【夢小説 009】 夢肆位「飛行機と半券(1)」
浅見 杳太郎
飛行機が、ぼくの目の前に座っていた。今の今までこの公園で遊んでいたというのに、まったく気がつかなかった。
こんなおっきなものが、何の前触れもなく、その白くてつやつやとした尻を公園の芝生の上に乗っけているなんて、おかしな話だ。このどこにでもあるような公園に、ジャンボ旅客機が場所もわきまえずに姿を現したということは、ひどくぼくを恥じ入らせた。
こんな突拍子もない光景は現実のものであるはずがなく、そういったヘンテコな空想にふけるなんて、もっと小さな子のすることだ。小学校の高学年にもなって、ぼくは何て幼稚なんだろう。
ぼくは、言葉にはできない「何かいけないもの」を見てしまったような気がして、周りの子たちに対して、後ろめたさを感じないではいられなかった。こんなおとぎ話のような空想に思いをめぐらすなんて、好きな女子のことを考えるのと同じくらい、恥ずかしいことだ。お腹の下がムズムズしてくる。
そうしてぼくは、きゅっと締めつけられた下腹の切なさに耐えかねて、あそこを両手でにぎにぎ揉み始めてしまう。
ぼくは周りの世界に置いてきぼりをくらうと、あそこを揉むクセがあった。初めは「何か」、例えば分数の割り算だったり、鉄棒の逆上がりだったり、そういった「何か」につまずいて、クラスの友だちなどに取り残された焦りから、腹に向かってきゅっと持ち上げられたタマを、下のあるべきところへ戻してやるために、仕方なく揉み始めたのだったと思う。そして、それがいつしか病みつきになってしまったのだ。
ぼくの住む世界には、ぼくを置いてきぼりにするものが多すぎると思う。だから、ぼくはこんなにもたくさんあそこを揉まなくっちゃいけないんだ。
少し前に、体は人一倍大きいけれど少しトロいところのある、猫背な同級生のあそこを、おしっこの時に横目でちらりとのぞき見たことがあった。タマがしわしわとしていて、ぼくのよりも大きくふくらんでいた。うちの庭にあるほおずきの実と少し似ていた。そして、そのタマからはちりちりとした黒い毛が生えていて、言いようもないほど気持ち悪かった。
きったねぇーと思った。
ぼくももう少ししたら、あんなきたないものを股の間から垂らすことになるのだろうか。あんなにでかく腫れぼったくなって、重たくないのだろうか。毛が当たって痒くないのだろうか。自分で見ていて、きたなすぎて触れなくなりはしないだろうか。
そうしたら、おしっこの時はどうするのだろう。支えを失ったあそこは、まるで放っておかれたホースのように暴れまわって、きっとおしっこで便器中を汚し散らかすに違いないんだ。
あんなきたないタマでは、いざ焦りを感じた時に、揉めないんじゃないだろうか。そうしたら、ぼくは、あのきたなくて重たいほおずきみたいなタマを股の間にぶら下げたまま、世界に取り残され続けるんじゃないだろうか。
そんな不安をぐるんぐるん考えながら、あそこを揉み続けていると、ふと他の子もみんなして、爪先立ってこの巨きな怪鳥の鼻先を見上げたり、左右を落ち着きなく見回したりしているのが目に入った。
ああ、なあんだ、この場違いな飛行機は決してぼくだけの空想の産物なんかではなくって、ちゃんと「ここ」に「ある」のだ。だって、他の子たちが、ふあぁ~とか、なあにこれぇ~とか言ったり、ただぽかんと口をだらしなく開けて眺めたりしているのを見ていれば、わかることなんだから。
ぼくがほっとしてあそこを揉んでいる手を離すと、今度はその手を、ぼくのより小さくて柔らかい手が素早く捕まえてきた。妹の手だった。妹は、ぼくが揉んでる時は、決して手をつないでくれとせがむことはなかった。小さいなりに、いや、小さいからこそ敏感に、ぼくのその行為の真剣さ、必死さみたいなものを感じ取り、邪魔しちゃいけないと思ってくれているのだろう。妹は、ぼくが揉み終わるまで、いつもおとなしく待っていた。そして、今回もそうしていた。
ぼくは、この小さい手の感触で、妹がいたことを思い出した。手の平がいつもより冷たかった。妹も、この突然現れた鉄の鳥をじっと見つめたまま、身じろぎもしなかった。何か言葉をかけてやろうかと思ったけれど、ぼくの喉は妙に渇いていて、うまく声が出せなかった。
その時、にわかに、ぷしゅーっとその怪鳥の横腹についていたドアが開いた。すると、それを合図に、どこからともなく中型犬くらいの大きさのネズミが、バタバタと砂を巻き上げながら、一匹、二匹と、公園の中に走りこんで来た。忙しそうに駆けまわっていたから数えにくかったけれど、たぶん、十匹くらいいた。
そして、そのネズミたちは、チューチューチューチュー、綱引きの綱みたいな尻尾をにょろにょろとふりまわしながら、車輪つきの階段を、怪鳥のドアの方に向けて、押したり引いたりし始めた。
こんな大きなネズミは初めて見た。臭いがひどい。汚れや垢、それに埃で毛が脂っこくダマになっていて、ところどころ禿げて見えた。階段は車輪がついているとはいえ、やっぱり重たいみたいで、彼らは一生懸命チューチュー悲鳴を上げながら、すごい形相で力んでいる。ネズミにも人間みたいな表情があるとは驚きだ。それに、ネズミの汗も初めて見た。禿げたところなんかには、ぷつぷつと玉の汗ができている。
階段がドアに据え付けられると、飛行機の中から一匹のヤギが出てきた。オスのようだった。一丁前に二本足で立ち、ロココ時代の貴族みたいに、洒落た半ズボンとぴらぴらで飾り立てられたベストを身につけて、得意そうにしている。このヤギ貴族は思ったよりも太くて張りのある声で、ぼくたち子どもらに向かって演説をぶった。
「諸君、ワガハイはヤギー・ド・トッケンブルグ伯爵であるメ~。善良で心正しき諸君らには、ワガハイから招待状を送りたいと思う、メ~ぇぇ。今からそこに控える十匹のネズミたちがチケットを配るから、メ~ぇ、それを受け取ったら、ここの階段を昇って機内に搭乗したメェ~」
ヤギー・ド・トッケンブルグ伯爵は、語尾に思わず出てしまう「メェ~」という自分の鳴き声にいちいち驚いたり恥ずかしがったりしながら、そのたびごとに、前足の蹄を器用に操って、口の下に垂れ下がるまばらな白いあごヒゲをこね回した。ネズミたちは、そのトッケンブルグ伯爵の珍妙な演説をふるふる震えながら静聴していたが、
「さあ、ネズミども、配りたメェ~」
という伯爵の号令を合図に、弾かれたように動き出し、公園の子どもたち一人ひとりのところへ、一匹いっぴきが競走馬のギャロップのような大げさな走り方で駆け寄って行った。そうして、チュチュと息を切らしながらも恭しく、彼らの垢やら汗で汚れた招待状を手渡していくのだった。
その招待状はトッケンブルグ伯爵のヤギ印の紋章が押されていて、なかなか立派なもののようだった。
「ようだった」と言うのは、ぼくと妹の前にはネズミが来なかったからだ。公園の中には十二人の子どもがいて、ぼくたち兄妹は伯爵の招待から漏れたというわけだ。招待状をもらった子たちはネズミらに促されるがまま、階段を昇り、伯爵に招かれて飛行機の中に一人また一人と消えて行った。
妹は今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「ねえ、ぼくたちも行ってみようか? もしかしたら乗せてくれるかもしれないよ」
ぼくは妹の顔をのぞき込みながら話しかけてみたけれど、うつむいていて返事はなかった。目を細め、口をとんがらせて、見る見る顔がくしゃくしゃになっていく。ほっぺが赤い。だめだ、泣く、泣いちゃう。
ぼくは、決めた。乗せてもらおう。ちゃんと、ぼくたちのケンリを伯爵に主張するんだ。三、四年生のころに担任だった先生も、こう言ってたじゃないか。
――他人に何かしてもらいたいことがある時は、しっかりと口に出して言うこと。自分の気持ちを伝えるよう実際に動くこと。じっと下を向いて、誰かに自分の気持ちを察してもらえるまで待とうなんて考えてちゃあ、だめです。下ばかり向いてだんまりじゃあ、何て言うのかな、いじけてるわ。
さばさばとした若い女の先生だった。ぼくはその話を聞きながら、じっと下を向いて、もみもみ揉んでいた。その時は、何だか怖い先生だなあと思った。
つづく。
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