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娘を、正しく、諦めるということ。

ここんとこずっと苦しみ悩んできたところの
思春期真っ只中の我が愛娘のこと。

自分なりのやり方で「ちっともまっとうじゃなかった」感は否めないが
それでも可愛い可愛い命の源と大事にしてきたつもりの我が娘は
中学二年あたりから
急激に「扱いにくい子」というのになっていったのでありますが

コレは邪魔に思っての意見発言ではなく
単純に、本当に、実際的に、事実として「扱いにくい」のであり

つまり
親の言うことをまず聞かない。
親の願いなど問答無用で自己の欲求大優先。
しかし本人なりに考えた故のことではあるのだろうけれど
こっちからしたら
「ちっても考えちゃおらんと同義」にしか見えぬこと多々。

本人自体も思春期のどうにもならんホルモンバランスの作用や
大人になろうとする自我の激しい発動やらがあって
そこにジェネレーションギャップも大きく立ちはだかり
更に、その親は「まともな神経」を持ってないときてる。

そらめちゃくちゃになって当たり前なんでありますけども

2011年辺りからでしょうか。
こういう感じが見る見る色濃くなっていったのは。

いよいよ義務教育期間も終えてしまった彼女の言動を見て
考えて考えて苦悶し続けてきた思いに
あるひとつの点を付けねばならんということかなと考えて。


「西の魔女が死んだ」という映画をたまたま見ました。

女の親子三世代の関係性について描かれていたように思います。
主人公は中学二年生の登校拒否を始めた女の子。
母親がまさに電話で「扱いにくい子」という言葉を言います。

そして、おばあちゃんの森にしばらく預けるということになる。

おばあちゃんは「西の魔女」と呼ばれる
イギリス人の元教師。今は最愛のおじいさんを亡くして森に一人暮らし。

そこで、魔女修行と題して
生活の大切さ、日々の暮らしを丁寧に生きることで
初めて磨かれる魂について孫娘に伝える毎日が始まる。

全体を通して淡々とした空気の中で
これといった盛り上がりもないのだけれど
自分にはすべてが意味のあるものとわかり、輝かしく見つめました。

終盤、元気になってきた娘を母親が迎えに来ます。
それなりに娘を思っての支度を整えて迎えに来た母親は
自身の母親であるところのおばあちゃんとの会話の中で
「私はあなたのようには生きられない。私の道がある」
というようなことを言い
おばあさんは悲しそうにうつむき
「そうね。あたしはオールドファッションなんだわ・・・」
と言うようなことを言う。

「西の魔女」と呼ばれるおばあさんは
正真正銘の本物の魔女であり魔女の血の流れる人であり
その娘も孫娘もまた、そうであり
しかし娘はその魔女の血を使わぬ人生を選びたがっていて
孫娘はその娘の生き方の中でまた
自分の人生を迷い悩み選び歩もうとしている。

いわゆる、親離れ子離れというものの様がそこに描かれていて
言葉を失いながら最後のエンドロールを見つめていたのだけれども

親子といえども違う個体を持った
違う宿命、或いは運命、人生を歩もうとする
別々の魂であるということ。

今この、自分の肉体であると思っているこれは
「魂の鍛錬のためにある器」なのではないかというようなことにも触れ

魂は本来、辛いことや苦しいことなどとは無縁の
圧倒的自由な存在であろうかもしれないのだけれど
どうやら「学びたがる質を持っているらしい」というようなこと。
そしてそれを学ぶには肉体が必要で
肉体はあらゆる感覚を持っているがゆえに
苦しかったり痛みを強く感じたり悲しんだり悩んだり
病気になったり怪我をしたり不遇を背負ったり
様々な思いをすることになるのだけれど
肉体に魂が宿って初めて
「学ぶべきこと」を学べるのではないかということ。

見たあとで思えば思うほど
この映画の言わんとしていること
伝えんとして描かれていることは全て
自分ごときには言葉に出来やしないけれど
けれども、物凄いリアリティを持って自分の中に入り込んできて。

そうして自分は、娘を諦めよう、と決意したのでした。

彼女は彼女の人生がある。
まだたったの15歳ですよ?などと
保健士は知ったふうなことを言っていたけれど
歳は多分全く関係ない。

現に彼女は言うことなど聞きはしない。
自分の思うように
それが正しかろうが間違っていようが
考えが浅かろうがなんだろうが
とにかく自分で決めて、自分の思うようにしたいとして
そのようにしか動かない。

何もかもを規制して強いて
「まっとうな毎日」を送らせようとしたところで
本人が望んでいるのと違うならば
それは本人にとってちっとも「まっとうな毎日」とは思えない。

それは自分らだってとっくに知っているはずで。

そういう意味で、ボクは娘を諦める。
娘の思うようにすればいいと、彼女を圧倒的に尊重する。そう決めた。

今現在の道徳倫理や
青少年育成の理論や
「かくあるべき青少年の姿」などとは大いに違うのかもしれないけれど

なんといってもとにかく、思うようにしか動かないのであるし
それで転ぼうが大怪我しようが大失敗しようが
苦労や苦難や悩みや困難が押し寄せてこようが
良くも悪くも「しかたのないこと」として受けて立つしか無いのです。

苦労させたくないとか
できるだけリスク少ない道を歩ませたいとか
そんな親の思いや計らいなんかはすべて空振りになるばかり。

どのような道も自分の選んだ道と、歩んでいく背中を見つめる。
見つめ見守り続ける、これだけが親の役目となったのです。今。きっと。

まだたったの15歳の娘を
自由にさせるということは
怖いと思い感じているのは、他のだれでもない、親自身。

けれどもこの恐ろしさを受けて立たねばならんという
そういうことなのだろう、と。

蛙の子は蛙。といいます。

娘もまた自分のように
無駄に生きづらい人生を歩んでいくように見えて仕方がない。
それが恐ろしくてしかたがないのだけれど
それもまた道なのだろう、と。

好きに生きればいい。それでいい。
もう、それしかないのだね。と。


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