう。人は、「起こってもいないことに、何も期待することはできない」のだから。逆に、すでにはじまっていることへの期待から振り返ることではじめて、すでに起こってしまったがゆえにもはや何も期待できない「出来事」が終わっていくのを、人は見出すことになるはずなのだ。
 しかし、そのように期待された「新しいはじまり」は、やはりこの世界に生じるあらゆる物事の常であるように、その期待通りの結果を、あるいはその「期待の範囲内の結果」を、必ずしももたらすわけではない。むしろそれどころか、結果として「期待されていないことまでもが新しくなってしまう」ことにさえなりうるだろう。その点で「新しいはじまり」は、人の生きる世界を「思いがけず一挙に変えてしまう」ことにもなりうるのである。たとえそれを「誰も期待していなかった」のだとしても。

 人にとって、そのもっとも重大な『はじまり』は、「彼=自分自身の誕生」のことだろう、と言える。
 「『誕生』による彼自身のはじまり」は、「…人間は一人一人が唯一の存在…」(※2)であると考えることができ、なおかつその「…唯一の存在である人間一人一人についていえば、たしかに、それ以前にはだれもいなかったといえる…」(※3)ものと考えうるのと同時に、それ以後にもたしかに誰もいないであろうと考えられる限りにおいて、それは彼自身のみにおいて起こる一回的なこととしての歴史性を持ち、また、「…人間が一人一人誕生するごとに、なにか新しいユニークなものが世界にもちこまれる…」(※4)と考えられる限りにおいて、それはこの世界において唯一的なものとしての単独性を持つ。
 そしてその人の誕生は、それ以前にはいなかった彼がこの世界にあらわれることによって、その人自身と世界との「関わりのはじまり」という意味を持つことになる。
 人は、「一人一人の人として、はじめて生まれてくる人であり、はじめて死んでいく人である」と言える。だからこそ「一人の人」は、「…ユニークで、他のものと取り換えることのできない、そして繰り返しのきかない実体である個人…」(※5)だと言うことができるのだし、「…人間であるという点ですべて同一でありながら、だれ一人として、過去に生きた他人、現に生きている他人、将来生きている他人と、けっして同一でない…」(※6)ような、一回的・単独的・唯一的な『歴史性』を持った「この人=私」として、この世界において生まれて・生きて・死んでいくのだ。

〈つづく〉

◎引用・参照
(※1)〜(※4) アレント「人間の条件」第五章24 志水速雄訳
(※5) アレント「人間の条件」第三章13 志水速雄訳
(※6) アレント「人間の条件」第一章1 志水速雄訳


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