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W個展『Parallel World』を終えて

W個展『parallel world』が終了して3週間。
遅くなりましたが改めましてご来場ありがとうございました。大勢の方から温かいお言葉やご支援、感想をいただきまして、写真から伝わる力やことばの重みを改めて感じ、この写真展で得られたものは一生の思い出になりました。

ここでは、このW個展を通した自分なりの気持ち。特に変わったこと、そして変わらなかったことを書きたいと思います。
なお、一緒にやっていためふ氏ですが、10/28をもって名前が芽生(Mei)に変わりましたので、ここでもすべて芽生と表記させてもらいます。

一緒に創ること

これが一番変わったかもしれない。
撮りたい場所があって、僕のイメージがあって、イメージに合う人を配して、イメージ通りに撮る。人は風景の一部であり、風景に人が溶け込むことで情景に変わる。これが今までの僕の写真哲学。だけど変わった。いや、変わってしまった。

いま、僕にとっての写真とはモデルとの共同制作物という感覚だ。例えばみんながイメージしてくれる僕の写真であっても、お互いがアイディアを出して、どちらが主導するでもなくなんとなく話が決まって、イメージしたものも撮ればその時のお互いの感性で撮る、こんな作業から出来上がってる。

最近は衣装もモデルに委ねている。というか勝手に持ってきてくれるし着てきてくれる。何も言わなくても大概外れたこともないし、衣装じゃないというその私服でさえ素敵だ。今までに想像したことのない衣装であっても、きみが決めたのだから撮るし。特に違和感を感じたこともないしまぁだいたい撮れるよ。それで撮ったことのない絵が出てきたことも何度も。いいね。新しい発見って。

だから僕にとってのモデルとは写ってくれるひとじゃない。一緒に「創って」くれるひと。たまたま僕が撮るほうが得意で、きみが映るほうが得意で。それだけの話。共に表現者であって世に作品を出していくパートナー。それが僕にとってのモデル。むしろあなたが表現者であって僕が受け止めるだけの存在でも良いのもしれないとも思ってる。

結論から言うとモデル依存を強めてるのかもしれない。でもそれで良いと思う。上に書いたように僕一人の写真じゃないし一緒に創るものだし。良い意味での相互依存なら、それが良い結果を招くと思ってる。

ライティングをしなくなった

今までの僕。ご存知の方は基本、どんなときでもライティングするひと。
夜、昼、屋外、屋内…とにかく僕イコールライティングのイメージが強いと思うしそれで正解だった。「ライティングしてません」と書かないとわからないくらい。

それが、ここライティングいらんじゃん。邪魔だね。ヒカリ的にはあったほうがいいけど表情が撮れなくなっちゃう、とか。いろんな理由で地明かりで撮ることが多くなった。屋内でもLED1灯とか。そして暗い露出も怖がらなくなった。

面白いもので、光を探して撮るようになると、今までしなかったライティングもするようになった。アクセントだけ、背景だけ、フラットにするためのライティングなどなど。色かぶりも敏感になった。ヒカリの質にも敏感になった。ヒカリの質が欲しいから、使うボックスもでっかくなった。ソフトボックスより最近はオクタボックス最高。なんだろ。例えるならオーガニックを採るようになって化学調味料に敏感になったとか。知らんけど。

「ひと」を撮り始めた

僕にひとが撮れるのか。振り返ると実は大きなコンプレックスだったのかもしれない。「人」を撮り始めてもう5年目。今まで「ひと」を撮るのを怖がっていた気がする。

初めて「ひと」を撮った感覚に落ちたのはParallelWorldの2回目の撮影だった気がする。前日に急に決めた撮影。ライトも持たずひたすらシャッターを切り続けた。指示も一切しない。芽生が動く。商業モデルのようなかっちりした動きではなく、ふらふらと。魂があるのかないのかわからないほど。この世から消えてしまうのではないかと思う動き。でも不思議とシャッターが切れる。お互い無言だけど、動きは読めるし撮りたいところに来てくれる。気がついたら3時間は撮っていた。ここから僕の撮り方が劇的に変わった気がする。ParallelWorldのビジュアルイメージも、この時の撮影分だ。

Parallel World後、素朴な疑問で芽生に聞いたことがあった。なぜ俺と組んだんだ?と。最初に聞いとけよと思うんだけど、後から湧いてきた疑問だったんだ。答えは明快だった。「あなたとは一緒に創れるから」
なるほどね。俺はそういう立ち位置なのかと、すっと心に落ちたのを覚えてる。確かにあれやりたいとかここ行きたい(行くと確定された気も…)とかよく考えるとたくさん提案もらった気がする。その時の僕は ×振り回されてる ◯提案をたくさんもらってる 気しかしてなかったが、いま考えると、これだけグイグイ来てもらえてとても助かってたのは僕の方だった。

それでも美しいものが好き

美しい、というか「希望」。これ捨てたら自分の写真は終わりというかたぶん僕自身が作品に潰されてしまう気がする。どんなに暗くても、闇の世界観でも、最後に希望だけは捨てたくない。見る人映る人が幸せになってくれるような作品を作りたい。これだけは自分の中で変わらないなにか。それに加えられたとしたら、映ったひと、つまり一緒に作った人の人生のよいキロクになれれば良いなと。

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