不十分な世界の私―哲学断章―〔8〕

 ある出来事を経験することで、自分自身がガラッと変わってしまったように思う。他の者たちからも、そして自分自身でも、まるで自分は別人のようになってしまったと感じられる。
 ところで、ここで「ガラッと変わってしまう自分」とは一体何だろうか?また、「別人になってしまった」のは一体誰なのだろうか?そのような自分自身に起こる変化を見出すのは他でもない、自分自身という他者を見出す自分自身の意識なのだ。

 ある一つの出来事において自分自身の変貌を見出す意識は、その出来事を自分自身に還元して自分自身を見出している意識でもある。そのような意識によって、「ガラッと変わり別人になった私」が、私自身の目の前にあらわれてくることが私自身に見出されている。そこではまさしく「私自身という他人」があらわれている。
 「別人になった私」は、他人であるのと同時に私自身でもある。そのように自分自身を見出すことによって、自分自身では見出すことができないようなこと、すなわち自分自身の変化なるものを、まるで他人のように見ることが、つまり「客観的に見ること」ができるようになる。
 たとえば「自分の顔」は、たとえ誰も見ていないとしても自分自身の顔であるはずなのだが、しかしそれが自分自身の顔であると認識されるのは、実際には「誰かが見ているときだけ」に限られる、と言える。それが「誰」であろうと、たとえ「自分自身」であろうと、それは同じことなのだ。
 もちろん他の人は「私の顔」を、「まさに他人として、その目で見ることができる」だろう。だが、私自身は私自身の顔を、「この目で見る」ことはできない。だから、私自身が私自身の顔を見るためには、私自身の目を「他人の目」に変換して私自身を見ることができるのでなければならない。たとえば、「鏡を通して見る」なりなんなりをするしかない。それでも「見ること」を通して、その顔を「私の顔として見る」ことは、それを見るのが、たとえ「誰」であっても変わりがない。「見ること自体」には何も違いはない。

 誰か他人が見ている顔としての、私自身の顔。それを、誰かが見ているところの「その他人の目」で、私自身が見ることになる。そして、当の私自身が見ているところの、たとえば鏡に映った私の顔は、私の意識によって捉えられた対象として「私に見られている顔」なのだ、と言える。
 とすると私はそのように、私自身の目によって捉えられた「対象である私」として、あるいは、私自身の意識によって捉えられた「私という意味」として、私自身の顔を見るのである限り、私は、その私自身を「対象として捉えようとした意図」においてしか、自分自身の顔を見ようとはしないのではないか?とも思われる。それは私が私自身の顔を、「私自身として」見るのであっても「他人のように」見るのであっても同じことである。私は私自身の顔を、「私が見ようとしている顔」としてしか見ない。鏡に映る私の顔は、「私が見たい顔として鏡に映っている顔」であり、そのような顔であることを私は、「鏡に映るその顔」に求めているのだ。また、私が鏡に映る私自身の顔を見るとき、私の意識は、私が「何を見ようとしているのか?」を、すでに知っている。私が鏡を見るのは、「私の顔という対象」を見るためである。「そのため」に私は、鏡を見る。鏡を見れば、そこに私の顔が映っていることを、私はすでに知った上で、その鏡を見る。当然そこには「私の顔」がある。私はそのために鏡を見るのだから、それが当然だ、と私には思える。もしそこに、「私の知らない顔が映っていた」としたら、当然私は腰が抜けるほど驚くだろう。しかし、なぜそれに驚くのか?と言えば、そこに私の知らない顔があるということ以上に、むしろそこに「私が見ようとしていた顔がない」ということに対して驚くのであり、それによって私の意識は強く混乱させられることだろう。当然だと思っていることが「ない」ということに、意識というものは耐えられないし、許すことができないのだ。なぜなら、当然だと思うその対象に対する意識として「意識」というものは存在するのだから、その当然だと思う対象が「ない」のであれば、それに対する意識も当然「ない」のであり、まさに意識自身の存在が否定されるということになるのだから。

〈つづく〉

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