『島津戦記』(新潮文庫nex版)第2巻刊行記念・御蔵出し大会(その2)……単行本刊行時にざっくりカットされた幻の原稿(連載まるまる1回分)とか

S「…とゆわけで気づけばすでに次の週末が^^;!さっそく幻の連載原稿をお届けしませう」
M「これはなんでカットしたんでしたっけ」
S「まあぶっちゃけ『分量的に入りきらない』のと『カットしても島津四兄弟のドラマに関係ない逸話だった』んで……でも改めて読み返すと、これはこれで独立した掌篇として面白いかも、と」
M「幻の、っていえば他にも短篇が二つほどありましたよね。織田有楽が主人公のと、若き日の真田幸村が出てくるやつと」
S「うーむあれもいずれお蔵出しすべきか…むしろ大幅改稿して中篇としてnoteに出すべきかも…それはそれとして、例によってまずは手元の草稿バージョン、次いで担当様の入稿直前バージョンをお送りします」

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断章——風の城にまつわる追憶

 元亀年間
 西暦(ユリウス暦)一五七〇〜七三年

 あらかじめ何かしらを奪われてこの世に生まれ落ちてきた。
 そんな思いに耽る癖が、彼女にはあった。
 まずは己の名前だ。
 記憶を探れば探るほど、与えられたはずの名が、ほんとうはどのようなものであったのか判然としなくなる。
 もちろん周りの者たち——血のつながった妹や弟、めったに顔を見せない父の家臣、じぶんにかしずく下女、戦の支度に忙しい足軽、館の外をうろついている貧しい者たち——の用いるものは決まっている。
 一の姫。
 茶々さま。
 小谷の姫さま。
 浅井の孫姫さま。
 さらにずっと後には、淀殿、西の丸殿、等々。菊子という名さえ授かった。
 一つとして、しっくりとふさわしい手触りがない。
 いや、それどころか、どれもこれも借り物のようで——幼いころの彼女はそれらを耳にするたびに、ぷい、とあらぬ方へと向いて、そのまま(下女たちの悲鳴にも似た制止の言葉を追い抜きながら)館の奥へと駆けていってしまうのだった。
 妹たちの名を羨んだことが、ないとはいえない。そもそも、なぜ、すぐ下の妹のほうが「初姫」と呼ばれていたのか。順序からいえば、わたしのほうがよほど立派な「初」であろうに、と彼女は考えたし、周囲の大人たちにむかってそんなことを口走ってから唇を尖らせたりもした。
 が、答えは返ってこない。
 それとも、返ってきたものの忘れているだけなのか。
 いずれにせよ、あまり筋道のとおった回答はなかった……あれば、憶えているはずだ。
 彼女自身、いくたび考えても、良い理屈を思いつけなかった。
 ふたりめの妹にも、いろいろと名前があった。三の姫、小督、江。悪くない響きだ。そもそも自分も近江の生まれなのだから、「江の姫」と呼ばれてもよかったはずだ。いっそのこと、呼び名を取り替えられないか、と思ったりもしたが、なにしろ三の姫はあのころ生まれたばかりで口もきけなかったし、初のほうもまだ大して話の通ずる年頃ではなかった。
 それにしても、「ごう」という響きは当時の武者のあいだで流行っていたのだろうか、それからも幾たびか同じ響きを持つ女たちに、彼女は出くわすことになった。文字は異なるが、耳に届く心地よさは同じだ。江姫。豪姫。おこうさま。そのたびに、懐かしくも幼い嫉妬心が、彼女の奥深いところで、ぱたぱたと駆け巡ることになる。
 名前、名前、名前。
 男たちは、たびたび名前を変えており、そのことに少しも疑いを抱くことがなかった。すくなくとも、彼女と同じような感慨を抱いてはいないようだった。
 幼かった茶々には——このころまでに彼女は己の名前が与えられるものであって、衣の如く好み次第で替え得ることではないのだと渋々ながら認めていたが——彼女には、それが、ひどく不可思議に思われた。
 彼女は幼い頭と心でもって考え抜き、ある結論に達した。
 かれら男は、土地を受け継ぐのだから、すべて致し方なしと割り切っているに違いない。そもそも名前というものは土地に絡みついている。それを、ほんの一時、男たちが譲り受けて次の代に引き継がせる(もしくは押しつける)のだ。つまるところ、この世にあり続けるのは領地と名であり、男ではない。
 そういえばあの与右衛門も、久しぶりに見かけた折には、高虎という厳めしい名に変わっていたな……と彼女は、ふと思い出した。
 なんでも跡取りのはずの兄が、合戦で命を落としたためらしい。なんと哀しいことであろうか、と幼い口で茶々は与右衛門に同情してみせたが、実をいえば、その高虎なる名前の由来も、そもそも与右衛門の家が如何なる血筋の、如何ほどの所領を任された家格であるのかも、よく心得ていなかった。
 ただ、彼女たちの住まう館に、時折ふらりと顔を出しては、幼い姫たちと飽きもせずに遊んでくれるこの巨漢が、ひどく好ましいものである、という印象だけは強く抱いていたのだった。
 父は、館にも城にも、ほとんど姿を見せなかった。気がつけば、浅井備前守長政はいずこかの戦場へと出馬していた。残されるのは、いつも、土けぶりと、猛々しい笑い声と、父の後に続く武者たち足軽たちの厳つい汗の臭いだけ。
 ——父上よりも、与右衛門のほうがよい。与右衛門は、わたしの父上になれ。
 と、いつのことであったか、彼女は例によって唇を尖らせ、あの優しい巨漢を困らせたことがあった。
 与右衛門の応えは、
 ——はは、そのようなこと。仰せになるものではござりませぬぞ、姫。殿は、姫さまのために、館の皆のために……一族郎党の御ために、敵を攻め続けておるのですから。
 たしか、そのようなことを、言ったはずだった。
 彼女には確信がなかった。
 彼の口にした「敵」とやらは彼女の伯父・織田信長であるはずだったが、そのことについて問いつめた、という記憶もない。——それはいかにも幼い彼女が持ち出しそうな難題ではあったのだが。
 そも、あのやりとりは、与右衛門がまだ与右衛門であったころなのか、それとも高虎になってからであったか。
 何気ない、もっとも頼りどころのない、言葉だけが心に残り、他のあらゆる事どもは面白いほどに不確かだった。
 が、それにしても——と彼女は(随分と歳月を経てからではあるが)疑問を抱く。
 なにゆえ、あの時、父が出馬してゆく時に、武者であるはずの藤堂高虎は同行しなかったのか。
 なにゆえ彼だけは、館がすっかり女子供と老人だけになってしまう折にも、ほとんどただ独り、残されていたのであろうか。
 あれほどの壮健な男、無双の武者、弓を取らせても槍をつかわせても五畿内にむかう者なし、とさえ思われたあの青年が。
 守役……にのみ用いるには、あまりに惜しい。他にいくらも適任が居よう。では、たまたま、あの時に限って高虎が怪我でもして満足に働けなかったのか。それとも他に理由があるのか。
 高虎が、小谷の館に——茶々姫の傍におらねばならぬ理由が。
(それとも?)
 それとも……わたし以外の誰かのために? 例えばわたしの妹たち……初、江……あるいは母のために。
(何かが欠けている)
 幼いころの、何かが己に伝わらず、隠されたままでいる。
 そうとしか思えなかった。
 名前といえば、その高虎が連れてきた、弥助とかいう老人のこともある。
 そうだ——と彼女は思い出す。あれはちょうど高虎が高虎の名を頂戴しました、と告げに訪れた時のことだ。
 兄が討ち死にをし、齢十五になるかならぬかの若者が(もっとも、高虎を目の当たりにした者は誰一人としてそれとは正反対の感想を抱いたのだが)、いよいよ家を継ぐ。そのためか、頬のあたりが少々緊張していた。
 その彼の伝手で、西国の老いた男は、小谷の館にやって来たのだ。
 はじめのうちは、弥助という名のはずだった。
 が、あるとき、どうしたことか「この弥次郎めは」と口にしたかと思うと、あわててそれを打ち消した。
 同じ下働きの男たちは、またおかしな奴がやってきたものだわい、しかしあの藤堂のやることだからなあ、それもそうだ、などとつぶやきながら老人のおかしな一言を受け流した。
 名を偽って諸国をさまよう者たちは多かったし、こうもあちこちで戦が続くとなれば、才ある者はそれだけで取り立てられる。小谷の家中においても、つい先代までは東国に居た者であるとか、ほんの数年前には西国の津や浦を我が物として豪勢な暮らしをしていた男などが、いつのまにか棲みついては、あれやこれやに精を出していた。累代の忠臣、などというものは源平の伝え語りの中に、あるいは太平記の謡の中にしかなかった。
 すべては悪くなるいっぽうで、それでも男たち女たちは生きてゆかねばならない。
 だからこうやって小さな谷に集まり、ようやく三代目という若い浅井の家を主君と担ぎ、眼前の豊かな湖のもたらす様々な富を手放すまいとして、押し寄せる敵勢を追い返しているのだ。そしておそらく、敵勢とやらのほうも、ほぼ同じことを考えているのだろう……ということまでは幼い茶々も見当がついた。
 彼女の憶えているかぎり、いつの年もあちらで戦、こちらで戦だった。
 小競り合いばかりで決着がつかず、だからといって源氏の棟梁を守り立てるわけでもない。
 六角の家を押し返せば斎藤の一族が強くなる。三好が去ったかと思えば織田が楯突きはじめる。たまに万事がおさまったかと思えば、どこからともなく一向宗が湧き出ては国を丸ごと奪ってゆく。
(まったく、我が母ならずとも気鬱の病になろうというものだ)
 ……とはいいながら、あのころ気鬱を煩っていたのは、実は母ひとりだった。
(してみると——わたしたちは、あの戦ばかりの世にそれなりに馴染んでいたのやもしれぬ)
 そうとしか思えなかった。
 思い返せば、館の女たちは、隙をみては老人に近づいて「やじろう」と大声で呼びかけていた。
 そのたびに老人が、びくり、と丸い背を伸ばすさまは、たしかに見物だった。彼女自身、幾たびかその遊びに興じたこともある。
(女たちというやつは……)
 彼女は思い出し笑いをする。己もまたそのひとりである、ということを自覚しつつ、それでも苦笑をこらえることができない。
(どうしようもないものたちばかりだ、わたしたちは)
 ——彼女は思い出す。一つ、またひとつと、思い出してゆく。
 あの弥次郎だか弥助だかは、高虎と、ひどく馬が合うようだった。
 というよりも、あの巨漢に、真正面から文句をたれるほど肝が据わっていたのは新参者の弥助のみであった。
(肝か、あるいは無知か、それとも)
 あの二人の因縁を、その仔細を、彼女は聞いたことがない。ゆえに実の事は、彼女には知る由もない。
(まことのこと……そのようなもの)
 なんであれ、事の実相を知ることは叶わないのだ。そんなふうに彼女は思った。
 目の前にかしずく者が、まことのところは何をたくらんでいるのか。
 彼女に仕える女たちが、聞こえぬところで実はどのような噂話に興じているのか。
 けっして、真のことを知るすべはない。
 ならば、初めから諦めてしまうがいい。
 ならば、己の想い出にひたっていたほうが、よほど健やかなおこないだ——。
 そんなふうに、はじめ茶々と呼ばれ後に淀殿と呼ばれることになる彼女は肚を決めたつもりではいたが、
(さて、このわたしの思い出していることも、いかほど確かなことであろう?……)
 そんな言葉が、ときに彼女を刺す。
 あの老人は、母に、何ごとかを語って聞かせるのが常だった。
 はじめのうちは、館の裏で下働きをしていた。薪を集めたり、牛馬の世話をしたり、そのようなことだ。それが、たびたび奥のほうへ呼び出されることが多くなった。
 館を差配するのは、もともと彼女の母の務めであったが、気鬱の病に罹ってからは、古くから母に仕えていた女たちが……とはいっても嫁入り道具とともに尾張からついて来た、というわけでもないらしく、他の浅井の郎党と同じ言葉を話し、親しく交わっていたのは不思議なことだった……その、昔からの者たちが、万事を指図した。弥助老人は、その下で、母の身の回りの世話を言いつかったらしかった。
 衣の替えを整えたり、膳を運んだり、あるいは風呂の支度も任されていたはずだ。
 母の湯浴みする姿を、そういえば彼女は思い出せない。
 そもそも、母に抱かれた憶えすらない。
 もしかして、わたしは母に疎まれていたのだろうか——と、彼女はそこでもういちど考えてみて、ただいちど、あの豊かな胸元にすがりついた時のことを、その一瞬の柔らかさを、思い出せる自分に気がついた。
 それが正しい記憶なのか、それとも己の願望が己を騙しているだけなのか、定かではなかったが。
 それでも彼女の内に、さまざまな音が、匂いが、蘇ってくる。
 湖から寄せる風。
 母の豊かな胸。
 その双つのふくらみのあいだにひろがる、大きな丸い痣。
 そして、
 ——あにうえ。
 という、あの微かな呟き。

 ……想い出の中で、茶々は聞き耳を立てている。
 障子であったか、それとも薄い木戸であったか。
 いずれにせよ幼い彼女は、かげに隠れて、奥の間から漏れ聞こえる言葉を、ひとかけらも逃すまいと、身を固くしている。
 障子(あるいは木戸)のむこうでは、あの巨漢——高虎という厳めしい名でもって藤堂の家をまもなく継ごうという与右衛門(それとも既に継いだあとであったろうか?)が、上座の母にむかって、不思議な昔話を語っている。
 いや、そうではない。
 高虎の傍らに、ひとり、老人がいる。背を丸めた、ひどく小さな……けれど両の目だけは、ひどく大きく光りながら、左右をすばやく見回している。
 盗人の目だ、と彼女は思う。
 これはきっと性根の曲がった者なのだ……それゆえ、あのように背も曲がってしもうたに違いない。
 あまりにも幼い理屈、あやうい理屈。
(わたしはおそろしい子供であったのだ——でなければ、世の子らは悉く、おそろしいものたちばかりだ)
 己の罪科を知らず、ただ目の前の哀れなものたちを責め立てる。
 そうだ——それは盗み聞きだった。彼女の、おそらくは初めての、罪らしき罪。もちろん、これが最後というわけではないのだが。
 声は、奥の間から続いている。
 高虎のものでなく、もっと萎びたような、すっかり削れて丸まってしまったような声。
 初めて耳にする、それが弥助の声だった。
 ——西国の、そのまたむこうには、いくつもの国がございます。
 古より唐天竺などと申しまするが、両国のみにあらず、大小いくつもの、まさに不可思議奇妙なる国々にございます。
 あの南蛮びとどもも、南蛮より来たるかと思えば、さにあらず。実のところはさらに西、天竺のかなたよりまかり越しているのです。
 天竺の西には西天竺あり、さらに大西天竺あり、大々天竺これあり。さらにそのまたむこうには、回々びとの諸国がございます。
 いすらあむ、というのが正しき呼び名。回々びとというは、あくまでも唐土の者たちが名付けたものにございます。
 はて、この異国の呼び名が、いつのまに回々などというものになりかわってしもうたのか……そこはわたくしめも存じ上げません。
 さらに不可思議なことには、このいすらあむの宗は自らをむすりむあるいはもすれむなどと呼ぶのでございます。いや、その理屈は、とんと分かりかねます。……
 そんなふうに、遠い遠い国々の話は続いてゆく。
 いくつもの塔と高い城壁、鐘と銅鑼の響き、香料と豚肉の味。空を舞う織物や、動きまわる島。安良仁という名の豪商の話。真土と名乗った偉大な船乗りの噂。
 そして千年にもわたって争い続ける回々の宗と南蛮人たちの功し。
 なるほど、戦はどこにでもあるものなのだな、それこそ唐天竺の彼方にまで——と彼女は知り、おかしなことに、なぜかひどく安心した。
 と、そのとき。
 からり、と障子が(あるいは木戸が)開き、大きな黒い影が目の前にあらわれ。
 ひょい、と襟首をつかまれたかと思うと、幼い彼女は宙に浮く。
 高虎に見つかったのだ。
 これは悪い姫様にござりまするな、と背の高い彼は言う。よく響く、低い声。父に似ている、と彼女は思う。
 それから、どうなったのか。
 おそらく叱られたのだろう。だが、母にではない。板の間の、いちばん奥には彼女の母が居た。冷たく、こちらを見つめていた。叱るでもなく、また高虎を制するでもなく。
 背の曲がった老人は、丸い目をいっそう丸くして、こちらを振り返っていた。
 それから——ああ、それから、あの絵図面だ。
 彼女は次々と思い出してゆく……まるで何かの呪法が解けたように……それとも実はまったく逆に、おそろしい呪いがようやく目覚めて動き始めたのだろうか?
 高虎が、かたほうの腕で彼女を持ち上げている、そしてもういっぽうの腕は?
 左の手に、彼は何をつかんだままでいる?
 何が、そこから覗いている?
 白い紙が数枚。
 それはなに、と彼女は問う。右手のかわいらしいお荷物が、左手の謎にむかって問いかける。
 高虎は困ったような顔をする。歳相応に幼い、初々しい困り顔。
 これを見たくて、わたしはいつも彼に難題をふっかけていたのだろうか……と彼女は(幾とせも過ぎた今になって)ようやく気づく。
 近ごろ流行りの絵図にござりまする、と答えが上から降ってくる。先ほど、叡山の殿より……姫のお父上より届けられたものにて。
 そうして、大股で巨漢は廊下に出ると、腰をおろし、手にしたものを押し広げてみせた。
 まずはひとつめの絵図を、彼女は見つめる。
 いくつもの円が、重なり合って描かれている。白い紙の上の黒々とした線。大きな円の縁には、細かい飾りのような凹凸がある。
 そして、ふたつめの図面。
 蛇か、と初めは思った。一枚目と同じように、くるりと丸く、尾と頭の絡み合う、太い線と細い線。あちこちにはねまわる、小さな墨の跡。
 ——福をもたらす絵図なれば、まもなく殿も御無事でお戻りなされましょう。
 そんな、取ってつけたような言葉が続く。はっきりと、そこまでは憶えている。
 あれは高虎なりの気遣いだったのだろう。父の居ない寂しさに、大人たちの声を求めて、つい盗み聞きをしたのだろうと。
 だが、そんな高虎の言葉に、彼女は応えた憶えがない。ましてや、無理難題を口にした憶えも。
 絵図に……ふたつめの、絡み合う線の群れに気を取られて、それどころではなかったのだ。
 そこに描かれた紋様を、彼女は見たことがあった。あったような気がした。
 そうだ。
 母の、あのやわらかい胸の谷間にある痣と似ている。
 ——山の上には立派な城があり、彼女たちがふだん住まう館は、ふたつの尾根に挟まれて、水はけの良い谷の底にあった。
 水はけの佳い、というのは、あくまでも他所の城館と比べてのことだ……なぜならば城をつくったがために、山の斜面はすっかり伐られているのだから。
 たしかに、戦がなくとも薪を欠かすことはできないし、万一、城にこもる折には見晴らしが利かねばならない。
 と、理屈ではわかっているのだが、彼女にはどうにも哀しい有様としか思えない。
 そもそも、土地を継ぎ、守るためにこそ、男どもが武者となり、家を守り立て、争いを繰り返してきたのではなかったか。
 その争いのためにと、手当り次第に木を伐り倒す。すると水はけが悪くなり、あちこちで大水が出る。
 水が暴れれば、田畑はやせ衰え、民草が飢える。飢えた者らは、城へ、湊へ、京へと押し寄せる。もしくはあっというまに一向宗へと宗旨替えする。
 その者たちを食わせるために、というよりも彼らに殺されないために、武者の家同士は戦わねばならない。
 戦って領土を増やし、郎党を養い、さらに力をつけて次の土地を奪い、奪い返し、はかりごとを組み立て、同盟を組み、新たに城を築き、そのためには山の木を伐りたおし、すると大水が麓を押し流して民が飢えるので……。
 きりがない。
 と幼い茶々は、そこまで解っていたわけではないのだが、理屈の根のところは知っていたつもりだった。
 戦は、終わらない。
 終わりようがない。
 そして城は、いつか必ず落ちる。
 彼女の母は、ふと思い立って裏の山を登り、籠城するべき折でもないというのに、尾根に張り付く城へと赴くことが多かった。
 風が好きなのだろう、と館の下女たちは噂し合った。
 その噂の出所は(その他の噂と同じく)伯母の口だった。
 伯母のふく姫……父・浅井長政の姉は、さすが京極という名家の嫁にふさわしく、あらゆる出来事を噂として愉しみ、同時にあらゆる噂を下らぬものとしてやり過ごしていた。
 あるとき、おそろしい噂が館の中を巡ったことがあった。
 彼女の母が……「あのお美しいお市の方さま」が……浅井の一族を裏切り、今や敵となった兄・信長に通じているのでは、という噂が。
 さもなければ、あの金ヶ崎の戦場から、五体満足で京まで戻れるはずがないではないか?
 そうだ、そうに決まっている。
 内通したのだ。
 われらが殿の正室でありながら……われらを裏切り、ひそかに兄に加勢したに相違ない! いかにして? さて、それは解らぬが、屹度なにやら手蔓を用いたのは間違いないわや……おおそうじゃそうじゃ、そうに決まっておる。
 三日と経たぬうちに、彼女の母は、あやしげな符牒を遥か彼方の金ヶ崎にまで送りつけて「浅井の奇襲」を織田の軍勢に報せたことになっていた。
 奇襲?
 それどころか、突如として軍を動かしたのは織田家のほうだった——それはあのころの、館の女たちもじゅうぶん分かっていたはずだ——なにしろ、つい先年までは共に京を戴いてゆこうと誓い合った両家であったのだから。
 それが、足利殿の上洛に独り付き従って京に入ったとたん、あれよというまに織田は、四方の味方を(もしくは分け前が配られるのを真面目に黙って待っていた武家と寺家の面々を)敵に変えてしまった。
 奇襲も何も、本来であれば勝手に攻め込んで勝手に大負けした織田のほうが、頭を下げて和を請うべきではないのか。
 と、きちんと順序だてて考えたかどうかは、わからないが……ともかく伯母は、あの愚にもつかない噂を耳にしたとき、大きく口を開けて笑ったかと思うと、
 ——女子ひとりの働きで大将首を救えるならば、なんと太平楽な処であることかな、この憂き世とやらは。
 と言ったらしい。
 まったくだ、と彼女は(長い歳月を経てから)同意する。
 それくらいのことで、戦の趨勢を変えることができたならば。
 なんと気楽な世であろうか。

 母が、風を好んだというのは、伯母の噂だった。
 が、半ば以上は、まことのことでもあったはずだ。
 と、彼女は今にして思う。
 夫が出馬し、館どころか一族郎党の留守を守る妻には、高いところへ登って気晴らしをするくらいしか、やることがないのだ。
 出かけるわけにもいかない。
 遊びに興ずれば周囲のものたちが怠ける。
 男どもは戦で憂さを晴らせばよかろうが、しかし女には何をせよというのか?
 母が城に登る際には必ず、幾人か、いつも同じ下女たちがつき従った。
 顔を思い出そうとして、茶々は——そして淀殿は——どうしたわけか、それができないことに今さらながら驚く。
 あの下女たち……白い木綿の布を、頬に巻いて。
 あまりにも白い木綿を。
(いや——まさか)
 まことに、あれは木綿であったのか。
 あのころ。小谷の城に暮らしていたころ。それまでの麻が廃れ、誰も彼もが木綿をまといはじめていた、あの遠い日々。
(たしかに、木綿は高価ではなかった)
 しかしあの色は。
 そして、ああそうだ、あの手触りは。
(だからと言うて……いや、仮に木綿でないとしたら、では)
 なんだというのか。
 絹?
 まさか!
 そのように高価なもの、手に入ったはずがない。
(あのころ……女たち——着飾った女たち、汚れて働く女たち)
 多くの女たちを、彼女は見かけた。
 浅井の一族の、ほんの一握りの美しい者らを除けば、彼女たちはみなひとしく働いていた。
 館の内で、外で、内と外を行き来することで。
 戦について行くことで。
(そうだ、戦だ——女たちの戦だ)
 むしろ女たちのほうこそ、男どもの尻を叩いて戦わせているのではなかろうか。
 そんなふうに、幼い彼女は夢想したことさえある。
 山の中腹から見下ろしていると、そのように、ふだんからは思いもよらぬ事どもが、風に乗って己の裡に吹き込まれてしまうのだ。
 戦。
 山を禿げ上がらせ、大水をよびよせるもの。
 土地を奪い取るもの。
 湊を引き裂くもの。
 きらきら輝く異国の宝をもたらすもの。
(なにもかもが、彼方からやってくる)
 宝物が。銀が。万病に効く薬草が。
 そして皆がそれを欲して、やせ細った手を伸ばすのだ。
 男も、女も、子供らも。
 それらすべてが山の頂から、高い砦から、天守閣からは、ありありと見える。
 だから——と彼女は常々考えている——わたしたちは、あまり高い処にのぼらぬほうがよいのだ。
 わたしたちは、地を這い、泥を踏みしめ、頭を低うしておったほうが、畢竟佳い生き物なのだ。
 ところが。
 男どもは高い櫓やら何やらを作りたがり、女どもはそれに嬉々として登るやら見上げるやら。
(愚かものばかりだ、まったく)
 そんなふうに嘆息しつつ。
 さて、では我が母は如何であったろうか……と彼女は思い出そうとする。母もまた愚かもののひとりであったのか。あの、山の上の城を好んでいた、風に黒髪を長くなびかせていた、母は。
 わたしを、どういう気まぐれか、その胸にかき抱き、知ってか知らずか胸の丸い痣を……あの絵図面そっくりの痣(それともあれは、古いやけどの痕だったろうか?)を、ただ一度わたしに見せた、あのお人は。
 そして一言……どこまでも深い思慕と、とこしえに失われたものへの愛惜を込めて。
 はるかなる西の彼方にむかって。
 ——あにうえ。
 と、目の前に立つ母がつぶやくのを彼女は確かに聞いた。
 聞いたはずだと思った。
 京極の伯母。ふく。あるいはマリア。彼女もまた名前を変え続けたひとであるのだな……と彼女は思い出しつつ、あの噂好きの口が果たしてどこまで事の次第を御存知だったのであろうか、とも夢想する。
 なにもかも承知しているのかもしれない、伯母は。
 だからこそ、あのように愉しく日々を過ごせていたのかもしれない。ああ、あの境地の半ばでも、わたしにたどり着くことができれば。
 父である長政が、織田一族と最後まで相争った真相は、あるいは、あの呟きの……ついつい漏れ出る母の深い想いのせいであったのか。
 あにうえ。
 母の兄上。
 織田上総介信長。
(わたしの伯父)
 彼女は思う。思い出そうとする。顔も憶えておらぬ伯父の信長のことを。甲高かったという、その声を。女子のように細かったと伝わる、その首筋を。
 わたしの、父は、まことのところは誰であったのか。
(美しい母……甲高い声の伯父——そしてわたしを「初姫」と名付けなかった父・長政……)
(まさか)
 くだらぬ下女たちの噂を、しかし彼女は打ち消せずにいる。
 そうなのか。
 果たして、まことにそのような次第であったのか。
 茶々——あるいは淀殿——には分からなかった。
 ただ、燃え落ちる城の幻だけが、紛うことなく彼女の目の前にあって、いつまでも去らずにいた。
 (つづく) 

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断章――風の城にまつわる追憶

 元亀年間
 西暦(ユリウス暦)一五七〇〜七三年

 あらかじめ何かしらを奪われてこの世に生まれ落ちてきた。
 そんな思いに【耽/ふけ】る癖が、彼女にはあった。
 まずは己の名前だ。
 記憶を探れば探るほど、与えられたはずの名が、ほんとうはどのようなものであったのか、判然としなくなる。
 もちろん周りの者たち――血のつながった妹や弟、めったに顔を見せない父の家臣、じぶんにかしずく下女、【戦/いくさ】の支度に忙しい足軽、館の外をうろついている貧しい者たち――の用いるものは決まっている。
 一の姫。
 【茶/ちゃ】【々/ちゃ】さま。
 【小/お】【谷/だに】の姫さま。
 【浅/あさ】【井/い】の孫姫さま。
 さらにずっと後には、【淀/よど】【殿/どの】、西の丸殿、等々。【菊/きく】【子/こ】という名さえ授かった。
 一つとして、しっくりとふさわしい手触りがない。
 いや、それどころか、どれもこれも借り物のようで――幼いころの彼女はそれらを耳にするたびに、ぷい、とあらぬ方へと向いて、そのまま(下女たちの悲鳴にも似た制止の言葉を追い抜きながら)館の奥へと駆けていってしまうのだった。
 妹たちの名を羨んだことが、ないとはいえない。そもそも、なぜ、すぐ下の妹のほうが「【初/はつ】【姫/ひめ】」と呼ばれていたのか。順序からいえば、わたしのほうがよほど立派な「初」であろうに、と彼女は考えたし、周囲の大人たちにむかってそんなことを口走ってから唇を尖らせたりもした。
 が、答えは返ってこない。
 それとも、返ってきたものの、忘れているだけなのか。
 いずれにせよ、あまり筋道のとおった回答はなかった……あれば、憶えているはずだ。
 彼女自身、いくたび考えても、良い理屈を思いつけなかった。
 ふたりめの妹にも、いろいろと名前があった。三の姫、【小/こ】【督/ごう】、【江/ごう】。悪くない響きだ。そもそも自分も【近江/おうみ】の生まれなのだから、「江の姫」と呼ばれてもよかったはずだ。いっそのこと、呼び名を取り替えられないか、と思ったりもしたが、なにしろ三の姫はあのころ生まれたばかりで口もきけなかったし、初のほうもまだ大して話の通ずる年頃ではなかった。
 それにしても、「ごう」という響きは当時の武者のあいだで流行っていたのだろうか、それからも幾たびか同じ響きを持つ女たちに、彼女は出くわすことになった。文字は異なるが、耳に届く心地よさは同じだ。江姫。豪姫。おこうさま。そのたびに、懐かしくも幼い嫉妬心が、彼女の奥深いところで、ぱたぱたと駆け巡ることになる。
 名前、名前、名前。
 男たちは、たびたび名前を変えており、そのことに少しも疑いを抱くことがなかった。すくなくとも、彼女と同じような感慨を抱いてはいないようだった。
 幼かった茶々には――このころまでに彼女は己の名前が与えられるものであって、衣の如く好み次第で替え得ることではないのだと渋々ながら認めていたが――彼女には、それが、ひどく不可思議に思われた。
 彼女は幼い頭と心でもって考え抜き、ある結論に達した。
 かれら男は、土地を受け継ぐのだから、すべて致し方なしと割り切っているに違いない。そもそも名前というものは土地に絡みついている。それを、ほんの一時、男たちが譲り受けて次代に引き継がせる(もしくは押しつける)のだ。つまるところ、この世にあり続けるのは領地と名であり、男ではない。
 そういえばあの【与/よ】【右衛/え】【門/もん】も、久しぶりに見かけた折には、【高/たか】【虎/とら】という厳めしい名に変わっていたな……と彼女は、ふと思い出した。
 なんでも跡取りのはずの兄が、合戦で命を落としたためらしい。なんと哀しいことであろうか、と幼い口で茶々は与右衛門に同情してみせたが、実をいえば、その高虎なる名前の由来も、そもそも与右衛門の家が【如/い】【何/か】なる血筋の、如何ほどの所領を任された家格であるのかも、よく心得ていなかった。
 ただ、彼女たちの住まう館に、時折ふらりと顔を出しては、幼い姫たちと飽きもせずに遊んでくれるこの巨漢が、ひどく好ましいものである、という印象だけは強く抱いていたのだった。
 父は、館にも城にも、ほとんど姿を見せなかった。気がつけば、浅井【備/び】【前/ぜんの】【守/かみ】【長/なが】【政/まさ】はいずこかの【戦/いくさ】【場/ば】へと出馬していた。残されるのは、いつも、土けぶりと、猛々しい笑い声と、父の後に続く武者たち足軽たちの厳つい汗の臭いだけ。
 ――父上よりも、与右衛門のほうがよい。与右衛門は、わたしの父上になれ。
 と、いつのことであったか、彼女は例によって唇を尖らせ、あの優しい巨漢を困らせたことがあった。
 与右衛門の応えは、
 ――はは、そのようなこと。仰せになるものではござりませぬぞ、姫。殿は、姫さまのために、館の皆のために……一族郎党の御ために、敵を攻め続けておるのですから。
 たしか、そのようなことを、言ったはずだった。
 彼女には確信がなかった。
 彼の口にした「敵」とやらは彼女の伯父・織田信長であるはずだったが、そのことについて問いつめた、という記憶もない。――それはいかにも幼い彼女が持ち出しそうな難題ではあったのだが。
 そも、あのやりとりは、与右衛門がまだ与右衛門であったころなのか、それとも高虎になってからであったか。
 何気ない、もっとも頼りどころのない、言葉だけが心に残り、他のあらゆる事どもは面白いほどに不確かだった。
 が、それにしても――と彼女は(随分と歳月を経てからではあるが)疑問を抱く。
 なにゆえ、あの時、父が出馬してゆく時に、武者であるはずの【藤/とう】【堂/どう】高虎は同行しなかったのか。
 なにゆえ彼だけは、館がすっかり女子供と老人だけになってしまう折にも、ほとんどただ独り、残されていたのであろうか。
 あれほどの壮健な男、【無/む】【双/そう】の武者、弓を取らせても槍をつかわせても五畿内にむかう者なし、とさえ思われたあの青年が。
 【守/もり】【役/やく】……にのみ用いるには、あまりに惜しい。他にいくらも適任が居よう。では、たまたま、あの時に限って高虎が怪我でもして満足に働けなかったのか。それとも他に【理/わ】【由/け】があるのか。
 高虎が、小谷の館に――茶々姫の傍におらねばならぬ理由が。
(それとも?)
 それとも……わたし以外の誰かのために? 例えばわたしの妹たち……初、江……あるいは母のために。
(何かが欠けている)
 幼いころの、何かが己に伝わらず、隠されたままでいる。
 そうとしか思えなかった。
 名前といえば、その高虎が連れてきた、【弥/や】【助/すけ】とかいう老人のこともある。
 そうだ――と彼女は思い出す。あれはちょうど高虎が高虎の名を頂戴しました、と告げに訪れた時のことだ。
 兄が討ち死にをし、【齢/よわい】十五になるかならぬかの若者が(もっとも、高虎を目の当たりにした者は誰一人としてそれとは正反対の感想を抱いたのだが)、いよいよ家を継ぐ。そのためか、頬のあたりが少々緊張していた。
 その彼の【伝/つ】【手/て】で、西国の老いた男は、小谷の館にやって来たのだ。
 はじめのうちは、弥助という名のはずだった。
 が、あるとき、どうしたことか「この【弥/や】【次/じ】【郎/ろう】めは」と口にしたかと思うと、あわててそれを打ち消した。
 同じ下働きの男たちは、またおかしな奴がやってきたものだわい、しかしあの藤堂のやることだからなあ、それもそうだ、などとつぶやきながら老人のおかしな一言を受け流した。
 名を偽って諸国をさまよう者たちは多かったし、こうもあちこちで戦が続くとなれば、才ある者はそれだけで取り立てられる。小谷の家中においても、つい先代までは東国に居た者であるとか、ほんの数年前には西国の津や浦を我が物として豪勢な暮らしをしていた男などが、いつのまにか棲みついては、あれやこれやに精を出していた。累代の忠臣、などというものは源平の伝え語りの中に、あるいは【太/たい】【平/へい】【記/き】の【謡/うた】の中にしかなかった。
 すべては悪くなるいっぽうで、それでも男たち女たちは生きてゆかねばならない。
 だからこうやって小さな谷に集まり、ようやく三代目という若い浅井の家を主君と担ぎ、眼前の豊かな湖のもたらす様々な富を手放すまいとして、押し寄せる敵勢を追い返しているのだ。そしておそらく、敵勢とやらのほうも、ほぼ同じことを考えているのだろう……ということまでは幼い茶々も見当がついた。
 彼女の憶えているかぎり、いつの年もあちらで戦、こちらで戦だった。
 小競り合いばかりで決着がつかず、だからといって源氏の棟梁を守り立てるわけでもない。
 【六/ろっ】【角/かく】の家を押し返せば【斎/さい】【藤/とう】の一族が強くなる。【三/み】【好/よし】が去ったかと思えば織田が楯突きはじめる。たまに万事がおさまったかと思えば、どこからともなく一向宗が湧き出ては国を丸ごと奪ってゆく。
(まったく、我が母ならずとも気鬱の病になろうというものだ)
 ……とはいいながら、あのころに気鬱を煩っていたのは、実は母のみだった。
(してみると――わたしたちは、あの戦ばかりの世にそれなりに馴染んでいたのやもしれぬ)
 そうとしか思えなかった。
 思い返せば、館の女たちは、隙をみては老人に近づいて「やじろう」と大声で呼びかけていた。
 そのたびに老人が、びくり、と丸い背を伸ばすさまは、たしかに見物だった。彼女自身、幾たびかその遊びに興じたこともある。
(女たちというやつは……)
 彼女は思い出し笑いをする。己もまたそのひとりである、ということを自覚しつつ、それでも苦笑をこらえることができない。
(どうしようもないものたちばかりだ、わたしたちは)
 ――彼女は思い出す。一つ、またひとつと、思い出してゆく。
 あの弥次郎だか弥助だかは、高虎と、ひどく馬が合うようだった。
 というよりも、あの巨漢に、真正面から文句をたれるほど肝が据わっていたのは新参者の弥助のみであった。
(肝か、あるいは無知か、それとも)
 あの二人の因縁を、その仔細を、彼女は聞いたことがない。ゆえに【実/まこと】の事は、彼女には知る由もない。
(まことのこと……そのようなもの)
 なんであれ、事の実相を知ることは叶わないのだ。そんなふうに彼女は思った。
 目の前にかしずく者が、まことのところは何をたくらんでいるのか。
 彼女に仕える女たちが、聞こえぬところで実はどのような噂話に興じているのか。
 けっして、真のことを知るすべはない。
 ならば、初めから諦めてしまうがいい。
 ならば、己の想い出にひたっていたほうが、よほど健やかなおこないだ――。
 そんなふうに、はじめ茶々と呼ばれ後に淀殿と呼ばれることになる彼女は【肚/はら】を決めたつもりではいたが、
(さて、このわたしの思い出していることも、いかほど確かなことであろう?……)
 そんな言葉が、ときに彼女を刺す。
 あの老人は、母に、何ごとかを語って聞かせるのが常だった。
 はじめのうちは、館の裏で下働きをしていた。【薪/たきぎ】を集めたり、牛馬の世話をしたり、そのようなことだ。それが、たびたび奥のほうへ呼び出されることが多くなった。
 館を差配するのは、もともと彼女の母の務めであったが、気鬱の病に罹ってからは、古くから母に仕えていた女たちが……とはいっても嫁入り道具とともに尾張からついて来た、というわけでもないらしく、他の浅井の郎党と同じ言葉を話し、親しく交わっていたのは不思議なことだった……その、昔からの者たちが、万事を指図した。弥助老人は、その下で、母の身の回りの世話を言いつかったらしかった。
 衣の替えを整えたり、膳を運んだり、あるいは風呂の支度も任されていたはずだ。
 母の湯浴みする姿を、そういえば彼女は思い出せない。
 そもそも、母に抱かれた憶えすらない。
 もしかして、わたしは母に疎まれていたのだろうか――と、彼女はそこでもういちど考えてみて、ただいちど、あの豊かな胸元にすがりついた時のことを、その一瞬の柔らかさを、思い出せる自分に気がついた。
 それが正しい記憶なのか、それとも己の願望が己を騙しているだけなのか、定かではなかったが。
 それでも彼女の内に、さまざまな音が、匂いが、蘇ってくる。
 湖から寄せる風。
 母の豊かな胸。
 その双つのふくらみのあいだにひろがる、大きな丸い【痣/あざ】。
 そして、
 ――あにうえ。
 という、あの微かな呟き。

 ……想い出の中で、茶々は聞き耳を立てている。
 障子であったか、それとも薄い木戸であったか。
 いずれにせよ幼い彼女は、かげに隠れて、奥の間から漏れ聞こえる言葉を、ひとかけらも逃すまいと、身を固くしている。
 障子(あるいは木戸)のむこうでは、あの巨漢――高虎という厳めしい名でもって藤堂の家をまもなく継ごうという与右衛門(それとも既に継いだあとであったろうか?)が、上座の母にむかって、不思議な昔話を語っている。
 いや、そうではない。
 高虎の傍らに、ひとり、老人がいる。背を丸めた、ひどく小さな……けれど両の目だけは、ひどく大きく光りながら、左右をすばやく見回している。
 盗人の目だ、と彼女は思う。
 これはきっと性根の曲がった者なのだ……それゆえ、あのように背も曲がってしもうたに違いない。
 あまりにも幼い理屈、あやうい理屈。
(わたしはおそろしい子供であったのだ――でなければ、世の子らは【悉/ことごと】く、おそろしいものたちばかりだ)
 己の罪科を知らず、ただ目の前の哀れなものたちを責め立てる。
 そうだ――それは盗み聞きだった。彼女の、おそらくは初めての、罪らしき罪。もちろん、これが最後というわけではないのだが。
 声は、奥の間から続いている。
 高虎のものでなく、もっと萎びたような、すっかり削れて丸まってしまったような声。
 初めて耳にする、それが弥助の声だった。
 ――西国の、そのまたむこうには、いくつもの国がございます。
 【古/いにしえ】より【唐/から】【天/てん】【竺/じく】などと申しまするが、両国のみにあらず、大小いくつもの、まさに不可思議奇妙なる国々にございます。
 あの南蛮びとどもも、南蛮より来たるかと思えば、さにあらず。実のところはさらに西、天竺のかなたよりまかり越しているのです。
 天竺の西には西天竺あり、さらに大西天竺あり、大々天竺これあり。さらにそのまたむこうには、【回/ふい】【々/ふい】びとの諸国がございます。
 いすらあむ、というのが正しき呼び名。回々びとというは、あくまでも唐土の者たちが名付けたものにございます。
 はて、この異国の呼び名が、いつのまに回々などというものになりかわってしもうたのか……そこはわたくしめも存じ上げません。
 さらに不可思議なことには、このいすらあむの宗は自らを【む/、】【す/、】【り/、】【む/、】あるいは【も/、】【す/、】【れ/、】【む/、】などと呼ぶのでございます。いや、その理屈は、とんと分かりかねます。……
 そんなふうに、遠い遠い国々の話は続いてゆく。
 いくつもの塔と高い城壁、【鐘/かね】と【銅/ど】【鑼/ら】の響き、香料と豚肉の味。空を舞う織物や、動きまわる島。【安/あ】【良/ら】【仁/じん】という名の豪商の話。【真/しん】【土/ど】と名乗った偉大な船乗りの噂。
 そして千年にもわたって争い続ける回々の宗と南蛮人たちの【功/いさお】し。
 なるほど、戦はどこにでもあるものなのだな、それこそ唐天竺の彼方にまで――と彼女は知り、おかしなことに、なぜかひどく安心した。
 と、そのとき。
 からり、と障子が(あるいは木戸が)開き、大きな黒い影が目の前にあらわれ。
 ひょい、と襟首をつかまれたかと思うと、幼い彼女は宙に浮く。
 高虎に見つかったのだ。
 これは悪い姫様にござりまするな、と背の高い彼は言う。よく響く、低い声。父に似ている、と彼女は思う。
 それから、どうなったのか。
 おそらく叱られたのだろう。だが、母にではない。板の間の、いちばん奥には彼女の母が居た。冷たく、こちらを見つめていた。叱るでもなく、また高虎を制するでもなく。
 背の曲がった老人は、丸い目をいっそう丸くして、こちらを振り返っていた。
 それから――ああ、それから、あの絵図面だ。
 彼女は次々と思い出してゆく……まるで何かの【呪法/のろい】が解けたように……それとも実はまったく逆に、おそろしい呪いがようやく目覚めて動き始めたのだろうか?
 高虎が、かたほうの腕で彼女を持ち上げている、そしてもういっぽうの腕は?
 左の手に、彼は何をつかんだままでいる?
 何が、そこから覗いている?
 白い紙が数枚。
 それはなに、と彼女は問う。右手のかわいらしいお荷物が、左手の謎にむかって問いかける。
 高虎は困ったような顔をする。歳相応に幼い、初々しい困り顔。
 これを見たくて、わたしはいつも彼に難題をふっかけていたのだろうか……と彼女は(幾とせも過ぎた今になって)ようやく気づく。
 近ごろ流行りの絵図にござりまする、と答えが上から降ってくる。先ほど、【叡/えい】【山/ざん】の殿より……姫のお父上より届けられたものにて。
 そうして、大股で巨漢は廊下に出ると、腰をおろし、手にしたものを押し広げてみせた。
 まずはひとつめの絵図を、彼女は見つめる。
 いくつもの円が、重なり合って描かれている。白い紙の上の黒々とした線。大きな円の縁には、細かい飾りのような凹凸がある。
 そして、ふたつめの図面。
 蛇か、と初めは思った。一枚目と同じように、くるりと丸く、尾と頭の絡み合う、太い線と細い線。あちこちにはねまわる、小さな墨の跡。
 ――福をもたらす絵図なれば、まもなく殿も御無事でお戻りなされましょう。
 そんな、取ってつけたような言葉が続く。はっきりと、そこまでは憶えている。
 あれは高虎なりの気遣いだったのだろう。父の居ない寂しさに、大人たちの声を求めて、つい盗み聞きをしたのだろうと。
 だが、そんな高虎の言葉に、彼女は応えた憶えがない。ましてや、無理難題を口にした憶えも。
 絵図に……ふたつめの、絡み合う線の群れに気を取られて、それどころではなかったのだ。
 そこに描かれた紋様を、彼女は見たことがあった。あったような気がした。
 そうだ。
 母の、あのやわらかい胸の谷間にある痣と似ている。
 ――山の上には立派な城があり、彼女たちがふだん住まう館は、ふたつの尾根に挟まれて、水はけの良い谷の底にあった。
 水はけの【佳/よ】い、というのは、あくまでも他所の城館と比べてのことだ……なぜならば城をつくったがために、山の斜面はすっかり【伐/き】られているのだから。
 たしかに、戦がなくとも薪を欠かすことはできないし、万一、城にこもる折には見晴らしが利かねばならない。
 と、理屈ではわかっているのだが、彼女にはどうにも哀しい有様としか思えない。
 そもそも、土地を継ぎ、守るためにこそ、男どもが武者となり、家を守り立て、争いを繰り返してきたのではなかったか。
 その争いのためにと、手当り次第に木を伐り倒す。すると水はけが悪くなり、あちこちで大水が出る。
 水が暴れれば、田畑はやせ衰え、【民/たみ】【草/くさ】が飢える。飢えた者らは、城へ、湊へ、【京/みやこ】へと押し寄せる。もしくはあっというまに一向宗へと宗旨替えする。
 その者たちを食わせるために、というよりも彼らに殺されないために、武者の家同士は戦わねばならない。
 戦って領土を増やし、郎党を養い、さらに力をつけて次の土地を奪い、奪い返し、はかりごとを組み立て、同盟を組み、新たに城を築き、そのためには山の木を伐りたおし、すると大水が麓を押し流して民が飢えるので……。
 きりがない。
 と幼い茶々は、そこまで解っていたわけではないのだが、理屈の根のところは知っていたつもりだった。
 戦は、終わらない。
 終わりようがない。
 そして城は、いつか必ず落ちる。
 彼女の母は、ふと思い立って裏の山を登り、籠城するべき折でもないというのに、尾根に張り付く城へと赴くことが多かった。
 風が好きなのだろう、と館の下女たちは噂し合った。
 その噂の出所は(その他の噂と同じく)伯母の口だった。
 伯母のふく姫……父・浅井長政の姉は、さすが【京/きょう】【極/ごく】という名家の嫁にふさわしく、あらゆる出来事を噂として愉しみ、同時にあらゆる噂を下らぬものとしてやり過ごしていた。
 あるとき、おそろしい噂が館の中を巡ったことがあった。
 彼女の母が……「あのお美しいお【市/いち】の方さま」が……浅井の一族を裏切り、今や敵となった兄・信長に通じているのでは、という噂が。
 さもなければ、あの【金/かね】ヶ【崎/さき】の戦場から、五体満足で京まで戻れるはずがないではないか?
 そうだ、そうに決まっている。
 内通したのだ。
 われらが殿の正室でありながら……われらを裏切り、ひそかに兄に加勢したに相違ない! いかにして? さて、それは解らぬが、屹度なにやら【手/て】【蔓/づる】を用いたのは間違いないわや……おおそうじゃそうじゃ、そうに決まっておる。
 三日と経たぬうちに、彼女の母は、あやしげな符牒を遥か彼方の金ヶ崎にまで送りつけて「浅井の奇襲」を織田の軍勢に報せたことになっていた。
 奇襲?
 それどころか、突如として軍を動かしたのは織田家のほうだった――それはあのころの、館の女たちもじゅうぶん分かっていたはずだ――なにしろ、つい先年までは共に【京/てんか】を戴いてゆこうと誓い合った両家であったのだから。
 それが、足利殿の上洛に独り付き従って京に入ったとたん、あれよというまに織田は、四方の味方を(もしくは分け前が配られるのを真面目に黙って待っていた武家と寺家の面々を)敵に変えてしまった。
 奇襲も何も、本来であれば勝手に攻め込んで勝手に大負けした織田のほうが、頭を下げて和を請うべきではないのか。
 と、きちんと順序だてて考えたかどうかは、わからないが……ともかく伯母は、あの愚にもつかない噂を耳にしたとき、大きく口を開けて笑ったかと思うと、
 ――【女/おな】【子/ご】ひとりの働きで大将首を救えるならば、なんと太平楽な処であることかな、この憂き世とやらは。
 と言ったらしい。
 まったくだ、と彼女は(長い歳月を経てから)同意する。
 それくらいのことで、戦の【趨/すう】【勢/せい】を変えることができたならば。
 なんと気楽な世であろうか。

 母が、風を好んだというのは、伯母の噂だった。
 が、半ば以上は、まことのことでもあったはずだ。
 と、彼女は今にして思う。
 夫が出馬し、館どころか一族郎党の留守を守る妻には、高いところへ登って気晴らしをするくらいしか、やることがないのだ。
 出かけるわけにもいかない。
 遊びに興ずれば周囲のものたちが怠ける。
 男どもは戦で憂さを晴らせばよかろうが、しかし女には何をせよというのか?
 母が城に登る際には必ず、幾人か、いつも同じ下女たちがつき従った。
 顔を思い出そうとして、茶々は――そして淀殿は――どうしたわけか、それができないことに今さらながら驚く。
 あの下女たち……白い木綿の布を、頬に巻いて。
 あまりにも白い木綿を。
(いや――まさか)
 まことに、あれは木綿であったのか。
 あのころ。小谷の城に暮らしていたころ。
 それまでの麻が廃れ、誰も彼もが木綿をまといはじめていた、あの遠い日々。
(たしかに、木綿は高価ではなかった)
 しかしあの色は。
 そして、ああそうだ、あの手触りは。
(だからと言うて……いや、仮に木綿でないとしたら、では)
 なんだというのか。
 絹?
 まさか!
 そのように高価なもの、手に入ったはずがない。
(あのころ……女たち――着飾った女たち、汚れて働く女たち)
 多くの女たちを、彼女は見かけた。
 浅井の一族の、ほんの一握りの美しい者らを除けば、彼女たちはみなひとしく働いていた。
 館の内で、外で、内と外を行き来することで。
 戦について行くことで。
(そうだ、戦だ――女たちの戦だ)
 むしろ女たちのほうこそ、男どもの尻を叩いて戦わせているのではなかろうか。
 そんなふうに、幼い彼女は夢想したことさえある。
 山の中腹から見下ろしていると、そのように、ふだんからは思いもよらぬ事どもが、風に乗って己の【裡/うち】に吹き込まれてしまうのだ。
 戦。
 山を禿げ上がらせ、大水をよびよせるもの。
 土地を奪い取るもの。
 湊を引き裂くもの。
 きらきら輝く異国の宝をもたらすもの。
(なにもかもが、彼方からやってくる)
 宝物が。銀が。万病に効く薬草が。
 そして皆がそれを欲して、やせ細った手を伸ばすのだ。
 男も、女も、子供らも。
 それらすべてが山の頂から、高い砦から、天守閣からは、ありありと見える。
 だから――と彼女は常々考えている――わたしたちは、あまり高い処にのぼらぬほうがよいのだ。
 わたしたちは、地を這い、泥を踏みしめ、頭を低うしておったほうが、【畢/ひっ】【竟/きょう】佳い生き物なのだ。
 ところが。
 男どもは高い櫓やら何やらを作りたがり、女どもはそれに嬉々として登るやら見上げるやら。
(愚かものばかりだ、まったく)
 そんなふうに嘆息しつつ。
 さて、では我が母は【如/ど】【何/う】であったろうか……と彼女は思い出そうとする。母もまた愚かもののひとりであったのか。あの、山の上の城を好んでいた、風に黒髪を長くなびかせていた、母は。
 わたしを、どういう気まぐれか、その胸にかき抱き、知ってか知らずか胸の丸い痣を……あの絵図面そっくりの痣(それともあれは、古い【や/、】【け/、】【ど/、】【の/、】【痕/、】だったろうか?)を、ただ一度わたしに見せた、あのお人は。
 そして一言……どこまでも深い思慕と、とこしえに失われたものへの愛惜を込めて。
 はるかなる【西/、】【の/、】【彼/、】【方/、】にむかって。
 ――あにうえ。
 と、目の前に立つ母がつぶやくのを彼女は確かに聞いた。
 聞いたはずだと思った。
 京極の伯母。ふく。あるいはマリア。彼女もまた名前を変え続けたひとであるのだな……と彼女は思い出しつつ、あの噂好きの口が果たしてどこまで事の次第を御存知だったのであろうか、とも夢想する。
 なにもかも承知しているのかもしれない、伯母は。
 だからこそ、あのように愉しく日々を過ごせていたのかもしれない。ああ、あの境地の半ばでも、わたしにたどり着くことができれば。
 父である長政が、織田一族と最後まで相争った真相は、あるいは、あの呟きの……ついつい漏れ出る母の深い想いのせいであったのか。
 あにうえ。
 母の兄上。
 織田上総介信長。
(わたしの伯父)
 彼女は思う。思い出そうとする。顔も憶えておらぬ伯父の信長のことを。甲高かったという、その声を。女子のように細かったと伝わる、その首筋を。
 わたしの、父は、まことのところは誰であったのか。
(美しい母……甲高い声の伯父――そしてわたしを「初姫」と名付けなかった父・長政……)
(まさか)
 くだらぬ下女たちの噂を、しかし彼女は打ち消せずにいる。
 そうなのか。
 果たして、まことにそのような次第であったのか。
 茶々――あるいは淀殿――には分からなかった。
 ただ、燃え落ちる城の幻だけが、紛うことなく彼女の目の前にあって、いつまでも去らずにいた。
 (つづく) 

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