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わたしの幸せの基準

わたしの幸せの基準は、
死にたいと思わないこと

何故そう思うようになったのか、高校生の頃から付き合いのある鬱病のことを少し書いてみようと思います。

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私にとっての「幸せ」を思い返すと、その時々によってだいぶ違います。

幼い頃は泥だんごをピカピカにすることを極めていたし、一輪車の練習で距離が伸びていくのも楽しみでした。美味しい給食を食べている時間が幸せで、皆で話しながらの帰り道が楽しみ。学生になると友人とのお昼が楽しみだったし、部活と委員会は目標があって楽しく幸せでした。

そして、高校生の頃に鬱病と診断され、わたしの幸せの基準は大きく変わりました。


鬱病の苦しみから解放されたいという気持ちから、最初の幸せの基準はこの世から消えること。何も感じたくないから私を消してほしい、消えたい、そのことしか考えられない。この思考は厄介で苦しくて周りに理解されづらかったです。

毎日毎時毎分毎秒、ふとした瞬間に死にたいと考える日々を経験しました。

そして、長い年月をかけてその思考は少しずつ薄くなっていきました。

毎日起きて死にたいと思うことから始まらない日々がどれだけ幸せか。何か不安なことや心配ごとが出てきても、死を考えずに不安なことや心配ごとそのものを考えられることがどれだけ凄いことか。今どう死なないかではなく、一時間後、明日、明後日、未来を考えられることがどれだけ凄いことか。

私は、死にたいと思わないことの幸せを知りました。

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現在、私の鬱病はかなり改善しています。

死にたいという気持ちが出るかどうかは、今でも自分の状態を測る基準になっています。2023年1月1日には「去年一回も死にたいと思わなかった」と気づき嬉しくて泣きました。

幸せの基準は変わっていくものです。

今後、わたしの幸せの基準はどう変わっていくんだろう?と考えると未来が少し楽しみになります。


読んでいただきありがとうございました!
みなさん幸せな日をお過ごしください。

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