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【コーヒー淹れるのたのしいよ】好きなように淹れてみろ

 カラカラン……

 またおまえか。何しに来た。ここは珈琲屋だが、おれはおまえに珈琲を淹れたりせぬ。珈琲は自分で淹れろ。おれは以前おまえに、自分で珈琲を淹れることの楽しさの一端を話した。なので、勝手に楽しめ。

いきなりアレですが、ぼくが出張コーヒー屋やってる経験とかをもとに、珈琲の淹れ方について、なんか書きます。

 珈琲のハンドドリップについてヒヨッ子おまえは、勝手に淹れろと言われても実際には、萎縮し、ハンドドリップをおこなう手は震え、珈琲豆にもその緊張は伝わり、うまく味が抽出されないか、過度な抽出でエグくなってしまい「なんだ、珈琲なんておいしくなく、つまらないじゃないか」とか言って、せっかく買ったドリッパーを仕舞い込み、月日は流れ、やがて育ったおまえの子どもは押し入れから見つけたドリッパーをつかってアサガオを育てはじめたりする始末だ。ドリッパーの形状に小型の植木鉢としての機能性があることに気づいたおまえの子どもは偉いが、おまえが偉いわけではない。おまえは珈琲を淹れろ。
 だが、気持ちはわかる。

 珈琲のハンドドリップのコツは、感覚的でわかりづらい。というか、おれは珈琲を淹れる器具の話はしたが、淹れ方については一切話していない。

 おまえがもし珈琲を淹れようと思い、ドリッパーを買ったのなら、すでに箱裏に書いてある淹れ方とかを読んで実践しているはずだ。
 もしもおまえが、ドリッパーは買ったが箱裏の説明を読まず、まだ一度も珈琲を淹れていなくて、ウクレレ教室とかに通いだし新たな成長の喜びと仲間との出会い、ナイロン弦のやさしい音色によって日々の中のささやかな憩いを見いだしたのなら、それも良いだろう。しかしウクレレは珈琲ではない。ウクレレの音色はかなり珈琲的だとおれは思うが、おれはウクレレのことは高木のメインウェポンというくらいしかしらず言うことがないためここでは、おまえがドリッパーの箱裏の説明をよんで珈琲を淹れたことがあることを前提にして話をする。

おれは餃子がうまく焼けない

 突然だが、おれは餃子が好きだ。餃子には珈琲のようなシンプルさと生活の傍らに寄り添う身近さが感じられるため、おれは餃子のことを高く評価している。
 おれがおまえに伝えたいのは珈琲を自分で淹れることのおもしろさだが、おれは餃子の話をする。焼き餃子の話だ。だがそれは珈琲をうまく淹れることについての話でもある。

 先に言っておくが、おれは別に餃子に詳しくない。餃子屋で修行したことも無ければ、皮を買ってきて家で餃子パーティとかもしたことがない。なんならおまえのほうが餃子については熟達している可能性が高い。だから今からする話はかなり専門性に欠けるし、まちがった理解による話も含まれるかもしれない。だが、だからといってビビって適当な当たり障りのないことを話すつもりはない。おれが本当に感じたこと、考えていることをただストレートに話すだけだ。おれが誰かより知識や経験が劣ることを恐れるようなやつなら、珈琲を淹れていないし、ここでこんな話をしていないからだ。

 おれは餃子は主に店で食べる。ひとに焼いて貰う餃子が一番うまい。
 だがおれは珈琲と同様に餃子も自分で焼ける方が良いと思っている。だから持ち帰りのできる美味そうな餃子を見つけたら買って帰る。
 そして大抵、うまそうな餃子を売っている店にはこだわりがあるので、その餃子を家庭でも美味く食べられるようにオススメの調理方法のレシピが付いている。
 おれはその道のプロの言うことは信用している。なぜなら、そいつの言うことは、経験と知識に裏打ちされた、データ的に信頼のおける事実だからだ。なので、おれはレシピ通りに焼く。ごま油大さじ1ならごま油大さじ1使う。
 だが、だいたい失敗する。焼き上がって出来上がったものは店で出てくるものと全然ちがう。

 おまえは「そんなの店なら専用の焼き器とかがあるからうまく焼けるのであって、家で全くおなじように焼けると思っているのなら、まちがっているよ」とか言うだろうが、そんなことはおれも分かっている。おれの言う失敗というのは、店の設備とかプロの技術とかを差し引いても失敗というくらいの失敗のことを言っているのだ。  まず、全然カリッと焼けていない。完全にべちゃっとしており、全く美味そうではない。食べると油っぽいか、または、ふやけた皮のだらしない食感で、中のタネのジューシーさが全く引き立たない。
 あるいは、フライパンに皮が張り付き、焼き上がりに無理に剥がそうとして、破け、皿に盛り付けられるのはワンタンとミンチの和え物となり、中国人が生み出した「おいしさを包む」という奥ゆかしい文化を跡形もなく爆破しており、最終的にジャッキーの怒りを買い、やられる。

 はっきりゆっておくが、おれの焼き餃子の技術はレベル1だと言える。2とか3ではない。1だ。
 ちなみに、おれが使っているフライパンは上等なもので、やろうと思えばオムライスもうまく作れるやつだ。

 だがおれは、失敗の中にイノベーションが眠っていることを本能的に知っている。
 おれはおれに言う。「なぜ失敗するのかを想像しろ。過去の経験から、似たような失敗から、成功に導いた事例を参照しろ」と。
 そうしておれの脳裏の浮かんだのは、はじめて珈琲のハンドドリップをしたときの記憶だ。
 珈琲屋のバイトでハンドドリップを教わり、実践したとき、全くうまく出来なかった。ビビって薄くなるか、慎重になりすぎて、濃くなりすぎた。
 おれは珈琲教室を開いたことがあるが、慣れていない参加者もやはり、慎重になりすぎる。教える側になったときに気づいたことだが、初心者は新しく得た知識に則って、感覚ではなく頭で考えながら珈琲を淹れる。人生経験から学んだことを一端わきに避けて、おれの伝えたことに真摯に従って淹れる。それは殊勝なことでもあるが、結果、狙ったものと違う味になることが多い。
 おれも、買ってきた餃子に付属しているレシピに従おうとして、人生経験から学んだことを一端わきに避けていた。
 だがレシピはあくまでも基準であり、うちのフライパンの熱伝導性やサイズ、うちのコンロの火力、蒸し焼きにするときの蓋の形状、常備してるごま油の銘柄とか、そういうのは加味されていない。だがおれはうちの設備のことを感覚で知っている。
 そういうレシピには書いてないがおれが知っていることをわきに避けて焼く餃子は、うまく焼けなくても不思議なことではないといえる。

 新しい技術を覚えるときは、頭を使え。だが、自分のこれまでの人生で培ってきた感覚も信じろ。
 リクツを頭で理解するのも大事だし殊勝なので、それはしっかりとやれ。だが、それで上手くいかないのなら、いざ実践するときは、リクツは一旦忘れろ。考えるな。自分の感覚でいけ。

 餃子の話はもう終わっている。今は珈琲の話だ。
 感覚だ。おまえはすでに理屈を学び、理解しようと勤めた。そして実践した。そして失敗も経験した。おまえの中にはすでに失敗を失敗と認識する素地が出来ている。なら、全て忘れて感覚だけでいけと言われたからといって、珈琲豆の挽き粉をいきなり湯にぶち込んでカップの中で溶かそうとしたりはしないはずだ。なぜならおまえはすでに、インスタントコーヒーとレギュラーコーヒーの違いを感覚レベルで理解しているからだ。
 だから、おまえはおれの言うことや、なんか本とか読んで得た知識のことは気にせず、好きなように珈琲を淹れろ。
 そうしたら、頭で考えて淹れた場合とは確実に違う味になるだろう。
 なぜならおまえは、おまえの感覚を信じたからだ。そして感覚で淹れるとき、頭で考えながら淹れるときに比べ、思考を“今ドリッパーの中の珈琲粉の状態はどうなっているか”を想像することに割くことができるし、そうでなくてもリラックスしておこなうことが出来たはずだ。

 珈琲を淹れることのおもしろさの重要な要素のひとつに「精神状態がけっこう露骨に出る」というのがある。きゅうに精神論をいうようだが、これは事実だ。おれはたくさん珈琲を淹れたし、たくさんの人間が淹れる珈琲を飲んだ。そうして得たデータだ。
 だが、そうして淹れた珈琲が、むしろ不味くなることもある。そうしたら、もう一度、理論に戻れ。以前とは理解が変わってくるはずだ。それが、トライ&エラーだ。

 そして疲れたら、AJINOMOTOの餃子でも焼け。水も油もいらぬ、約束された成功体験がそこにあるからだ。《餃子焼き師》レベル1のおれも、AJINOMOTOの餃子は相当うまそうに焼くことが可能だ。

Fight for the future

 先日おれは、一旦レシピを無視して感覚だけで餃子を焼いてみた。AJINOMOTOではない、真の試される生餃子だ。
 感覚を信じ、うちのフライパンを信じた。そしたらうまくいった。おれは自分の手でかりっとしてる焼き餃子を焼いたのだ。これは最高に気持ちの良い体験であり、完全にレベルが2に上がった。ビールが美味かった。

 おまえは珈琲で、レベルアップの凱歌を聴け。シンプルゆえに、成長を感じやすいのが珈琲のおもしろさのひとつだ。

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