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「虹獣(コウジュウ)」5章:ルノア 3話:雌伏(シフク)

 書物を何度も復読したルノアは、度々散歩へと出掛けるようになっていた。リルトの時とも、ドグマの時とも、ルフゥの時とも、世界が違って見えている事に戸惑いを感じつつも新鮮な気持ちを抱いていた。柔軟な思考を得たルノアは物の捉え方にも変化が訪れていた。こんな所に畑がある、この畑の野菜を確保すれば食糧の足しになるのでは?あんな所にスーパーがある、あのスーパーをうまい事に襲撃すれば食糧確保が可能になるのでは?もっぱら考える事は食糧の確保と供給であったが、今まで視界に入れなかったものまでを俯瞰的に眺める事で見えてくる視野が広がっているのを自覚するようになっていた。気分が良く少し高揚していたルノアは幼い頃に探検したコースを再び歩いてみる事にした。川沿いの塀の上をゆっくりと歩いていく、草木が彩り閑静な自然が続きルノアの心が穏やかで温かい気持ちに包まれていく。ルノアは歩きながら平凡な幸せも良いものだなと感じつつあった。

 ルノアは暫く歩いたところで昔一時的に棲み処としていた排水路の穴を見付けた。色々な想いが蘇るルノア…懐かしく思い排水路の中へと入ってみようとすると、排水路の入り口を塞ぐ何かが居るのを認識した。透明なようで、でも少し濁っていて、液体のようで、でも少し固形物を含んでいるようで、得体の知れない何かがそこに居るのを理解し戸惑うルノア。
「そなたか…」
そう聞こえたかと思うと、排水路を塞いでいた何かは、いつのまにか消え去っていた。突然の事に戸惑いつつも警戒しながら排水路の中へと慎重に入り進んで行くルノア。排水路の奥には二匹の獣がおり怯えて興奮状態であった。
「やぁ…、初めましてこんにちは。私はルノアと言います。あなた達はどうされたのです?」
興奮状態の二匹の様子を見て、丁寧に温和に語り掛けるルノア。
「うぅ…おぉ…、どうやら助かったようだ…。ルノアさんが来てくれたお蔭で得体の知れない何かは居なくなったようだ、感謝します。うぅ…、お蔭でルナも無事だった…」
「うぅ…、おっと、自己紹介がまだでしたな、私はエティと言って見ての通り大型の犬です。うぅ…、こちらにいるのは…」
とエティが背中に居る獣を紹介しようとしたところ、空元気を出して発言する小さい獣がいた。
「はいはーい!あたしはルナと言って猫だよ!これでも空中戦は得意なんだから小さいからって馬鹿にしないでね!」
そうエティの背中の上でジャンプを披露しながら応えるルナ。ルナは子猫のような小ささで真っ白い毛並が綺麗に整えられていた。エティは体格が良く茶色の毛並で少しボサついた部分も目立ったが、ふっくらとした毛並が包容力や温かさを滲み出していた。
「自己紹介ありがとう!二匹はなぜこんな所にいたのだい?そして、さっきの得体の知らないものは何だったのだろう…」
ルノアは友好的に努めようと意識しつつ疑問を投げ掛けた。
「うぅ…、私は幼い頃は人間に可愛がられていたのですが、大きくなると可愛がられなくなり捨てられ野良となりました。うぅ…、それからはゴミを漁ったり虫を食べて生きていましたが、ある日ゴミ捨て場に捨てられていたルナを見付け保護し共に過ごすようになったのです」
「うぅ…、あの得体の知らないものは何がなんだか…。ルナと一緒に川の水を飲んでいたらいきなり襲われ無我夢中で私達はこの排水路へと逃げ込んだ所でした…」
エティの「うぅ…」は癖なのだろうか?ふと疑問に思いつつも流すルノアにルナが話し掛けてくる。
「そーそー!あたし達は水を飲んでいただけなのに、いきなり襲ってくるなんて失礼しちゃう!」
そう声を上げながらエティの背中の上で毛を逆立てて威嚇のポーズを披露するルナ。そんなルナを背中に乗せながらエティがボソボソと呟く。
「うぅ…、出逢ったばかりで申し訳ないのですが、私もルナも何日間もまともな食事にありつけていなくて…。うぅ…、もし良かったら食事にありつける所を知らないでしょうか?うぅ…、知っていたら是非とも教えて欲しい」
それを聞いたルノアは一瞬迷いが生じた、状況に巻き込まれる形でこうはなったが、未だハッキリと平穏に過ごしていくか理想を追って再起するかを決め兼ねていたのであった。そう迷いつつも、エティとルナに過去の自分を見たルノアは二匹を助ける選択をするのであった。
「解った、食糧のアテがあるから少しここで待っていてもらえるかな?」
ルノアは優しく言い聞かせるようにエティとルナに伝えた。
「うぅ…、ありがとう…ありがとう!」
「ルノア兄ちゃん!待ってるかんねー!」
二匹の返事を聞き排水路の元棲み処を後にし、七三一のいる家へと急ぐルノア。七三一はこの事自体は理解をして協力はしてくれる事だろう…。だが…、その後の事は?…。七三一に保護されてから恩返しらしい事は何一つ出来ていない。彼らを七三一の家に連れて来るには迷惑が掛かり過ぎる。再起するにしても七三一の家に過ごしながらでは他の獣に示しがつかない。やるなら…、七三一の家を出て野良になる必要がある…。足取りがふと止まり天を仰いで思案するルノア。七三一の下に居れば平穏無事な獣生が送れる。わざわざ危険を冒してまで野良になる必要があるのだろうか?しかし…、平穏無事な獣生に何の意義がある?先が解り切った未来に何の楽しみがある?あるのは消化試合のような日々ではなかろうか…?平穏な幸せ、安定した幸せ…確かにこれは掛け替えのないものだ…。しかし、この心の奥にあるもどかしさは何なのだ?そして先程頼られた時の嬉しさ…。嬉しさを思い出し再び歩き出すルノア。この嬉しさは何なのだろう?他の生き物から必要とされる喜び、自分の存在を認めてもらえる喜びか。そうこう考えている内に七三一の家へと辿り着いたルノアは室内で七三一の事を探すと七三一は椅子に座って本を読んでいた。
「おかえり、ルノア」
ルノアに気付いた七三一は、そう静かに声を掛けた。と同時にルノアの様子がいつもと少し違う事を感じ取って更に声を掛ける。
「どうした?ルノア?」
「あのね、七三一。ご飯を袋ごと一つ欲しいんだ。外でお腹を空かした動物と知り合って、彼らにご飯を分けてあげたいんだ…」
「…、解ったルノア。ちょっと待っててね。ルノアは優しいな…」
突然の事に驚きつつもルノアの気持ちを汲んだ七三一は、台所の横に置いてある餌袋を取りに行くのであった。そんな七三一を不安な心情で待つルノア。七三一にわがままなお願いをしてしまったかも知れない、七三一は嫌な気持ちになっていないだろうか…。
「お待たせルノア」
すぐに戻ってきた七三一は、そう言いながらルノアの傍へと近付きしゃがみ込み、ルノアが咥えやすいように餌袋を差し出しつつ、
「ちゃんと咥えられるかな?」
と、包み込むように優しく伝えた。それを聞いたルノアは不安が解消され七三一の好意を嬉しく思い、
「うん!」
と元気に応えた。そして七三一が手に持っている餌袋を咥え七三一を見つめるルノア。
「行っておいで」
そう優しく声を掛けルノアを見送る七三一。それを聞きルノアは排水路へと走り出すのであった。餌袋を引きずらないように顔を上へと上げながら走るルノア。走りながらエティとルナの事が脳裏に浮かぶ。彼らはしっかりと私の事を待っていてくれるであろうか?彼らの空腹はどの程度であろうか?早く行って彼らを満足させてあげたい。ルノアは他の獣から必要とされる自分の存在に対して意義を見出し始めていた。以前は理想と現実のギャップが激しく失敗を招いてしまった。今度こそ、今度こそは慎重に、着実に、理想を現実へとしていこう。そう心に秘め高揚する想いを抑えながらルノアは走り排水路へと辿り着くのであった。
「お待たせ!」
排水路に辿り着くなりルノアは喜ばせたい気持ちが逸って入口から餌袋を咥えたまま排水路の奥へと向かって叫んだ。
「あっ!ルノア兄ちゃん!待ちくたびれたよー!お腹ぺこぺこだよ!」
そうルナが明るく無邪気に返事をした。
「うぅ…ありがとう、ありがとう…」
エティは相変わらず謙虚な口調で返事をした。二匹の返事を聞きながら排水路の奥へと進むルノア、進みながらルノアの心は頼られた事に応える高揚と、期待を裏切らないようにする責任感が交錯し緊張していた。緊張しながら二匹の前へと歩み着いたルノアは餌袋を口から離し地面に置き、
「さぁ!食べよっか!」
と、明るく元気に伝えた。伝えると同時にルノアは餌袋の端を噛み破り穴を開ける。そして餌袋を逆さに咥え左右に振りながら袋の中の餌を地面へと出していくのであった。
「わぁー!ご飯だ!」
そう叫びながら袋から出てくる餌を早速食べ始めるルナ。
「うぅ…ルナ…。ルノアさんが全部ご飯を出し終えるまで待ちなさい…」
そうルナを窘めるエティであったが、ルナは空腹である本能に従って聞く耳を持たず食べ続けていた。そんなルナをにこやかな表情で見つめながら餌を出すルノア。おろおろしながら事の成り行きを見守るエティ。やがて袋の中の餌は全て外へと出し終わり、ルノアは餌袋を餌が落ちていない端へと置き、
「さぁ!みんなで食べよう!」
と明るく促すように伝えた。
「もう、食べてるもん!」
ルナが餌を食べながら無邪気に元気に応える。それを聞き温かい笑みを浮かべるルノア。申し訳なさそうな表情でルノアとルナの様子を伺うエティ。
「さぁ、エティもどうぞどうぞ!」
そんなエティを気遣ってルノアはエティにも食べる事を勧める。
「うぅ…、ありがとう…いただきます…」
エティの大きな口が山になった餌の中央へと近付きその大きな口にたくさんの餌を詰め込む。
「ちょっと!エティ!あたし達の分もちゃんと残しておいてね!」
食べながらも残りの餌の量を気にするルナ。
「うぅ…わかった…わかってる…」
口をもぐもぐ動かしながら申し訳なさそうに謝るエティ。
「ごはんは十分あるのだから、皆で仲良く食べよう!」
エティとルナのやり取りを見て、ルノアは二匹にそう伝えるのであった。そうだった、皆で仲良く共有する事が大切だったのだ。あの時は一方的に振る舞うだけで意思の疎通が図れていなかった。そういった行いが蓄積し瓦解へと繋がってしまった。同じ轍は踏まない、今度こそ、今度こそ…。ルノアはエティやルナが美味しそうにご飯を頬張る姿を眺めながら嬉しく感じると同時に自分に対して戒めるのであった。

 ご飯を食べ終わり満足いっぱいな気持ちで横たわるエティとルナ。そんなエティとルナを微笑ましく眺めながら考えるルノア。今はこれで食糧の問題がクリアされたからいいけれども、明日からの事はどうするべきか?そして自分の身の振り方も決めねばならない。七三一の下にいれば恐らく生涯安泰であろう…。しかし平穏な日々に満足出来るのであろうか?若き頃に抱いた夢を志半ばで諦めて良いのであろうか?現に今現在、私を慕ってくれる獣がいる、この獣達を見捨てて自分だけ安泰な場所で過ごす事に満足出来るのであろうか?…いや…出来ない。平穏な日々は刺激のない退屈な日々と実証済みだ。そして私自身の過去の過ちを正すには贖罪が必要なのであろう。何と言っても根底にあるのは幼少の頃に感じた深い悲しい想い…それらを昇華して活かすには、やはりもう一度再起してやり直す必要がある!そう決心したルノアは横たわるエティとルナに声を掛けるのであった。
「エティ、ルナ、聞いて欲しい。私は今は人に飼育される立場の獣だ。しかし以前は野良だった事もあった。野良であった時の食糧の確保の難しさは十分に知っているつもりだ。私は当時、独断的な行動により伴にしてくれた仲間を失ってしまった。その事を強く反省していると同時に、野良が貧困に喘ぐ事なく幸せな生を全う出来る事を考えている。私は今日より人に飼育される事を放棄し、エティやルナと仲間になりたい。良ければ私の願いを受け入れて欲しい。共に仲間として生きていきたいのだ」
突然のルノアの申し出に驚くエティとルナ。驚きつつも思考を巡らす二匹…。あまり深く細かい事には拘らないエティとルナは、今日自分達に多くの餌を分けてくれたルノアを評価する気持ちが高まっていた。
「うぅ…ルノアさん、ルノアさんには獣を惹きつける何かがあると思っていました。私達二匹では明日も知れぬ命、ルノアさんが私達を率いてくれるならば、それほど心強い事はない。うぅ…どうか私達をお願いします」
エティは懇願するかのようにルノアの発言に対して返答をした。そのエティの言葉に被せるようにルナが発言する。
「ルノア兄ちゃんは、ご飯をくれる約束をしっかり守ってくれたし頼りになる兄ちゃんだと思うんだ。これからもよろしくね!」
ルナは精神的な支えはエティの包容力に満足がいっていた、しかし物質的な現実的な部分においては少し不満を抱いていたのだが、ルノアにはそれを成し遂げられる才を見出していたのであった。その点を理解したルナはルノアの事を認め新しいリーダーとして慕い出すのであった。
「ありがとう!ありがとう…。私はとても嬉しい、これから仲間としてよろしく頼む!」
そう伝えたルノアは続けて、
「早速だが私は今までお世話になっていた人に別れの挨拶をしてきたいと思う。その間待っていてくれるだろうか?」
ルノアは低姿勢でお願いするように伝えた。
「うんうん!待ってるよ!ルノア兄ちゃん早く帰ってきてねー!」
ルノアの話を聞いたルナが明るく呑気に応える。
「うぅ…ルノアさん、ありがとう…。私達待っています。お早いお帰りを願っております…うぅ…」
エティは相変わらずの口調でルノアへとそう応えた。ルノアは二匹の返事を聞き排水路を後にした。七三一の待つ家へと走るルノア、走りながら七三一への説明をどうするか思い悩んでいた。七三一からの恩義を裏切る事になる、七三一が折角私の幸せを考慮してくれた想いを反故にする事になる。しかし、この心の底から溢れ出る想いの丈は何なのだ?七三一の下で平穏な一生を終えるよりも試してみたい夢がある!その事を正直に七三一に伝えるしかない。ルノアはそう決意すると同時に走る速度を上げ七三一の待つ家と向かうのであった。

 七三一の待つ家へと辿り着くルノア。
「やぁ、お帰り」
ルノアの帰宅に気付いた七三一は椅子に腰掛け本を読んでいたが、目線をルノアに向けそう伝えた。
「ただいま…七三一」
どことなく元気が無いような返事を受けた七三一はルノアを気に掛けた言葉を投げ掛ける。
「どうした?ルノア?動物達は喜んでくれたかな?」
「…うん、彼らは凄く喜んでくれたよ。嬉しかった!」
そうなるべく元気に応えたルノアは本題へと話を進めるのであった。
「あのね、七三一。七三一にはとてもお世話になって嬉しかったし、ありがたかったのだけど、どうしても叶えたい夢があるんだ。それは動物達がもっと幸せに平穏な日々を過ごせるようになる事なんだ。その為には僕はこの家を出て行かなくてはいけないと思ったんだ。七三一にはお世話になりっぱなしで何も恩返しが出来ていないけれども…」
申し訳なさそうに語尾のトーンが弱めになっていくルノア。
「僕は十分ルノアから恩返しをもらっているよ。ルノアと過ごす日々は楽しく穏やかなものだった。僕はルノアが居てくれるだけで嬉しかったんだ。夢の話は解った…。けれども、家を出て行かなくても良いのではないか?」
七三一は穏やかに淡々と応える。
「ありがとう!そう言ってもらえると嬉しい。家については、僕は主に困っている野良達を助けたいんだ。そうなると自分だけ人と一緒に暮らしているのは他の動物に示しがつかない。かと言って全ての野良を家に連れて来る事も出来ない。だから僕は野良に戻る覚悟をしたんだ!」
ルノアは覚悟をより強い意志とする為に語気を強く七三一へと語り掛けた。
「…そうか…。色々と僕への配慮をありがとう…。決心は既に固いようだね…?」
七三一はルノアの突然の申し出に驚き出しつつも、冷静にルノアへと応じた。
「うん…。七三一と一緒に暮らす日々は楽しかったし平穏で幸せな日々だった。けれども、そのままの一生で本当に良いのか僕には疑問が湧いたんだ…。同じ生きて死ぬなら挑戦し続けて死にたいと…」
ルノアは明るい表情や真剣な表情を織り交ぜつつ、時に言葉に詰まりながらそう七三一へと伝えた。
「…解った…。行っておいで…。ルノアの夢が達成される事を僕は祈っているよ。ただ、忘れないで欲しい。この家はいつまでもルノアにとって良き居場所なのだと。いつでも好きな時に帰って来て良いのだからね…」
七三一はルノアとの別れを残念に想いながらも明るく元気にルノアを送り出そうとした。
「…ありがとう!七三一!行ってきます!…」
別れを惜しむように精一杯の元気を込めて七三一へと伝えるルノア。伝えると同時にルノアは玄関まで走り出した。玄関に辿り着いたところで振り向き七三一と目を合わせる。数秒であったがルノアと七三一にとって長い時が流れていた。頑張っておいで、と力強く伝えようとルノアに向かって無言で頷く七三一。ルノアはそんな七三一の姿を見て憩いの場であった居場所を後にするのであった。



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