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学徒の質問

質問1.信念体系とは何か?
特に「信念体系の有無や内容と『術』の行使の関係」について教えて頂きたいです。
たとえば「特定の神(ここでは仮に「ウンボボ」という神がいるとして、その神)に祈りを捧げていない時、
信者は常に罪人であり、大小様々な不幸が断続的に降りかかる」という信念(信仰?)を確立した人がいたとして、
その人がウンボボに祈りを捧げていない時に、実際に不幸が起こるのか、どの程度の不幸が起こるのか、
不幸の程度は予測可能か、または不幸の程度は信じている内容と無関係にランダムに決まるか、
神ウンボボの「意思」とは独立に信者は「罪人」であるか(信者が常に罪人であるかどうかは少なくとも
「人間」が体験または記述したものであり、神によるものではないため(→そもそも「次元が違う」とは?))、
神ウンボボの「意思」とは独立に信者に不幸は降りかかるか、信者にとって信者に(非物理的な影響に限定したとき)
影響を与えられるのは神ウンボボだけか(例えば、日本に住んでいるため、天津神国津神八百万神の影響「も」受けるということがないか)。

質問2.次元が違うとは何か?
人間が存在する次元があり神秘的・人知を超えた存在がありそれらの間に「次元の違い」があることが本当にわかっているのなら
(「次元が違う」ことは不可能であり?)現実に、次元が違う存在同士、人と人の肌が触れ合えるように、
例えばミクロな静電気的な反発のような間接的な「力」「エネルギー」の授受によって影響を及ぼしあえるのではないか。
特に、人間が存在する次元があることと、次元の違うことがありえることだけがわかっていても同様に、
その境界を使って引き算的に、神秘的・人知を超えた存在についても現実にある(存在する)とわかってしまうのではないか。
より具体的には、「次元が違うから〇〇」という説明は「(それ自体は無条件に正しい絶対的真理が実在する)から○○」
という「信仰」であって、少なくとも「理由の説明」では実はないのではないか。
(この質問に関しては、これまで教わった内容を批判する意図ではなく、混沌とそこから分化した柱の関係や
「二次元の折り紙の鶴と三次元の実在する鶴」の関係について詳しく知りたいという動機からのもので、他意・害意はありません。)

質問3.混沌信仰とは?
信念体系とは?混沌を信仰しているという立場・態度と、
「日本国民、男性、○○歳、独身、大学生、氏名○○」であるという立場・態度の違いとは?そもそも混沌とは?

質問4.「信念体系(柱)をそれぞれキッチリと務め上げそれぞれの境界を明確にし区別すること」と
「信念体系(特に、一人間であること)と、それ以外の信念体系との実践上の矛盾・両立不能性の解消」の両立をする方法は存在するか?
また、それはどのような方法か?

質問は以上になります。

質問1 信念体系とは何か

本来魔術師には信仰があります。
手のひらから火の玉を出すにせよ、空を飛ぶにせよ、それは明らかに「人ならざるもの」の力であり、その力の根源を古くから神や天使や悪魔との契約によりお借りする、その為の信仰。
そしてそれは流派となります。
インド神話の神々から力をお借りする人々、天使ミカエルから力をお借りする人々etc.
これが信念体系と呼ばれるもので、基本的にこれらは相互に混ざりあいません。
キリスト教の教会で護摩行はやらないしやれませんね。
これに対し「んなこたあない」と異議を唱えたのが「混沌信仰」となります(質問3へ)。

また、信者に不幸が~については、多くの信者については何もおきません。
何故なら多くの人々が語る「信仰や信念」は、「信仰してるフリ」に過ぎないからです。
イスラム教徒の家に酒樽があったり、肉を食べベンツに乗り銀座で豪遊する坊主もいるでしょう。しかし彼らは信者に間違いないし、彼らが説く信仰に対し外部の人間がとやかく言う事もありません。

真に信仰に生きる人間なら、酒を飲んだ瞬間、キャバ嬢の乳の谷間にピーナッツを投げ入れた瞬間、心臓麻痺で死ぬでしょう。

しかしそれが信仰からくる罰なのか、心理学的な生理現象なのかはわかりません。

質問2 次元
次元については考える必要は全くありません。
まさに二次元の鶴を三次元の鶴にする方法論のような馬鹿馬鹿しさがあります。
スピリチュアル脳の人々が次元について語りだしたのは科学の発展による影響だと思います。
十年以上前、アメリカかカナダの大学院生が重力についての研究を行い、理論上あるはずの重力の発生源(集約点)が、計算と現実でズレがあるとし、「重力の発生源は別次元ではないか」という仮説を立てたりした事がありました。
これにより次元間を跨ぎ干渉しあうエネルギーの存在についての仮説が生まれ、物理的実在世界の話から情報的実在、つまり精神世界の話に飛躍し、精神的次元上昇、アセンションという流行が生まれました。

論外です。

科学者は、幼い頃から学び、受験競争を勝ち抜き、日々研究に没頭しながら、可能な範囲で社会性も失わず、死ぬまで学び続け、研究成果を社会に還元します。
その過程において、様々な仮説が生まれては否定されながら、彼らは自身が求める真理を追い続けます。

一方スピリチュアル馬鹿は、何も努力せず研鑽せず訓練せず、「誰でも簡単に」や「信じる者はみんなハッピー」や「楽しくみんなでお金持ちに」等の、もはや幼稚園児でさえ疑問を持つような言葉に踊り狂い、科学者の言葉の上澄みを盗み、馬鹿騒ぎをしています。その代表格が「次元」です。

次元があろうがなかろうが、我々は此処に「在り」、故に神もまたそこに「在る」。
我々が次元を上昇するから、祈るから、瞑想するから、我々は特別な存在になるのか。
違います。
我々が信仰するから、祈るから、感じるから、神はそこに在るのか。
全く違います。
人も動物も草木も、水も空気もメンヘラも、ただそこに在る。
その気付きの過程こそ魔術訓練であり、神道等は神もまたそこにただ在る、と気付く修練を道と呼んだりします。

上昇する必要は全くありません。

質問3 混沌信仰

複数の信念体系を修める事は長く否定されています。キリスト教司祭のイスラム教徒、なんていません。
魔術においてもそうです。これに異を唱え生まれたのが混沌信仰、混沌魔術です。
特徴は二つ。

①神が生まれる以前のエネルギー体を信仰する
②様々な信念体系を使い分ける

時に日本人としての見解をもつ、別の日には男性としての権利について意見する、またある時は大学生として、社会人として、夫として、様々な立場を表明する。
それはごく自然な振る舞いだと言えますが、であれば、混沌魔術もごく自然な考え方だと言えます。

また魔術的にいう混沌とは、陰陽または陰陽が生まれる前のエネルギー体、陰陽が同時に存在する状態、「まずは光あれ」の直前またはその光(流出光エマナティオ)、全ての神々を統合する唯一神、等の表現をされる場合があります。

なので混沌魔術においては「今日はこの信念体系で術を」「明日はこの信念体系で祭壇作りを」「護符は天使で杖は悪魔で」のように、信念体系を自由に作り出す事が可能とされています。

質問4 信念体系の矛盾

重なりあう信念体系は矛盾しません。
しかし矛盾する時があり、問題も生じます。

ギャンブル好きな母。

矛盾しません。

しかしパチンコ屋の駐車場で放置され亡くなる子供もいます。
『ギャンブラー』と『母』は同時に存在し得る、しかし、その境界線が溶けると事故が起きる。
よくある事です。

ではその境界線を明確にし、それぞれをきっちり勤め上げる事は可能か。

理論上は可能だと思います。

ですが多くのギャンブル好きな母親は、パチンコは辞めるでしょう。

混沌魔術。理論上可能だ、という事と、実際にはどうしているか、これは必ずしも一致しません。
少なくとも、無制限に信仰する、という事は現実問題ありえないと思います。

また、相対する信念体系について、果たして本当にそうか?と考えるきっかけに『混沌』『陰陽の同時存在』はなり得ます。

例えば、地方自治体と国は度々相対する立場になりますが、国と地方自治体は同時存在、一体となり存在しています。

そのように『日常の中から』魔術的思考のヒントを探すと良いかもしれません。

答えは『深淵なる叡知の集積地、次元を超越した神々の世界』にはありません。
『婆さんが煎餅噛りながら言う小言』の中にあります。

それが魔術です。



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