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本物を見極める方法

一体、何が本物なのでしょうか。
これは、あらゆる分野と事柄に言えることですね。

霊的な事柄で、本物を見極めることは難しいです。
なぜなら、見えない事柄を扱っているからです。
簡単に客観性を担保できるものではありません。

しかし、霊的な道を歩むときに本物を見つけ出さないと、良くない結果がもたらされることはしばしばあります。
偽物に引っかかると全財産どころか、人生まで奪われることはよくあります。

とても厳しいところがあります。
本当の道には、世の中のスピリチュアルなポップさはどこにもありません。道を探すだけでも、無知な人にとっては危険がつきまといます。

だからこそ、私は何回も何回も聞かれます。
この人は本物で、この人は偽物でしょうかと。
私がそう聞かれたのは、一度や二度ではありません。

聞かれること自体に、私は何も思いません。
よくあることだからです。
答えかねる、というのが本音です。

霊的な道の第一関門は、ここなのです。
本物を見極められるようになったら、やっと扉が開きます。
この関門で敗れ去る人が99パーセントです。

その結果、彷徨っている人たちが山ほどいます。

彼らは「あれも違った」「これも違った」とひたすらに外れを引き続けています。
本物を見ても、そうとは気づかずに素通りすることもあります。
そうやって、苦しんでいる人が山ほどいます。

それを見かねて、ヒントでもいいから示せないかと思いました。
落とし穴に転がり落ちていく人々の後ろ姿を見て、私の良心が少しでも助けになれないかとささやきかけてきました。

少しでもお役に立てるように、今まで避けてきた話題を語りましょう。

・本物と偽物の違いとは何か

本物のダイヤモンドは、美しい輝きがありますね。
偽物のダイヤモンドは、どこか安っぽく感じられます。

簡単に見破れるものから、どこまでも精巧な偽物が存在します。
もしも、簡単に見破れる偽物なら、アドバイスなど必要ないですね。
問題なのは、ほとんど見分けがつかないぐらいに同じものがあるということです。

あなたはその違いを説明できるでしょうか。

右側が本物のダイヤモンドです。
左側がジルコニアです。

ジルコニアは偽物のダイヤモンドに使われたりもします。
いわゆる人工ダイヤモンドと呼ばれるものです。

よく見比べてみてください。

その違いを説明することはできますか。
光の屈折率もほとんど同じであり、見た目上の違いはあまりありません。

ジルコニアの値段はダイヤモンドの100~500分の1以下です。
もし、ダイヤモンドだと思って買って、偽物のジルコニアだったときは騙されたといってもいいですね。

最初に左側がジルコニアだと聞いているから、よくよく見ていると微妙に輝きが違うことに気づけるかもしれません。

しかし、最初から聞かされていなかったら、どうでしょうか。
おそらく偽物だと気づくことはできないのではないでしょうか。

確かに科学的な成分分析にかければ、一発で違いがわかります。
とはいえ、そういった特別な手段を用いなければ、ぱっと見ただけではほとんどわからないのです。

見分け方としては息を吹きかけて、曇りが晴れるスピードが違うと言われています。
ダイヤモンドの方が熱伝導率が高く、すぐに曇りが取れていきます。
ジルコニアは曇りがなかなか取れないと言います。

その微妙な目利きができるのは、職人レベルです。
素人がいきなり目利きをして、正確に判定できるものではありません。

プロの質屋ともなれば、何百回と取り扱ってきているのでわかってきます。
そういった彼らでも機材を使って判定しています。

その道の数十年の熟練になれば、一瞬で見抜けるようになります。

実は、霊的に本物を見抜けるかどうかもこの話に似ています。
それはどういうことかというと。

・偽物は本物の真似をしているので、とても似ている

この日本にも悟っていないのに、悟ったと自称する人が山ほどいます。
悟りの本質を理解しておらず、自称しているケースもありますね。

その言動を観察すると、本物の真似をしているので、とても似通っているのです。
あまりにも似すぎていて、違いを説明するのが難しいものもあります。

ダイヤモンドによく似ているジルコニアのように、瓜二つに見えます。
精巧に言動を彩れば、ほとんど一緒の言葉を話すことができます。
そのせいで、ぱっと見ただけではわからないのです。

非二元という言葉を持ち出して、覚者を気取る人は数えきれないほどにいます。
非二元とは、善と悪などの二元性を超越しているという意味です。

非二元を本当に悟ったインドの覚者シャンカラがいて、彼が展開した宇宙的な真理(不二一元論)から来ています。
まず、インド人がそれを真似し、さらに西洋人が引用し、そのベストセラーの本から日本に輸入されています。
劣化コピーを繰り返して、とてつもなく薄められたミルクのような言葉が今や「非二元」となっているのです。

自分も非二元という言葉を使えば、それを悟ったかのように演出できます。しかし、本当にそれを体験している人は何人いるのでしょうか。

つまり、言葉だけを見て、その人が本物かどうかを判断するのは難しいということです。
見かけだけで、人を判断するのをやめたほうがいいです。
その人の見た目が威厳があるとか、有名だからとか何の参考にもならないのです。

本質を見なければならないのです。
物事の本質を見抜く力が必要になってきます。

外見で判断するというのは、ジルコニアとダイヤモンドの違いを外見上の違いだけで判断しようとするようなものです。
とても似ているから、少し見ただけではわからないのです。

素人がぱっと見て、わかるものではないのです。
しかし、プロの目利きからしたら、ダイヤモンドとジルコニアの違いは一目瞭然です。

それと同じように霊的な道に通暁(隅々まで深く通じた)した人からしたら、誰が偽物で本物かは一瞬で見分けることができます。
準備ができたら、本物を見つけ出すのは簡単なんですよね。
ただ、その波動を感じ取って味わえばいいのだから。

その微妙な違いがすべてわかってしまいます。
熟練の職人レベルとなれば、一目で本物かどうかがわかります。

それと同じように、霊的なオーラを見れば一目瞭然です。
これは昔の話でもよく言い伝えられていることがあります。


・本物を知っているか(本物の黄金のオーラ)

プロの質屋は、本物のダイヤモンドを持っています。
つまり、本物の輝きを知っているから、偽物かどうかを簡単に見比べることができます。

本物を知っているかどうかは、大切な要素を占めます。

実はダイヤモンドだけではなく、人も輝きを放つのです。
修行した行者が覚者と出会うと、その黄金の輝きで一瞬にして平伏してしまうという話があります。

これは本当の話です。

聖人たちの肖像

聖人(神に目覚めた人)は、オーラから黄金の光を放っています。
いわゆる「後光」と呼ばれるものですね。
昔にも本当に見える人がいて、絵画にも描かれています。

なぜなら、神の波動には本当に黄金の輝きがあり、神と繋がることでそのエネルギーが下りてくるからです。
つまり、ある程度のレベルに達すれば努力などせずとも、その人のオーラを見分ければわかるようになるのです。

心の眼が開いていれば、ぱっと見ただけでわかります。

私が師(シャノン先生)と出会ったとき、まばゆい黄金のオーラがはっきりと見えました。
それで、本物とわかったんですよね。
目利きらしい目利きなどせずとも、ただその波動に触れただけでわかったのです。

それでも私は慎重な性格から、先生の話をよく吟味しました。
そうして、数か月かけて精査してから、一からヨガを習うことになりました。

それまでの行の積み重ねがあって、自分でオーラが見えるようになっていたから、本物がわかったということです。
準備ができたら、本物は見つかるのです。

瞑想中に本物のババジ(クリヤヨガの師)が見えたときもそうでした。
すさまじいぐらいに輝かしい黄金の光が出ていました。

ババジの肖像

イエス・キリストも神々しいほどの無限の光を背景に背負っていました。
そこに聖霊の姿が見えたりもしました。

本物を挙げるとすれば、イエス・キリストやババジのことを真っ先に挙げます。
特にイエス・キリストは神意識(キリスト意識。源の意識。究極の光明意識)と完全に繋がっていたという点において、すべての覚者の頂点に立ちます。

ババジはシヴァの霊系の生まれで、最終的に修行の末にキリスト意識に目覚めました。
(先生曰く、ババジはキリスト意識の系譜の亜流に位置します。
キリスト意識の系譜の流れに属さずに、突然に別の流れで目覚めた人だからです。
それでも最高の覚者であることに間違いはありません)

何より、究極の神だけが私の人生のすべてです。
本物の師たちは、神と繋がる手助けをしてくれる存在です。

純粋な神意識の流れがあります。
神の光の奔流ともいえるものです。
神意識に入ると至純の光の流れの中に溶け込んで、神との一体化を実現します。

・覚者にも段階と質がある

覚者にも質があって、悟りも何段階も存在します。
ちょっと悟ったという人は山ほどいます。

でも、それは完全に悟ったわけではないのです。
日々の生活の中で、自分の内面に少し気づきがあったというだけなのです。

思考が止まる体験などは、数か月ぐらい本物のヨガを実践し、呼吸法を学べば誰でも起きてきます。
それは初心者が最初の方に体験する境地だったりします。

そういった小さな瞑想体験と気づきを何万回も繰り返して、やっと中ぐらいの悟りになります。

中ぐらいの悟りを何回も繰り返して、大きな悟りになっていきます。
しかし、大きな悟りを得ても、神との一体化を実現したわけではないのです。
真我を垣間見たり、宇宙法則の一部を理解しただけだったりします。

つまり、悟りの本質とは宇宙世界の根本原理を理解することにあります。
それも頭で理解するのではなく、味わって、それそのものになって、実際的に完全に会得するところまで行きます。
どのように世界ができているのかという創造原理を解き明かし、自己の本質との同一性を悟っていきます。

それらの大きな悟りを得ても、終わりではありません。
さらにその先が存在しており、究極の悟りがあります。

究極の悟りとは、神と一体化することに他なりません。
この場合の神とは、神々の事ではありません。
宇宙の全てでありながら、すべてを超越している究極の存在のことです。

神意識(キリスト意識=源の意識)を通って、人は神の原点に還っていきます。

小悟を得た人が数多くいますが、私の人生の中心にはありません。
彼らに教えを受けても、人生の究極の謎は解き明かせないからです。
私の人生の中心にあるのは、究極の神(ALL)だけです。

つまり、本物とは神との一体化を果たした人です。
その向こう側に垣間見える神ご自身なのです。

・本物ではないオーラとは

打って変わって、逆に目覚めていない人はどうなのでしょうか。
いわゆる一般的な人々です。

人々も神の光からやってきたことに変わりがありません。
いわば、神の一筋の光を魂に持っています。
しかし、霊的に眠っています。
神に目覚めていないのです。

大半の人々は、うすぼんやりとしたオーラをしています。
そこまで輝きもないし、オーラ自体も黄金ではない様々な色合いをしています。
それは神との繋がりを絶つことで、そのエネルギーの根源の流れがなくなっているからです。
あるいは、ぼんやりとかろうじて繋がっているというような状態です。

冷静な人は青色だったり、情熱的な人は赤色っぽかったりします。
調子が良い人はちょっと輝いていたりします。
それでも目覚めた人とはまったく輝きも色合いも違うのです。

霊能力を悪用している人や黒魔術師の系統に入る人は、真っ黒なオーラをしていたりします。

悪魔(黒魔術)のシンボルは逆五芒星

どこをどう切り取っても、彼らは悪魔の手先です。
暗く黒いオーラをしているから、見える人からすれば判断するのに努力は必要ありません。

しかし、外見上は本当に普通の見た目をしていたりします。
どこにでもいる大人しそうな人が黒魔術師だということはよくあるのです。
また、見た目は優しそうな霊能力者でも中身は邪気にまみれていたりします。

ただし、通常の人でも死の間際になると、肉体のオーラから輝きがなくなっていることはよくあります。
しかし、心清らかな人の霊的なオーラは依然として輝いています。


人々にお勧めするのは物事の真価を見極められないなら、霊的な事柄から距離を置いた方がいいということです。
そういうものに溺れないようにした方がいいということです。
実は、この日本に本物と呼べるようなものは、ほとんどいません。

私は数えきれないほどの人を見てきたけれど、すべて偽物でした。
自分が求める水準に達していませんでした。

私が求めた水準は、神に至る道(究極の道)を示してくれる人を探していました。
それこそが本物の真珠(真の解決策)になると知っていたからです。

各分野の深いところまで理解して、その目で真価を見極められるようになったときに道は自然と開かれるものです。
そうでなければ、第一関門を突破することはできません。

無理やり通ろうとして、落とし穴に転がり込まないでください。

運よく本物と巡り合ったならば、心を込めて習うことです。
数転生のうちに一度あるかないかのチャンスだからです。

どうしても本物かどうかがわからないなら、引き返して、自分自身で行ずるべきです。
準備ができたら、きっと見つけることができるようになります。

・見えることが必ずしも本物の証拠とはならない

ある人に「でも、この人は力があるんだ」と言われることがあります。
ちょっと当たる霊能力者なら、そこら中にごろごろいます。
しかし、そういう人に入れ込んでも、人生の何も解決しません。

大抵は、その場しのぎのアイディアを吹き込まれるだけです。
そして、ずっと心の問題は継続していきます。
霊障にしても、本当に解決できるわけではありません。
まやかしのアドバイスを受けるだけです。

まして、ほとんどの霊能力者が邪気にまみれているので、相談の合間に邪気をお互いに交換するだけです。
霊能力者は悩み多い人の相談を請け負ううちに、どんどんとそのオーラが薄汚れていきます。

適当にそこら辺にある真言を唱えたぐらいでは、それを浄化し切ることもできません。
大半の真言は正しい発音が失われているので、効力もないんですよね。
そうやって、また新たな相談者が来たら、その相談者に自分の重い邪気のエネルギーを交換し、与え合うわけです。

運気を上げるために相談に行ったのに、運気が下がっているという人が山ほどいます。

霊能力者たちが、本当の意味で霊障を払えない原因はシンプルです。
彼らが霊障の原因だからですね。

霊能力者が邪気にまみれると、低級霊や悪魔的な存在がやって取り憑きます。
通常の人は霊的な「入口」部分が閉じています。
しかし、霊能力者は開いているので、その入り口から低級霊の言葉を延々と下ろし始めるのです。

そして、狂気を帯びていきます。
シンプルな原理ですよね。

何を本物とするかにもよりますが、神に目覚めている人を巷で見たことがありません。
本格的に霊障を払えるという点においても、ほとんどいません。

そういった術者は、邪気だらけの潜在意識を抱えています。
その邪気だらけの潜在意識から、相談者に邪気を注入していくのです。
病人が病気を移して、新しい病人を作り出しています。

なぜ、このような問題が起きるかというと、自分たちが何をしているのかわかっていないのです。
正しい知識を備えていないので、どこかの地点で魔が差してきます。
まして、相談者もあまりよくわかってないのです。

真面目なだけでは決して十分ではありません。

どれだけ才能があったとしても、磨かなければなりません。
まず、奥深い霊的知識(真の知識。瞑想体験による実体認識)を兼ね備えて、数転生にわたって修行を積み重ね、さらに神との繋がりを確固たるものにしている必要があります。

そもそも霊障の根本原因は何か。

波動の法則で、すべて説明が付きます。
同じ波動のものを呼び寄せるのです。
これはあらゆる人がそうです。

霊能力者やチャネラーは入り口が開いているので、ダイレクトに低級存在からアタックを受けます。
そこら中に彷徨っている低級霊が入ってくるのです。
準備ができていないなら、開いていない方が安全です。

霊的に開いていくならば、人格的に完成され、神の精妙な波動に至っていることが大切です。
神との繋がりを確立していないと、必ず低級存在にやられてしまいます。

霊能力者は色んな神様と繋がっているとよく話すけれど、だいたいは低級存在と繋がっています。
その真価が見極められていないのです。


ほとんどの霊能力者がその点において、完全に無知です。
ちょっと幼い頃から才能があるので、やっているという人が多すぎます。
彼ら彼女らは、自分が何と繋がっているのかもわかっていません。

霊的存在に繋がる前に、自分自身の生活上の問題を解決する必要があります。
霊能力者は乱れた生活を送っている人が多いですが、それが原因で魔が差してくること等。
もっと、基本的な人格面から整えていく必要があります。
まず、良識・良心を養う必要があります。

その上で、まやかしの信仰ではなく、光明を得るほどの確固たる信仰を確立している必要があります。
もし、神と心を合わせられるレベルに到達しているなら、最も高い純粋な光を下ろしてくることができます。

その光でひとなぎすれば、霊障など一瞬で払えます。
低級存在は闇の存在で光を浴びると、体中が焼け付くような思いをして逃げ出します。

ちなみに私は神から言われない限り、人の霊障を払うことはありません。
なぜかというと、払っても意味がないからです。
相談者の人生観と波動が変わらない限り、払っても払っても無限にまた違う低級存在や邪気を呼び寄せます。

その状態にあって、いかなるお祓いも無意味ですね。

だから、霊的向上を決意した聞く耳のある人にしかお伝えしないこともあるのです。
ヨガを通して神と繋がり、向上していくにつれて波動が上がっていきます。
きめ細やかな光を放つオーラとなれば、何もしなくても一切の低級存在は取り憑かなくなります。

神聖な存在との交流は、当たり前になります。
しかし、最後はそれすらも超えて、究極の神と繋がっていきます。

そのためには自分自身が純粋な存在にならなければならないのです。
そのことをわかってない人が多いですね。

人格を高め、自己を改善していくことが大切です。
霊的存在と何でもかんでも繋がればいいというものではありません。

正師から神との繋がり方(瞑想やヨガ)を教わったのならば、誠実に実践すべきです。
そうして、通常では到達できない場所(天国)に到達できるのですから。


・まとめ「本物を見極める方法」

すべての話をまとめると、以下のようになります。

1 判断基準にならないもの
外見ではわからないということ。
有名かどうかも関係がないこと。
社会的な立場や組織も関係がないということ。
過去に何があったかも関係がないということ。

こういったものは本物であるかどうかに一切関係がありません。
威厳のある外見でも貧相な心の持ち主はいますし、有名だからと言って善人であるとは限らないように覚者とは言えません。

社会的な立場もどんな組織に属しているかも関係がありません。
過去に何があろうと、神の光明を得る人もいます。
つまり、上記の事柄では何も判断できないということですね。


2 判断基準にはなるが、決定打にならないもの
何を言い、何をしているのか(言動)
どんな師に習ったか。
どんな修行の経緯を経ているか。
瞑想体験の深さ

その人の普段の言動が一つの判断基準にはなります。
善人かどうかは、じっくりと客観的に見ればわかることもあります。
しかし、それだけではわからないものがいくらでもあるのです。

善人のふりをして、慈善事業を行う人もいます。
その内実は名誉を求めているだけという人もいるように、言動だけではすべてわかりません。
ただ言っていることを精査したら、その人となりは30%ぐらいはつかめます。

どんな師に習い、どんな修行の経緯を経ているのかも重要な要素を占めていたりします。
神に目覚めた師に習っているならば、その人も覚醒するチャンスがあるからです。
しかし、素晴らしい師に習っていても、行を怠っていると目覚めないこともあります。
その人自身の瞑想体験から、どれほど聖なる事柄(真理や聖典)に深く通じているかも参考にはなることでしょう。
とはいえ、修行歴や師に関係なく、神の恩寵で目覚めてしまう人もいます。
瞑想体験にしても、本当に体験しているかどうかという問題が残ります。

このように上記の項目は判断基準にこそなれど、決定打にはならないものなのです。

3 決定的なもの
神の波動を放っている
オーラの輝き(黄金のオーラを放っている)
宇宙的真理の理解度(神の真実を悟っている)
宇宙的真理の体現度(実際的に体現できる)
神の至福

神に目覚めた人は、オーラから黄金の光が出ているので一目瞭然です。
その光が見えなくとも、エネルギーに敏感な人は神の波動に圧倒されます。
その人を見ているだけで、深い瞑想体験が起こることもしばしばあります。

この段階になると、準備ができてないとわからない部分もあります。
しかし、準備ができたら必ずわかるようになります。

また、真理の理解度という点においても深いレベルにあります。
キリストは二千年先の現在にも通じる真理を語っています。
また宇宙的な真実を体現し、様々な奇跡を通して、実証して見せました。

超能力があるかどうかは大した証拠にはなりません。
マジックで再現できるものだからですね。
しかし、人を深いレベルで完全に癒せるかどうかは神・聖霊と繋がっているかどうかの証拠にはなります。
なぜなら、マジックでは人を癒すことができません。
その上で、悪魔は闇の存在で人からエネルギーを奪うことができても、人を癒すことができません。

聖なるマスターたちは神の光を通して、生命力を分け与えて人を癒すこともできたりします。
ただ一時的に癒すというよりは、完全に魂レベルから癒すことができます。
それを表現するかどうかという点に違いはあれど、それらも可能になったりします。

本当は、この世でどのように表現するかは判断基準にはなりません。
どう表現するかは、すべて自由なのです。
この世の幻想の中で何かを表すのに、そもそも意味がないからです。

一番深いレベルのものは、神の至福を味わっているかどうかです。

神の最も純粋な境地に到達すると、最高の褒賞として神の至福が与えられます。
それは神性の輝きです。
求めて得るというよりも、神との繋がりで自然に起きてきます。

人は本来的に光です。
それも完全純粋な光です。究極の至福そのものです。
つまり、至福の境地にあるのは、ごく自然な本来の状態に戻っているだけなのです。
ただそこに到達するだけで、人は至福の状態にあれます。

しかし、神の至福を感じているかどうかはどこまでも個人的な体験ですね。
その人が目覚めているなら、神の至福のエネルギーを分け与えて、いくばくかでも他の人に味わってもらうこともできるかもしれません。
そうしたいと思うかどうかは別ですけどね。

さぁ、ここまでじっくりと本物を見極める方法を話させていただきました。
少しでも皆さんの参考・ヒントになれば、幸いです。
自分自身でも考えてみてください。
そうすれば、視野と認識が開けてきます。

彷徨える人に少しでも光が差し込みますように。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。