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愛と幻想の芸術論

セクハラに絡む京都造形芸術大学訴訟の件。に絡むけどちょっとずれたところのお話。

「モデルを〇〇ネタ」(下ネタ)にしたというのは、会田誠さんの説明を拝見して、本気で語った内容だったのだということは伝わってきました。
たぶん、べつに引き受けなくてもいい立場の中で、これからを担う芸術家のためにやってくださった講義なのだろうとも思いますし。

そのうえで。
妄想だけなら言論の自由の範疇だけど、実際したことを公言しちゃうのはアウトだろう、という批判が起きるのも自然だし(なんの物議も起きないならそっちのほうが問題提起として成立しない)、されとて”セクハラ”として規制すべきかといえばそれは違うかなと思わなくもない。
このタブーにあえて触れることに意義があるというのも意見としてわかるから。そのために自分の体験談まで出したのだろうから(出さなくても話はできたのではとは思いますが)。

けっこう複雑な位置のことで、あまり突き詰めて考えない方がいいような気がする(笑)。


この発言の意図は、一つの問ということなので、自分なりに考えてみました。

美術に関係する人のいろいろな意見で批判派の中で多かったのが、「画家ならヌードモデルへ敬意を、それが美術界の倫理でありモデルとの信頼関係」ということらしいんですね。

こういう価値観を共有することは素敵だなと思った。
たぶん、一般人が思うよりも重要なポイントなのだろうと。


ヌードモデルが安心して人前で脱げるのは、そこに集まっているのが紳士・淑女だと信じているからだよね。
だから扱う側は、その信頼に応えなくちゃいけない。キレイゴトで覆い隠すのは、"嘘"かもしれないが、"誠意"でもある。

たとえそれが幻想であったとしても、その美しき幻想が守られる美術界であってほしいなと自分は思う。





ほかにも、原告の主張への疑問とか、大学の対応はおかしいよねとか、セクハラかはともかく乳首つついたのはあかんのとちゃうとか、いろいろ思うことはあるけど、めちゃめちゃ長くなるうえに微妙な問題なのでちょっと省く。

ツイッター(@torarudo117)で書いた「過激な作風の人ほど紳士的(淑女的)でなくちゃ」というのは個人的美学で、強制するつもりの話ではないです。定義のあいまいなものですし。ワイも人から見れば「オメーは紳士でもなければ淑女でもねーよ!!」と言われてしまうかもしれない。

あとフランクな態度やアダルトジョークが一切いけないということでもないので、誤解なきよう<m(__)m>

意識の問題として接する相手に常に敬意を持っていたいよね、くらいの話です。

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