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3修行には健康へのヒントがいっぱい① ー修行の観点を変えてみようー

僧侶的「身心一如」健康考 ー僧侶とはこころとからだの導師であるー

3修行には健康へのヒントがいっぱい① ー修行の観点を変えてみようー

◎今回取り上げる修行の定義は、宗派により定められた講義や体験的学習を、共同生活によって行う期間のことです。これこそ各宗派の教えに沿って健康に生きる方法を、集中して身につけることのできる体感実践期間ではないでしょうか。
 修行を見直し観点を変えることで、その実践が人々の幸福と安寧、そして健康を導く方法であることに気づいていくことでしょう。

〇修行と修業の違い
 僧侶ならば必ず「修行」と「修業」の違いを気にしたことは一度や二度ではないかと思います。例えば「板前修業」などと書かれていたりすると、何だか違和感があったりします。ここで改めて本来の意味としての「修行」と「修業」の違いをおさらいしておきたいと思います。
 「修行」と「修業」の違い。大辞林ではこのように書かれています。
・修行(しゅぎょう)とは、
1.悟りをめざして心身浄化を習い修めること。仏道に努めること
2.托鉢・巡礼して歩くこと
3.学問や技芸を磨くため、努力して学ぶこと。
・修業とは、2つの読み方があり、
(しゅぎょう)と読むと、学問や技芸を習い、身につけること。
(しゅうぎょう)と読むと、その分野で規定される課程または年限を済ますこと。
となります。

要約すると、
「修業」は自分のため、利益のために技術を習い修めるもの。場合によっては基準に達すれば「卒業」となり資格がつくもの。
「修行」は利害損得から離れて仏の道を行ずること。「卒行」がなく、終わりのない行を修めるもの。
です。

 現在各宗派の仏道修行は、一定期間修すれば僧侶資格がとれるという意味で修業であると言えますが、本来の言葉の成り立ちとして修行は仏道を修めるところから始まっているのです。

〇曹洞宗の修行の意味合い
 まず私の宗派、曹洞宗における修行について述べさせていただきます。
一人前の僧侶になるためには、修行に入る前後にもいくつか必要な儀式などはあるのですが、メインの修行は半年以上修行道場で共同生活をすることです(期間は入る前の状態によって変わり、最低2年以上などの方もいます)。しかし、最低必要期間過ぎたら必ず出なければいけないのではありません。徒弟である寺院の都合、修行道場の都合、そしてなにより自らの発心により、道場にいようと思えばいつまでもいてよいこととなっております。実際1年以上修行する方がほとんどですし、3年以上修行する方も多いです。
 修行内容は、年間行事はありますが、与えられた何らかの役職(数ヶ月毎に変化します)を、当役をきちんと遂行することで同じ生活リズム、生活作法によって暮らし続けるというものです。特別な荒行などは行わず、毎日を作法通り淡々と過ごしている感じです。特に、坐禅を重んじておりますので、1日の中で坐禅時間が多く設けられております。しかし坐禅だけを重要としているわけでなく、曹洞宗宗旨に「坐禅の精神による行住坐臥の生活に安住し、お互いに安らかでおだやかな日々を送ることに、人間として生まれてきたこの世に価値を見いだしていこうというのです」と書かれているように、坐禅を基礎として、その安らかな心身を生活上で体現するための仕組みとしての生活リズムや、多くの作法があるのです。さらに言うならば、多く設けられている作法という決まり事は、本来強制するために設けられたものでなく、人間が迷いなく過ごすために研ぎ澄まされた合理的でシンプルな型であり、一旦覚えてしまうと動作の迷いなく心に向き合うことのできるものなのです。このように曹洞宗の修行とは、坐禅の意識を体現化した作法通りの生活を進めることによって、生活全般を運動療法や動的瞑想として暮らす方法を身につける期間であるといえます。

〇各宗派の修行の意味合い
 先日各宗派の修行期間や内容、そして意味合いを打診したところ、いくつかの宗派の方よりお答えいただきましたので紹介させていただきます。
 日蓮宗の修行で百日荒行というのがあるそうです。これは「十界六道を身をもって知り、地獄餓鬼を体験する」修行で、内容としては食や睡眠を断つなどするそうです。この修行は自らが人々を導く僧侶としての身心の度量を築くとともに、人々の苦しみを請け負うという意味合いもあるようです。
 高野山真言宗では一人前の僧侶になるための修行として一番長い期間行うのは四度加行だそうです。これは100日間の修行で、密教における秘密の印と真言を伝授される行。完全に非公開で家族であっても面会は許されず、修行期間中は高野山参拝以外一切の外出が禁止され、病気になっても通院することができないそうです。このため、体調を崩さないように生活リズムを変えないこと、気を抜かないことが大事だそうです。この修行は、古来より伝わる僧侶としての特別な力を身につけることと、自らの体調を知りととのえる方法を身につける期間だといえます。

〇僧侶における修行の位置づけ
 いくつかの宗派修行内容からの考察ではありますが、修行として共通するのは、日常生活を一旦断絶し、生活全てを仏に捧げ、または仏に近づくために行う実践であるということ。仏への帰依を基本としながら、自らを深く見据え実践をすることで、身心の力を高める方法を身につける期間であるといえます。修行を経たということは、「修業」としての期間卒業したという意味合いだけでなく、「修行」本来の意味合いである、「心身浄化を習い修めた」存在となっているはずです。
 修行を経ている僧侶は、だからこそ知識的技術だけでなく、相手を丸ごと見据えた状態で身心を善き方向に導くことができる存在だといえるのではないでしょうか。言うなれば善き心理カウンセラーや、健康を導く方法を示唆できるお医者さんのような存在ともなりえるのです。是非各僧侶の方々は、一般の方では行うことのできない、素晴らしい修行を経た存在であるという自覚を持ち、幸福と安寧そして健康を導く存在として自信を持って人々と接していただければと願います。
 次回は仏教的生活における身心を健康に導く方法を探究していきます。

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