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【夢小説 014】 夢伍位「気分屋ロリヰタ そらを飛ぶ(2)」

浅見 杳太郎ようたろう

 僕らの陰鬱いんうつな行進は続く。

 早く、宿舎に行き着いて酒が飲みたい休みたい、と思うから、辛くても、つい早足になる。次第に団員同士、競走しているかのような錯覚に陥る。そして、その錯覚は疲労や空腹と共にすくすく育ち、ついには、一人でも先んじて宿に着かねばならぬ、という強迫観念となる。

 加えて、鬱気うっきを誘う風景に、加速度的に沈んで行く太陽、さらに、いつ雨粒を落とすか知れぬ不穏な黒雲。皆、無口になるのも無理はない。特にファゴット男は、確かに気の毒だった。裸で楽器を持ち運ぶなんて、無茶なことだ。まず機動性を損なうだろうし、何より楽器の安全が気がかりだろう。潮風や驟雨しゅううにやられるかもしれない。彼が愚痴の一つや二つを云いたくもなるのも、当然なことだ。

 しかし、僕に云ってどうなる。なぜ、僕に云う。

 チェロをトラックに積んで貰っているからか。それとも、と僕は思う。

 それとも、あの娘のことでの、やっかみか。ファゴット男は、粘度のある眼差しで、僕をじっと見ている。


 あの娘は、先月、団に入ったばかりだった。まだ大学生だろうか。いや、高校生くらいにも見える。とにかく、幼いと云っても良いほど、若々しく見えた。華奢きゃしゃな体つきが、そう見せるのだろうか。いずれにしても、学生に違いない。ちょうど夏休みの時期だから、どこかで僕らの楽団のことを耳にして、思い出作りとばかりに、ちょっと参加してみた、といったところだろうか。

 あの娘には、芽吹くような若さもさることながら、生活を負っていない玲瓏れいろうたる清らかさがあった。世の中の全ての事象を、自分を育てる甘雨かんうとして、欣然きんぜん、受け入れているような、涼やかな健やかさがあった。この団での演奏も、彼女はとても楽しそうにこなしていた。つい最近始めたばかりだというヴァイオリンを夢中に操って、頬には愛嬌ある笑窪えくぼを作りながら、溌剌はつらつと弾いていた。その前向きな精神が、技術の向上に都合よく作用したのか、それとも元々豊かな才能があったのか、たぶん二つながらに揃った所為せいだと思うが、実にこの一月で上達した。目を見張るくらいに上手になった。

 団員たちにとって、演奏活動は仕事だった。日々の申し訳程度の練習は、客の要望に必要最低限応えるための、義務感から行われている一業務に過ぎなかったし、地方巡業だって、客を探し求め金を拾うために、已むなくうろつき廻っているだけのことなのだ。練習も地方行脚あんぎゃも、やらなくて済むものならば、やりたくない。それが団の人間の偽らざる本音だった。彼らは、そんなこと口にはしない。しかし、見ていれば分かる。

 でも、あの娘は違った。

 彼女にとって、練習は日々の糧で、公演は多くの人との交流の場だった。そして、地方廻りは新しい世界へと繋がる刺激的な扉だった。そんなふうに、僕には見えた。嬉しくて楽しいから、やっているのだ。

 あの娘は、団の中で異質だった。年老いた団員は、さも不思議なものを見るように、彼女を眺めた。少し若い団員は、彼女の未成熟なからだ初心うぶさに、露骨なまでに物欲しげな視線を投げつけた。そして僕は、彼女の、白波が打ち寄せる磯の香りのような、命を感じさせる健やかさに、只々ただただ、ぼんやりと憬れた。

 そんな僕に、思いがけないことが起こった。彼女と初めて話が出来たのだ。あれは、今から一週間くらい前、フェリーで本州の港から一時間ほど海上を走らせたら着く、人口三万人程度の島に、演奏をしに行った時のことだった。

 島に渡るフェリーの上で、僕は一人海を眺めていた。すると、到着予定時刻まで、まだ随分あると云うのに、忽然こつぜん、島がぽっこりと現れた。おかしいな、と思った。到着するには、まだ早過ぎる。僕は船尾の甲板の上で、その不審な島の遠景をじっと見詰めてみた。それは、随分とまらないものとして僕の目に映じた。霧がかって、酷く覚束おぼつかない感じがしたのだ。船が進むに従って、その島影は徐々に確かなものになってきたが、それに伴って、貧相に赤土を露出させた荒廃の土地がきっかり認められるに至り、僕は愈々いよいよ、幻滅した。

 まだ、午前ひるまえだというのに海は黒く、スクリューに巻き上げられる澎湃ほうはいとした泡のうねりだけが、その黒洞々こくとうとうたる海面に、一筋のにじんだ白いみおを描いていた。夏の日中のくせに、この暗さは何なのか。僕らを迎える、あの痩せこけた背の低い山々は、一体何だというのか。僕は、船に乗れると聞いて、少し浮かれていたが、他の団員らが甲板にも上がって来ないで、じめじめする船室にじっとこもっている訳が分かった気がした。

 僕は、この島の愛想のない出迎えを受けて、自分の浮薄ふはくを詰りたくなった。船に乗ろうが、列車や乗合バスに乗ろうが、僕らは所詮しょせん、仕事に行くのだ。頑是がんぜない子どものように、乗り物に心踊らすとは、我ながら無分別なことをしたものだ。島の酷薄な歓迎を受けて、僕の取った行動は明確に誤りで、他の団員らの無関心こそが正解だったと、僕は自分の稚気ちきを一人恥じた。そして、この単調な船足と、無愛想な島の横っ面に、僕は心底げんなりとした。飽き飽きとした。

 島はもう目の前に迫って来ていた。にもかかわらず、エンジンの回転は一向に収まる気配を見せない。それどころか、船は赤土の山とはてんで見当違いの方に向かって、淡々とすまし顔で進んで行く。そして、ついには、あの無愛想な赤土さえも、後方に姿をくらませてしまった。見えるのは、霞がかった退屈な黒い海ばかりとなった。島は、どこまでも僕らを歓待する意志がないものと見える。その無礼を見て取ったフェリーが、憤慨ふんがいして舵を切り、ぷいと引き返してしまっているのだろうか。海しか見えないとは、そういうことだろう。

 僕は、これで今日の仕事は休みかなと思い、無気力に嘆息した。その時、半袖のワンピースを着た少女が、僕のすぐ隣の鉄柵に白く滑らかな肘を付けてたたずんでいることに気が付いた。何時の間に、そこに居たのか。まさか、ふわりと、空から舞い降りてきたのではあるまいか。そんな子供じみた空想をしてしまうほど、その少女の佇まいには浮遊感が付きまとっていた。涼しげなワンピースが、優しく風と遊ぶ。少女は、夏らしい空色のサンダルを履いて、爪立って海を覗き込んでいた。その時、僕はようやく、豊かな磯の香りを思い出した。僕は今まで、この黒い海に、轟々ごうごうたる波濤はとうの騒音しか聞かなかった。この黒い海にも、僕の好きな匂いはあったのだ。

 少女は、鉄柵にひじを預け、両手の甲で柔らかそうな頬を支えていた。そして、眼下で踊り狂う水沫みなわの複雑な運動や、船が波立て後方に残すはかない一筋の線描せんびょう、そういった即興芸術に、幼い瞳を潤ませ熱心に見入っていた。僕は、彼女の夢見るような横顔から目が離せなくなった。その不躾ぶしつけな視線を敏感に感じ取ったのか、少女はくるりと顔だけを、僕の方に向けて来た。柔らかく折りたたんだ手の甲は、そのまま両頬に添えられていて、頬っぺたに挟まれた唇が、まるで家鴨あひるのように、むにゅうと正面に突き出ていた。その顔は、形の良い大きな二重のひとみ相俟あいまって、妙に人懐っこく映り、僕はぷっと笑った。失礼だっただろうか。とても可愛らしかったのだ。

 少女も唇をとんがらせたまま、僕につられて、ぷっと吹き出した。そして、ほら、と彼方を指差した。

「ほら、島が見えてきました」

 ほんとうだ。確かに島が見える。

「おかしいな。さっき、通り過ぎたはずだけど」

 ぐるりと一周廻って来たのだろうか。それとも、さっきの詰まらない島は目的地とは違う島で、今見えているのが、僕らが目指す島だったのだろうか。僕は一人ごちて、そんな疑問をぽつりと口に出しそうになったが、少女に世間を知らぬ奴と思われるのも厭なので、思い留まった。

「入り江だったんです」

「えっ?」

「おっきな入り江だったんです」

「い、りえ……ああ、なるほど」

 そうなのだ。さっき目にした赤土の山は、入り江の片側の陸地で、その姿がすぐに見えなくなったのは、大きな湾に差し掛かったからだったのだ。その後、船は入り江の外周をすーっと舐めて、そうして、もう片方の陸地が、新たに見えてきたという訳だ。おそらく、この島は、アルファベットのCのような形をしているのではなかったか。大きな入り江に分断されて、まんまと島二つを経てきたような気にさせられたのだ。

 それにしても、この少女が、何の逡巡しゅんじゅんも挟まず、あの島の切れ目の巨大な黒い海を、入り江と看破したのには、随分と驚かされた。島の形なんて、上空からでも眺めなければ、判りっこない筈じゃないか。それを彼女は、まるでついさっき鳥になって俯瞰ふかんしてきたのだから間違いない、とでも云わんばかりの確信に満ちた声音で、入り江であると断定したのだ。これは、もしかすると、空から少女が降って来たという僕の小児病的な空想も、あながち間違いではなかったのかも知れない。なんて。

 新しく見えてきた陸地には、豊かな森や丘陵が見えた。鬱陶うっとうしい霧も俄かに晴れてきて、太陽の光線が、四方に散り始めた霧の粒子をさわさわと縫って、ゆっくりと、気まぐれに、甲板や海面を照らし始めた。海はもはや黒くはなかった。深くて鮮やかな紺青こんじょうの色を悠然と湛えていた。そこには、黄色もあった。赤に橙、緑に白など、その他にも、名状しがたい玄妙な色彩が漲溢ちょういつしていた。それらの彩りは、千変万化、ちらちらと海上を踊り、ひと時も一つの色に落ち着こうとはしなかった。僕は、万華鏡のような、この無限の変化を楽しんだ。こんなにも僕の眼をたのしませるものに、今まで気が付かなかったとは。僕は、我ながら、自分の無感覚を怪しんだ。

 世界は、変わる。

 色彩も、匂いも、他人も、僕も、株価も、秒針が指し示す数字も、みんな変わる。瞬間瞬間が初体験で、だから、飽きるなんておかしいのだ。飽きるなんて、そもそも出来やしないのだ。僕らに出来るのは、感覚を閉ざすかそうしないか、物事を諦めるかそうしないか、ただ、それだけなのだ。

 僕は隣に居る少女を眺めた。新しい島影も、明るい陽光も、千万の色を湛える海も、心地よい磯の香りも、まるでこの少女が運んできたようではないか。

 この感動屋め。

 僕は苦笑した。まったく、我ながら年甲斐もないことを考えるものだ。しかしながら、潮風にワンピースをさわりとで上げられ、きゃなどと云って邪気なく笑っている少女と、こうして甲板に一緒に居られて、しかも言葉をかわすなど出来て、僕は確かに愉しかったのだ。少しぐらい浮かれても、ゆるされやしないだろうか。

つづく。


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