【自分がやる前提では無いソリューションに感じる軽薄さについて】

昨日はファシリテーション演習の授業。毎回、楽しく、エキサイティングな授業をチームティーチングで作って実践している。皆で創り、皆で練る。
そんな授業なのだけども、再来週から僕のターム。そろそろ考えなきゃなー。と思っていた矢先の昨日の講義、学生に協同学習をさせて意見もまとめて、発表させて。発表した彼等彼女等が考えたことは、どれも良い意見で、少なくとも僕は大学生の時は、そんなことは考えなかったことばかり。
ただ、なんか「言葉の軽さ」を感じた。
言葉に重みがない、実感がない、耳には聞こえるが、心は聴こえない。なんだろ?と違和感を感じた。
しかも、なんか、懐かしい違和感。
およよ?と思い出しなが。時間は過ぎ、教員同士の打ち合わせに。

話しながら、気づいた。

所謂、上位大学における学生が仕事に関して話す時の違和感だった。
彼等彼女等は、成績も良い。知識も考えることもできる。何か課題発見解決策を考えよと言ったら、喜んでやる。良い意見をいう。
しかし、そこに、「リアリティ」がない。
リアリティが無いとはなんだろ?と考えたら、
打ち合わせで出てきたのは「自分たちがやる前提ではなく、誰ががやる前提の意見」と、聞いて、そおおおだ!と気づいた。その前提での意見なので、自分たちがやるときの課題や問題、気にするべきことをすっ飛ばした意見。なので、軽く、薄い。心に響かない。当事者意識ではなく、他責な意識は人には響かない。

そんな関東の上位学生との思い出を思い出した。
(もちろん、全員がそうではなく、そういう学生が僕の周りにいただけかもしれない、悪しからず)

なぜ、ここで、その懐かしい違和感を感じたのか?
本学は、やはり、レベルが上がって、成績がよい学生が入ってきたんだ。そういう大学や学部に変わりつつあるんだ。たしかに学生の質は変わっている。所謂、成績の良い、勉強ができる学生が来始めている。しかし、それは同時に、リアリティをその学生たちは重視しているかどうかの変化が生じ始めている。
かつてはスポーツ系の学生が多かった。(今もいるが、割合は減った。)スポーツ系の学生は、確かに成績が良いわけではなかったが、リアリティに立ち向かっていたので、やはり、言葉の選び方や使い方が、地に足がついている感じがした。 その比較対象や、たまたま前の時間に自分のプレゼンをしたら学生が実際に働いていて、その実感からの迫力あるプレゼンを見たからか。

課題解決を実行するときに、チームで動くとき、いかなるリーダーシップが必要なのか。いかなるコミュケーションが必要なのか、人に伝わる、響くとは何か。

それを感じさせて、対自己、対他人、対社会へのリーダーシップが育まれるのでは無いだろうか。
もともと、コンピテンシーに依存したPBLから、PBLに必要なリテラシーを学んだ上でのPBL。しかし次は、実行するためのコンピテンシーに戻っていくべきなのだろうか。いや、リテラシーとコンピテンシーをスパイラルモデルで、システム的に育んでいくべきなのか。

そんな事を議論していた。そしたら、会議に遅れた💧

急激に、志願者数増加により難易度と学生数が上がった本学ですが、そろそろ足元を照らす、現場でのリーダーシップが必要なのかもしれないなと思った。

と、偉そうに書いているが、何をするか、全くの白紙である(ドヤっ

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