【受験生必見】ドーヴ統一戦争まとめ② リックザブジット大戦〜ドーヴ統一政府
前回に引き続き、ドーヴ統一戦争の流れについてまとめていきます。
1911年
主従国と同胞国が国教国に侵攻を開始し、リックザブジット大戦が勃発する。
一方、ソターリア東部から侵攻するツェルニア海軍は、マラリン海でソターリア艦隊を撃破する。
しかし、冬に入ると戦局は膠着状態となった。
1912年1月
ソターリア首相カブクスが全面降伏を発表。
1912年2月
ソターリアのデロアベクで講和会議が開かれる(デロアベク講和会議)。
ソターリアに課された講和の条件は以下の通り。
国教国は賠償金を支払う。(バーデルタ国際会議当時の金額を上回るもの)
ラフ大陸における植民地の割譲。
ソターリア西部4国(ウィルッサ、キュー、バラトナ、マチルチノ)の解放
ソターリアの軍縮(自衛に必要な最低限度)
これらと引き換えに、主従国・同胞国はソターリアに対する不可侵条約を結び、国教国の主権が確保された。
1913年
ソターリアの軍縮完了に伴い、主従国・同胞国両軍が撤退する。
(リックザブジット大戦の終結)
1914年
ドーヴ首相カイマーが、賠償金の免除と引き換えに国教国陣営にババド条約機構への参加を提案する(ドーヴによる属国的間接統治)。
これに伴い、同胞国・主従国・国教国の枠組みもゆるやかに崩壊していく。
1915年
元同胞国のツェルニアは、前年の動きをドーヴによるソターリア不可侵条約違反とみなし、国際会議を招集した。
その国際会議ではドーヴに対する経済制裁が決議されるが、カイマーはそこで国際会議からの脱退を表明した。
それに続いて、元主従国からはミレージュ・ゲレー、元国教国からはソターリア・ユベルク・ウーガルが脱退した。
1916年
ドーヴがヴルベ事件をきっかけに隣国トイドナに侵攻する。ゲレー・ミレージュも参戦した。
1917年ごろ
ババド統一軍が結成される。
これは元同胞国陣営の戦力を圧倒するものであり、彼らはアメジスタに援軍を依頼した。
アメジスタはエンテカリア情勢に関わらないとして援軍依頼を拒否したが、元同胞国からの亡命者を多数受けいれるなどの人道的協力は惜しまなかった。
バーデルタ首相ハルーアは、ドーヴと自国の間に位置するホッドルフ・キエンドルフ両国を最終ラインとし、ドーヴがこの二カ国に侵攻すれば自国も直ちに参戦すると宣言した。
(ハルーア・ライン)
この頃ホッドルフ国内では、ババド条約機構参加派と同胞国派が対立していた。
1917年9月8日
両派の対立が激化し、内戦状態となったホッドルフにドーヴが侵攻する。ホッドルフ国内のドーヴ系民族保護を名目としたものであった。
ハルーア・ラインが侵されたことにより元同胞国陣営がこれに参戦した。
(ドーヴ統一戦争の開戦)
戦争はババド統一軍の優勢で進んだ。
統一軍最高司令フォルカ・クリュンケはリックザブジット条約期に計画していた作戦を用い、東エンテカリア海軍をユラオスト洋からツェルニアに侵攻させた。
1921年
ホッドルフ・キエンドルフ降伏。
1922年
バーデルタ・ハルボニア降伏。
1924年5月20日
ツェルニアのモンス首相が降伏宣言を発表する。
1924年6月15日
キエンドルフ統一会議が開かれる。ホッドルフ、キエンドルフ、バーデルタ、ハルボニア、ツェルニアを構成主体とするドーヴ連邦が形成される。
ババド条約機構はドーヴ統一政府と改名され、ドーヴ連邦と条約機構諸国がその構成主体となった。
カイマーはドーヴ連邦首相を辞任し、ドーヴ統一政府の総帥に就任した。
その③に続く……
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