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✈︎鹿児島①「知覧特攻平和会館」 - 特攻隊が最後に見た本土は開聞岳 -

11月23日が珊瑚婚と言うことで、先週末より急遽、マイルを使って九州へ。妻の希望は長崎だったのですが、航空便の空きがなく鹿児島へ。

私自身、鹿児島は中高の修学旅行や2011年副議長の時に全国都市問題会議の会場が鹿児島市だったこともあり、何度も訪れています。しかし、プライベートでは一度もありません。

そうは言うものの、仕方なくの鹿児島ではなく「知覧に行ける」と密かに喜んでいたのです。

私の心の内

知覧へ

雨の中、空港よりレンタカーで知覧へ。
第二次世界大戦の特攻基地があった場所です。

知覧特攻平和会館

詳細については、公式サイトでご確認下さい。

私が何かを記すより、思いが伝わります。

知覧特攻平和会館内部

先のサイトより、内部の説明です。

第二次世界大戦末期の沖縄戦において特攻という人類史上類のない作戦で、爆装した飛行機もろとも敵艦に体当たり攻撃をした陸軍特別攻撃隊員の遺品や関係資料を展示しています。

知覧特攻平和会館とは

平和会館の中は撮影禁止ですが、このブースのみ撮影可能でした。

零戦
後方より撮影

知覧特攻平和会館周辺

平和会館周辺には、多くの戦争遺跡を見ることができます。
撮影も可能でしたので多く撮りましたが、1点のみ紹介します。

三角兵舎

先のサイトより。

空襲を避けるため飛行場から少し離れた松林の中に三角兵舎が造られました。 三角兵舎は半地下式木造のバラック建てで、屋根には偽装用の幼木をのせていました。ここで特攻隊員達は出撃までの数日間を過ごしたのです。 現在、その跡地には三角兵舎跡の石碑が建てられています。 また、特攻平和会館の隣には復元された三角兵舎があり、当時を偲ぶ事が出来ます。

「特攻」を知る
外部

三角兵舎の中は、通り抜けることができます。

内部

大西瀧治郎

特攻隊を作った方が、責任を取るために切腹したことも館内の展示で知りました。

自決
1945年8月16日、渋谷南平台町の官舎にて大西は遺書を残し、「介錯無し」で割腹自決した。

・・・< 略 >・・・「特攻隊の英霊に曰す」で始まる遺書は、自らの死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝すとし、・・・< 略 >・・・

・・・< 略 >・・・淑恵は特攻隊員の慰霊法要に出向くと「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」などと、ときには土下座までして謝罪したため、元特攻隊員や遺族らは淑恵の真摯な態度に感銘し大西を個人的に非難するものはいなかったという・・・< 略 >・・・

特攻の思想
・・・< 略 >・・・神風特攻隊に関しては、中央の研究する特攻とは別物であり、大西から中央に事前報告はあったが、神風特攻隊は大西独自の動きであった。・・・< 略 >・・・

・・・< 略 >・・・吉岡忠一は「もうそれしか方法はなかったと思う。大西は勝っても自刃しただろう。」と話した。・・・< 略 >・・・

・・・< 略 >・・・門司親徳は「若ければ大西も隊長として真っ先に特攻へ行っただろう。大西は彼らだけ死なせるつもりがないと感じられ別世界だった。」と語った。・・・< 略 >・・・

Wikipedia

大西瀧治郎も、その妻淑恵も戦争の被害者です。

開聞岳

平和会館の後、レンタカーを走らせ指宿に向かう途中で見た開聞岳。

この山が、特攻隊員の最後に見た本土とのことです。
関東からきた人は、薩摩富士と呼ばれるこの山に富士山を重ねていたのかも知れません。

撮影時、雨もあがったのですが、残念ながら上部には雲。

陸地からの開聞岳
瀬平公園より撮影

池田湖の下に位置するのが開聞岳です。

フェリーからの撮影。
距離がありかすんでいますが、美しい形をしています。

海からの開聞岳
フェリーなんきゅうより撮影


平和会館で読んだ数々の特攻隊員の遺書、20歳前後の方々からは想像もつかないぐらいどれも達筆でした。
戦争が始まるまで、良い人生を過ごされていたのでしょう。

合掌

<了>

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