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⑤マイ・シングルファザー ・ストーリー(男が子育てしてちゃわるいのかよ。全父子連発足)

息子の小学校入学式、あの子にとっては初めての同年代のコミュニティだ。
その為、嬉しすぎって入場時にスキップしてたのには正直参った。

でも嬉しかったんだろう。楽しかったんだろう。事情をしっている先生方は笑顔で見守ってくれていた。しかし、実際の通学する日常が始まると体力が追いつかず、1日行っては2日、3日休むような日々が約半年近く必要となった。

また感染症が流行っている時には自宅に避難するよう医師からの指示もあった為、初めの1年間は体力をつけるための期間であった。

しかしそこが私の目測が甘かったところだった。
まずコンビニの面接でさえ「今は、看護に専念されては?」と断られる始末。
時短の日中の事務職やスーパーのパートに関しては女性のみしか採用していないとの事。酷いところだと「男なんだから子どもなんか施設に預けたら良いだろ」なんて言われることもありました。


最終的には生活保護課の方からも「今は息子さんの状態を見る時期では?」と仕事探しについて消極的な姿勢であった。

しかし、私とすると入院・看護・自宅療養中から自分が子育てをしている、病気の子どもを見ているから働けない事に関しては納得せざる得ないと言い聞かせていました。


しかし、その日常は自身のアイディンティティを保つどころか、自信を失わせる要因になっていました。

理由は「俺は元気で働けるのに、仕事ができるのに」という「生産性のない男性」である状況に自分で自分を責めるという精神状態でありました。

とは言え、行政からも就活先からも無理宣言されている以上、受け入れるしかなかった。しかし、私は何か出来ることは無いだろうかと考え、ひとり親家庭の支援制度の冊子を再度見返してみることにしたのです。

理由とすると父子家庭に支援がなかった頃から5年の月日が流れている間に何か使えるようになっているかもしれないと考えたからです。結果、一切の制度は父子家庭へ該当しない。そうした法的な差別は変わっていなかった。

そこで私は思いました。

「社会からこんな扱いされる程、俺何か悪いことしましたか?」
「男が子どもの命を守る為に頑張ってきたのにこれはないだろう!」
「母子家庭だってふしかていだって同様に困っている人がいるはずだ」

この件について、私は国会議員に、県議会議員に、市議会に、行政に、厚労省に、メディアに有識者にとアポイントを入れて確認相談に奔走しました。

結果、皆一様に「村上さんが言っていることは間違っていない法的な課題である」というではないか。「じゃぁ。なぜ?変わらないんですか?」と聞いたら「当事者が課題提案・要望等を出していないからだ」という返答でした。

ここで私に火がついたんです。空いている時間を使ってやるだけやってやろうじゃないか!それが「宮城県父子の会」誕生の裏話です。

それからインターネットを駆使し全国の同志と繋がり、一緒にメディア戦略、地元の国会議員への陳情・要望。議会を通して意見書を採択してもらうようなアクションを開始しました。

そんな時、同じくして民主党政権が発足、マニフェストに父子家庭へ児童扶養手当を拡充すると書いてありました。しかし、予算が概算要求ではなく、事項要求と優先順位が低いことを知った同志一同は奮起し、出来上がった組織が全国父子家庭団体連絡会です。

その後の、児童扶養手当角中に至るまでの経緯については、ご存知の通りです。

議員会館での勉強会の開催、大臣への面会要望・政務官との打ち合わせ・内閣特命大臣への要望活動・政府へ対しての請願活動などなど。

もちろん、裏工作としてメディアに出演している国会議員へプロデューサーを通して非公式で要望書を渡してもらったり、丁度、私のことを仙台放送がドキュメンタリー取材のため密着取材をしていた事をフルに活用させて頂き、上京し衆参の議員会館へのロビー活動を実施もしました。

また全国組織発足の記者会見を行うなどあらゆる手を駆使し取り組みもしました。結果、児童扶養手当が父子家庭へ拡充されることとなったのでした。

そして嬉しいことに、その時期と合わせて私の就職先も決まり、仕事と子育てと活動と3つの草鞋を履きながらの生活がはじまったのでした。

しかし、あの経験は本当に貴重な経験でした。
だって年収100万円の父子家庭に支援はなく年収200万円の母子家庭には支援がある。


そんな理不尽なことが、今まで成り立っていたことが以上事態であったと思いますし、インターネットの普及と携帯の無料通話が全国組織発足のきっかけになったことも大きな理由であったと振り返って思います。

でも、ここで誤算がありました。
頑張ったのに会員が全く集まらない、それどころか死別の父子家庭の方から「なぜ?離別が先で、死別の遺族年金問題が後回しなのか!」とクレームの方が多かったという事実がありました。

実はそれをきっかけに、他の同志もやりきった感もあり、組織運営は衰退の一途を辿っていくことになるのです。

しかし、時代は私を活動から遠ざけてはくれなかったのです。

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