くるりの20回転リリース記念ツアー「チミの名は。」 愉快なピーナッツと奇跡とo.A.o

【Ameba BLOGからの自己転載】

2017-03-04 04:54:21

ZEPP NAGOYAで行われた「くるりの20回転」リリース記念ツアー「チミの名は。」に行ってきました。
札幌から始まり、大阪、福岡での2daysを終えて、4ヶ所目。残すは来週の東京での公演を残すのみとなったそんな名古屋での公演。

まずこのライブの感想を一言で言うなら、ライブ中に岸田さんも口にしていたように「かなりの曲数をやる」「39光年くらい」「有人の星にたどり着くんちゃうか」ってくらいに長いライブだったということ。
アンコールの際には岸田さんが「ずっと立ちっぱなしで申し訳ないです」と謝るという、実に2時間強に及ぶ充実した内容だった。
それでも、「もうやる曲ないねん」と嘯く岸田さんに対して、オーディエンスは「うそうそ(もっとやって!)」とせがむほど、あの空間は「もういつまでもここにいたい!」と思わせてくれる時間だった。
そして、曲数が多いということがそのまま、「くるりの20回転」に収録されたシングル曲目白押しでのライブであったかというとそうではなかった。
むしろ、歴代のアルバムに散りばめられているこれまであまり表には出なかった(ライブで演奏されなかった)、どちらかというとレアな曲が実験的に演奏されたライブだった。
MCの中でも、『くるりの20回転』リリース記念ライブであるのにもかかわらず、シングル曲をあまり演奏しないことにこ何度か触れた。
「どことなく不満そうなのが伝わってくる。俺、ベスト買って予習したのにって」「最初はベストに入ってるまま、シングル曲だけでのライブにしようかと思ってんけど」と例えながら話したのは、シングルは「うちの子」。うちの子だけで遊ばせてるよりも、「他の子」(アルバム曲)と遊ばせた方がと思って、けど他の子の方が元気になっちゃったみたいなことをたしか話していた。
いやいや「他の子」って!
アルバム曲もくるりの大事な曲じゃない、と心の中で思いつつも、他の子大好きな中の人としては嬉しい結果だった。
何より最初の2曲から持ってかれた。
くるり初のライブCD『Philharmonic or die』の磔磔盤を彷彿とさせる始まり。
そして、それはもっくんこと森信行氏のドラムで始まった。

今回、岸田さんの目の前あたりに自分の位置を陣取った自分の視界には、右からドラムを叩くもっくん、ギターを弾きながら歌う岸田さん、ベースを弾く佐藤さんと初期のくるりのメンバーが目に飛び込んで来、初期メンバーのライブに行くことができなかった(くるりを知ったときにはすでにもっくんは脱退していた)中の人としてはその景色だけで伝説を目の当たりにしているような気持ちであった。

セットリストは『くるりの20回転』の曲目通りではないと言ったが、しかしその内容はアルバムを追って行くような、くるりの歴史を辿って行くような内容だったと思う。
全部を語ることはできない。
私がその中でも変遷を感じたのは、「愉快なピーナッツ」、「奇跡」、「o.A.o」の歌詞だった。

私は個人的に「愉快なピーナッツ」を聴くと、スーツに身を固めた一人のサラリーマンをイメージする。
月曜日は憂鬱、新しい一週間が始まっても週末ばかりを考えてしまう。自分のやってることすべてに実感が得られない、帰り道開くのを待っていた踏切でやるせなさが頂点に達してふと変なことを考えてしまう。
彼は思う。
「そうだろ、僕の人生は結局暇潰しみたいだから、明日のことも足りない頭で、考えて、考えて」。
宇宙のことを考えると、一日が終わってしまう。岸田さんがMCでそっと言っていた。自分の頭に収まらないところまで考えが及んで、その世界の中にいる自分のちっぽけさに戸惑う。
自分の頭で、世界の全てを理解することはできない。けれど、明日自分の眼の前に広がる世界なら、自分の頭でもとりあえず考えることはできる。明日は何が待っているのだろう。明日をどう乗り切ろうか。そういうところでちょっとの希望を見出していた青年が、どうなるのだろう。

岸田さんにアコースティックギターが手渡され、ゆったりとしたイントロから『奇跡』が奏でられる。
『奇跡』ではこう歌われる。
「退屈な毎日も、当然のように過ぎて行く
何もないような隙間に咲いた花
来年も会いましょう」

私はこのライブで、どうしても『愉快なピーナッツ』、『奇跡』。この2曲の歌詞がどうしてもセットになって迫ってきた。
あとちょっとの希望にすがって、とにかく明日のことを考えて、眠りについた青年。
毎日が退屈で実感に満ちていないのは、変わらないかもしれない。
そういう風に日々は過ぎていった。
そのなかで、いくつ別れがあったことだろうか。

けれど、彼(彼女)はひとつ発見した。
変わらぬ日々の中に、何も咲かないだろうと思っていた土壌に、その隙間にそっと花が咲いたような瞬間があったことを。
誰もが奇跡と認めるような、超自然的なことがそこで起こったわけではないだろう。
けど、彼(彼女)には確実に何かが起こった。
彼(彼女)にしかわからない何か。

そして、物語は続く。
それは曲を越えて、『o.A.o』に続いていく。
「ありがとう こんにちは おやすみ さようなら また明日」。
かつては眉間にしわを寄せて、明日を待っていた。
明日なんて来なければいいとも思っていたかもしれない。
けど、彼(彼女)は今や何のてらいもなく「また明日」と言える。
短く、何の変哲も無い言葉。
けれど、明日のことも足りない頭で考えていた者にとっては、とても大切な言葉。
それを言える、という奇跡がここで起こった。

それは悲しみの結果それが起こったかもしれないし、不安からくる言葉かもしれない。
明日にまた会える確証なんて、自分たちでは持ち得ないから。
けれど、希望をもって彼は言う。
「また明日」。
それは誰かに向けて、いった言葉かもしれないし、寝床でひとりごちてそっと口にした言葉かもしれない。
どちらにせよ、明日また新しい出来事が起こることを期待して、祈りのように口にすることは変わらないだろう。

くるりの曲の中には、そんな風に一人の人間として組み上げられていく誰かの姿を見る事ができるような気がした。
そして、それはこのくるりの20年を振り返るセットリストの中でこそ輝き、またリアルな姿で立ち上がってきたような気がする。
今回のライブでは誰かが立ち上がって、見つめて、見つけて、そんな情景をこの耳を通して、目を通して、体全体を通して味わうことができたように思う。

彼(彼女)は、どこまで行くのだろう。
もしかしたら、最初に戻ってしまうこともあるかもしれない。
再びやるせない思いに満たされてしまうことも、もちろんあるかもしれない。
けれど、きっとまた見つけることができるはずだ。

くるりの20回転リリース記念ツアー「チミの名は。」は終わった。
最新の岸田日記には、「ライブは暫くない」と書かれていた。
ライブの現場に、私たちはいつまでも居続けることはできない。
あの熱い余韻を心に抱きながら、あの好きな歌を口ずさみながら、家路につかなくてはならない。
それぞれが与えられた持ち場に帰らなくてはならない。
たとえそこに居続けたとしても、いつもくるりの音がそこで鳴っているとは限らない。

けれど、それでも帰ったその先でくるりの曲を思い出すとき、自分もまたその道を通って、彼(彼女)と同じところにたどり着けるかもしれない。それぞれの場所で、それを追体験することができるかもしれない。

今回はライブのなかで経験することができた。けれども、それはくるりが20年の間に生み出してきた珠玉のアルバム達の中でも追体験することができるだろう。
それぞれのアルバムに込められた物語が、私たちをまたまだ見たことのない新しい場所へと誘ってくれるはずだ。

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