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トレンディ朝ドラ『なつぞら』にバブル時代の面影を偲ぶ

なつぞら』最終盤ですね。前年に続き、色々と意見の飛び交う朝ドラになりましたが、半ば脱落しつつも、一応筋は追って見ています。

どうにもこうにも腑に落ちないこのドラマでしたが、ある方のつぶやきを見て「これはトレンディドラマ時空なんだ」と気づかせてもらい、それがストーンと腑に落ちてしまい、あーだこーだ考えていたことがすべてどうでも良くなってしまいました。

私達は昭和中期を舞台に、トレンディドラマの世界観と、トレンディが流行っていた1980年代後半~90年代初頭の価値観を見せられていたのですよね。
「君の瞳をタイホする!」とか「愛し合ってるかい!」などの、教師役が推定家賃70万円の一軒家で一人暮らしをしていた時代のドラマのノリを再現していたわけです。すごく腑に落ちます。トレンディドラマ世代としてはマツコの番組懐かし面白かったです。
(バブル当時の価値観ですと、アニメオタクはネクラど底辺で、アニメ制作者なんぞはクリエイター扱いではなかったですから……というのは穿ち過ぎですかね)
(あと、バブルの頃は演劇第三世代全盛期ですから、随所に漏れ出る演劇への熱い思いもあの頃リスペクトじゃないかと思ったりもします)

トレンディドラマの時代は、テレビとスポンサーと視聴者が三位一体で時代を生み出していた、テレビが時代の最先端だった頃でした。面白いものはすべてテレビから生み出される。そんな騒々しくも熱い時代を懐かしく思い出す、そんなノスタルジーが今期の朝ドラの作り手にあったのかもしれません。

以下は考察していたものの残骸ですが、せっかく時間をかけて書いたのが惜しいので載せておきます。


・『酪農少女なつ』と『奥山玲子』という真逆のヒロイン像

『なつぞら』は日本のアニメーション黎明期を支えた女性アニメーターの一代記と、戦争により孤児として開拓の地北海道十勝に渡り新たな家族と故郷を得た少女の成長記、の二つの側面を持っています。これは企画段階では別々の案としてあったものを、途中でひとつの物語としてまとめた、と脚本家インタビューで明言されています。(https://www.nhk.or.jp/natsuzora/special/interview_11/)

そして、同じくインタビューの中で、奥原なつという子は、人の心に流されながらも、出会いと関わりの中で人生を見出していくキャラクターだとも語られています。(https://www.nhk.or.jp/natsuzora/special/interview_01/)

確かに、なつは自分からは動かない。周りが動いていろいろな出来事が進んでいく「流され型」キャラなんです。それはインタビューからすれば狙いどおりで、それがなつの人物像なのです。

どうしてそのようなキャラクター造形にしたかと言うと、それは「奥原なつ」という人物を北海道開拓民の象徴として描こうとしたからだと思います。

北海道開拓の歴史を紐解いてみれば、開拓初期、特に十勝周辺に入植してきた開拓団は、本州の貧しい農家の次男三男が中心でした。『北の国から』の吾郎さんみたいな「大自然の中で自給自足生活がしたい!」とか「牛と暮らす酪農は素敵な仕事」なんて憧れでは決してなく、実家で田畑を継ぐこともできず、地元に残っていても小作では食っていけないから、生活のために止む無く厳しい自然の北海道の荒野に入植してきたのです。
好き好んで来たわけではない過酷な環境であっても、生きていくためにはその土地を耕すしかない。厳しい自然と格闘し懸命に働いて働いて、開拓民はあの十勝平野の一大酪農地帯を作り上げてきたのです。

好きで来たわけではない北の大地。でもそこで就農し懸命に生き抜く中で、生活の中に喜びや楽しみを見つけ、さらにその土地で生きていく誇りや幸せを築いていく。
そういう風に「流されながらも、その先の与えられた環境を受け入れ、その中で幸せをみつけていく、開拓者精神を持った女性」が、酪農という自然を相手にした生活の中で、周囲の人達と助け合いながら風雪に耐え、時には災害や異常気象に抗い、自然からも人からも恵みを受け取り人生を豊かにしていく。自らの意志で人生を切り拓くことはないが、それでも与えられた場所で幸せの花を咲かせていく、しなやかで強かなヒロイン像を当初は描いていたのではないでしょうか。

ところが、制作側から提示されたのは、奥山玲子さんという実在の人物をモデルにしたヒロイン像でした。
この方は、今や日本文化の象徴とも言えるアニメーション制作の黎明期に、アニメ文化の創造に深く関わり、働く女性としても会社に待遇改善を要求するなど、自分の意志で人生を、アニメ制作の世界を切り拓いて来た人物のようです。

当初描いていた「酪農少女なつ」と「奥山玲子さん」とでは、人生に対する姿勢が百八十度違います
似ているようで、実は大きく違う二つの人物像をひとりの人間としてまとめるのは、やはり無理があったのでは……と現在のドラマを見ていて思ってしまうのです。
例えば、奥山さんの服装が毎日違っていて、下山さんのモデルである大塚康生さんがしばらくスケッチしてみると一度も同じ服装がなかったというエピソード。これは奥山さんの美意識やクリエイターとしての矜持、センス、そして負けず嫌いな性格などがよく現れているエピソードで、だから関係者の方々も印象深く覚えているのでしょう。しかし、これは奥山さんが自分で進んでおしゃれをしてきたからこそ、奥山さんを語るエピソードになるのであって、なつが亜矢美さんに服を選んで着せてもらってしまっては、下山さんがスケッチ好きというエピソードにしかなりません。

多分、当初は「酪農少女なつ」を奥山さんの人生に落とし込めると踏んで物語を書き始めたのだと思います。けれど、進めていくうちにどうしても齟齬が出てきてしまった。流され型のなつが、負けん気とアニメへの情熱で仕事に取り組んできた奥山玲子さんの人生を歩むには、どうしてもなつの中の情熱が足りない。でもなつを情熱型の自発的な女性には変えたくなかった。だから周りがなつを奥山さんの人生を歩めるようにお膳立てしてしまう。その結果、あのような展開に為らざるを得なかったのではないかと憶測してしまうのです。


・心の声が聞こえない『なつぞら』

朝ドラの枠名は、正式には「連続テレビ小説」です。
その小説らしさは、ひとりの脚本家が脚本を執筆することにありますが、ナレーションが必ず入ることも挙げられるかと思います。特に、初期の頃は前身のラジオドラマの影響からナレーションが多用されていました。

今再放送されている「おしん」や「ゲゲゲの女房」を見ていると分かりやすいと思いますが、従来の朝ドラナレーションは、小説の地の文の役割をしていて、状況説明や時代背景、時には主人公やその他登場人物たちの感情を代弁しています。今、主人公たちが何を思っているのか、その心の声を伝える役目もあるわけです。

ところが、『なつぞら』ではナレーションは他界したなつの父親ということで、ひとりの登場人物として空から世の中を眺めているとして存在していると思われます。なので、あらゆる場所の出来事を見渡すことはできますが、人の心の中までは見えない。なつの心の内も、あくまで父が想像したものに過ぎないのです。そして、ナレーションはなつに語りかける口調が多い。

つまり、なつが今どう思っているか、何を感じているのか、それは父親がそう思っているだけであって、なつの心の声ではないと視聴者は受け取ってしまう。ナレーションではなつの本心は明かされていないと思ってしまうのです。
また、なつの心の動きを表した台詞も少ないと思います。彼女が何かを決断したとき、どういう心の動きを辿ってそこに行き着いたのか、これを説明する言葉をなつが語ることはあまりないように思います。なつ自身も自分の本心を明かすことが少ないのです。脚本家インタビューの中でも、なつは本音が言えない、自分のために“こうしてほしい”と言えるタイプではないと答えています。(https://mdpr.jp/interview/detail/1863472

これが、なつという人物像をさらに理解し難いものにしている、と私は考えます。

以上、長い蛇足でした。


・ネット時代のコンテンツとしてのドラマ

トレンディドラマ全盛期、社会に向けての情報発信はマスメディアにしか出来ないことでした。世の中に何かを訴える手立ては、新聞、テレビ、雑誌、ラジオなどいわゆるマスコミが一手に担っていたのです。
その頃は、マスメディアには社会の木鐸としての自負があったと思います。世の中に声を上げたくても手段を持たない人の代わりとして、社会的弱者の声をすくい上げて世に届けるために、マスメディアが声に形を与え、世の中に拡散していく。それがマスメディアの役割であり使命であるとの自負があったはずです。それはテレビドラマの現場でもそうであったと思います。

けれども、バブル崩壊後に台頭したインターネットと携帯電話が、情報発信の形を一変させました。ネットとスマホの普及により、今やどんな人でも簡単に世界に向けて情報を発信することが出来ます。どんな社会的弱者でもマイノリティでも、SNSを使って簡単に自分の声を世の中に広めることができるようになったのです。

誰かの代弁者としてのテレビドラマの必要性は希薄になりました。皆が自分の語りたいことを直接ネット上に語り、それが拡散されていきます。

ならば、誰かのための物語ではなく、自分のための物語をテレビドラマが語ってもいいのではないか。作り手が作りたいドラマを作る。それに共鳴できる視聴者だけがドラマを楽しむ。テレビドラマがマスメディアから1コンテンツに変質した現代ならではのドラマの作り方であり、楽しみ方だと思います。まさしく「嫌なら見るな」のネット時代らしいドラマ作りです。

そうして、細分化されたコンテンツとしてコアなファンが楽しむドラマが制作され、テレビ放送網ではなくネットのストリーミング配信として、すでに世の中にどんどん送り出されています。その制作の流れは近くテレビドラマにも及ぶでしょう。


・テレビドラマが再び声を届ける日

前項で、テレビドラマが代弁者としての使命を終えたと語りました。
しかし、このSNS大発信時代において、代弁すべき声があるのではないか、と作り手が探っている声があるのではないかと感じています。

それは、自己肯定感がものすごく低く、自分自身を尊重できない、なので自分自身を語ることが出来ない、自分の言葉を持てない人々の、声なき声ではないのかと考えています。
自分のことを肯定できないが故に、自分の本心を外に向かって語ることが出来ない、自身の言葉を持つことが出来ない人たち。この人達の心のなかに封印された本当の思いや言葉を形にしてあげたい。肯定してあげたい。生きていていいんだと背中を押してあげたい。そんな思いを作品に込めたい。
それに挑戦してスベっているのがここ何年かのAK朝ドラなのではないか、と推測しているのですが……筆者の思い込みでしょうか?

まったく的を外した考えかもしれませんが、自己肯定感の欠損を抱える人々の問題は根深く、社会全体として取り組まなくてはいけない課題だと思います。
その声をテレビドラマがうまく形にできるのか。できたら本当にたくさんの人の希望になるんじゃないのかな、と期待をかけていきたいのです。



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