不十分な世界の私―哲学断章―〔19〕

 「他の人たちが私のことをどのように見ているか?」を気にかけるというのは、その他の人たちの間=世間において「私がどれだけ価値のある者として受け入れられているのか?」を気にかけているということでもある。そのような世間の『価値』に基づいて、「私が、他の人たちにとって価値のある者として承認されている」ということが証拠づけられば、それが「私の幸福」であると感じられるし、その幸福が「私にとって価値のあるもの」として感じることができるようになる。それが一般的な、あるいは社会的な「人間としての私の、私自身に対する意識=欲求=要求」であると言える。
 「私がはたして幸福であるかどうかを知るため」には、「私を外的に見る」ことができなければ、それを証拠づけることはできない、と考えられる。なぜなら、『証拠』とは常に外的なものだからである。そしてそのように「自分自身=私を常に外的に見ることができる」のが、「人間の意識」なのだと言える。
 その人間の意識がそもそも社会的であるとすれば、人間の意識とは「自分自身=私を、常に他の人たちのように見る意識」であり、「常に他の人たちの意識をもって自分自身=私を見る意識」だと考えられる。他の人たちの意識あるいは判断によって、「私が幸福であるということを証拠づける」ことができれば、『私』はそのことに対して満足を感じることができる。そういう、幸福や満足といったような「私自身の内面的な感情」も、「私自身を、他の人たちと同様に外的な意識によって見る=判断することによって、証拠づけられている」のだ、と言える。たとえどれほど「私=自分自身のものとして表現された感情」であろうと、それを見ているのは「他人としての自分自身=私」なのだ。たとえどのようなものであれ、『感情』は「表現されるものである」とするならば、それは「誰かが見ていることを前提にして表現されるものでなければならない」し、たとえそれを見ているのが「自分=私だけだった」としても、「その自分=私は、他人の目として機能している」ところの、「他の誰かの視線としての自分自身=私の視線」なのである。「私の価値」も「私の感情」も、その表現においてはそのような「視線」に全面的に依存していなければならない。

 「他者が自分=私を、どのような者として認識しているかを想像する」には、すでに自分自身で「自らを他者として、その自らがどのような者であるかを認識している」のでなければ、そこに何を思い浮かべることもできないだろう。とすれば、実際に他者がどのように自分を見ているのかは、もはやここでは問題ではない。すでに自分が他者として自分を見ているのだから。「自分=私とは誰なのか?」と想像する時点ですでに、そこには、「誰かとしての自分=私」つまり「他者としての自分=私」がいる。その自分を、他者としての自分が、すでに見ているのだ。
 自分で自分の評価をする、または、自分で自分を肯定することができるのは、「自分自身を他人として評価する」ことによってはじめてできることである。『評価』とは、その対象の価値を評価するということであり、その『価値』とは「社会的な価値」として、つまり「誰かにとって価値があると評価されているもの」として成り立っている。
 また、自分で自分を肯定することができるのであるならば、それは「自分で自分を否定することもできる」ということでもある。その意味でそれは、自分にとっての自分は、相対的に評価しうる対象なのだ、ということでもある。
 そのように、自分で自分を評価するということが「社会的なもの」であるのならば、それは「自分自身だけでは成立しないもの」ではないだろうか?仮に、自分で自分を評価できるとしても、その評価をしているのは「他人の目を持った自分=私」なのである。自分で自分を評価するということは、自分自身が自分を対象として見る「他人」にならなければできないことになる。逆に言えばそこには、「他人と同じような自分=私」がいるのでなければならない。そこでは、「評価する自分=私」と「評価される自分=私」が、同時に「他人と同じような自分=私」であることが必要なのだ。

〈つづく〉

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