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完全であることを思い出す瞑想

今日は、自分なりの瞑想の感覚をそのまま言語化していきたいと思います。
瞑想の喜びを感じながら、流れるままに言葉にしていきます。

語っているようで語っていないそのままの感覚です。
この言葉を深く感じ入ることができるなら、同じ境地に導かれていきます。
瞑想を深めていくヒントにしてください。

ある日、自己の本質を悟るために、不完全な自分を完全にするためにと、一つの瞑想を行っていました。

私がやっている瞑想は、実は単純なんですよね。
正確には瞑想をやり込めばやり込むほどに、シンプルになっていったというべきでしょう。

聖音(マントラ)を唱える瞑想を中心にしています。
その日は神意識(キリスト意識)のマントラを唱えていました。
「マラック アドナエ」という音です。
意味は天使の主とも言われるもので、キリスト意識の別名とされています。

キリスト意識は神の原初の意識のことです。
それと繋がると本質的なことがわかるようになります。
キリスト意識は、アベル意識とも呼ばれるものです。


その辺りの瞑想法は、マスターAGNの本の303ページから314ページに書いています。


聖音を繰り返し唱えながら、自己の本質を悟ろうと瞑想していました。
ひたすら聖音を唱えていると、眉間から神の光がふんだんに流れ込んできて、呼吸が静まり、集中状態が高まっていきました。

「私の本質とは何なのだろうか」

ふと知りたくなったことを何度も心の中で問いかけ続けました。

光がすべてを導くようにして、私の概念を砕いていきました。
聖音を唱えれば唱えるほどに、雑念という雑念が光によって砕かれていきます。

この問いは、決して儀礼的な問いかけではありません。
本気で知りたくて、神に問いかけていました。
誰かが言ったからやっていたのではなく、真剣に探究する目的で問いかけ続けていました。

肉体ではない、という確信が湧いてくると、自分の意識が肉体から解放されていくのを感じました。
体を超えたところにまで意識が拡大していって、光の中に入り込んでいきます。
聖音を唱えるたびに強烈なエネルギーを感じて、眉間に光が差し込んできます。
光で思考もなくなり、感情もなくなり、願望もなくなっていく。

自分はなくなるものではない。
それらは、自分ではなかったのだということがはっきりわかってきます。

周りの部屋の景色が光の中に飲み込まれていって、それらもすべて消え去っていきます。
目の前の景色の中にも私の本質を見い出すことはできませんでした。
星々も、宇宙も、すべて光に飲み込まれて消え去っていきました。

自分は星々でも、宇宙でもない。

神の光明意識の中にあっても、問いかけ続けました。
そうしたら、光も消え去っていきました。
音も振動も、何もかもないのです。

「私とは一体何なのか」

今まで見てきたことが全部なくなってしまった。
何もなくなった。

にもかかわらず、深い喜びがあふれ出してきました。

そのときには、ほとんど無呼吸状態になっていました。
思考と感情と、あらゆる心の動きがなくなると、自然と呼吸も止まるのです。
代わりに、至福感が滝のように流れ出してきました。
その喜びたるや、地上の全ての財産を投げ出しても、これこそを選ぶというものでした。

何もなくても、存在しているのが自分の本質。
何もなくても、存在しているだけで歓び。

対象もないし、映す鏡もないのです。
それなのに、魂が感涙するほどの喜びに満ちあふれていくのです。

神我と一つになると、存在しているだけで全肯定の幸せがあふれてきます。
達成すべきものも、得るべきものもなかったのだという満足感があふれ出します。
完全感というべきでしょうか。
完全だったという確信のようなものです。
神我に溶けると、それが起きてきます。

私が持っていないものは元々一つもなくて、同時に私が持つ必要のあるものも何もなかった。

全所有と無所有。
それが同時に起きていました。


何もないのに、全部あるのだという感覚でした。
すべて自分であること。すべて自分が持っていること。

それが実際的にリアルな現実なのだと確かめるように、私は形無き状態であらゆるものを意識してみました。

時空を超えて、イエス・キリストの姿を見い出し、自分の意識が彼の中に流れ出して、村の中の少年を癒し蘇らせる瞬間を目の当たりにしました。
でありながら、同時にババジの内側に自分の意識が流れ出して、彼が瞑想するように自分も瞑想しているのだと感じ取ります。

時間と空間の制約を超えて、全存在に自分がいる。
真に、彼らと自分は完全に同一なのだということを感じました。
ただそれだけで嬉しくて、喜びの中の喜びを味わっていました。

全部あった。不完全じゃなかった。
そういう感覚です。

持ってないという思い込みは、自我による制約だったのだということをありありと感じました。
意識を肉体という棺桶に入れ込んで、五感の奴隷になって、なんて愚かしい演技をしていたのでしょうか。
瞑想を通して、幻想を破壊し、自我の束縛を超えたら、まったく完全に自由です。

生きているだけでいい。存在しているだけでいい。
そう言い切れほどの完全な感覚です。
自分の「存在」が究極的に至福です。

完全な赦しを誰でも得ていいし、完全な幸福を誰でも得ることができます。

今こうして話していることすべて。
神と直接繋がりながら、最高の喜びを感じながら、話しています。

あなたの本質は肉体や思考や感情などではなく、この宇宙すら超えたものなのだと思い出してください。
存在しているだけで、最高の喜びを味わうことができます。
「存在の喜び」というものがあります。
忘れているだけだから、思い出すだけでいいのです。

宇宙全て、粉々に砕いた後にさえも、その喜びは消えることがありません。
どんな困難もあなたの本質を傷つけることができません。

それに気づくために瞑想するとよいのです。

神我を悟るために行う瞑想は、人間ができる最高のものです。
どんな善行よりも勝り、あなたを完全であることを思い出させます。
元からそうだったのだと、ただ思い出していく道なのだと伝えておきます。

キリスト意識の瞑想は、その境地に導く最も効果的な方法です。
呼吸法に勝り、意識の操作に勝り、神に直接繋がって、自分の意識を神意識に速やかに導くものだからです。

地上には色々な瞑想法があります。
その中でもキリスト意識の瞑想は、私の師が神から直接教わったものであり、最も純粋で源泉となるものが込められたものだと確信しております。

この瞑想を毎日するほどに至福を味わっています。