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4修行には健康へのヒントがいっぱい② ー祭祀のススメー

僧侶的「身心一如」健康考 ー僧侶とはこころとからだの導師であるー

4修行には健康へのヒントがいっぱい② ー祭祀のススメー

◎修行道場や各寺院での日常は、仏に帰依し敬うことを具現化した生活です。
 仏を想い実践することで、仏からの恩恵にあずかり自らも健康になっていきます。何故なら仏を尊じた日常とは真の安心状態である仏に倣った生活であり、自らもその安心を受け取ることになるからです仏教生活が健康に繋がっていることを意識して生活することで、仏教は個々人の生きる力として立ち上がってきます。
 今回は、本尊・諸仏・故人への供養や葬儀、祈祷など。僧侶が日常的に行う法要という祈りの行為。さらに一般の方が仏
の場においてお参りを行うこと。これら仏教儀礼全般を意味する「祭祀」が健康にどう役立つかを探究いたします。

〇仏教生活と健康の関係
 前回、修行とは「日常生活から一旦断絶し、生活全てを仏に捧げ、または仏に近づくために行う実践であり、仏への帰依を基本としながら、自らを深く見据え実践することで、身心の力を高める方法を身につける期間である」と書きました。
 まとめますと
①仏への帰依を体現する実践。
②自らを深く見据えることで、身心の力を高める実践。
です。僧侶は①②の実践を修行生活によって経ることで、衆生と共に生き進みながら、生死を超えて人々を導く存在になるのです。
 各宗派において修行とは、開祖が築かれ確立された①②を高める実践です。この実践は、修行の場で僧侶になるものがトータルで身につけていくものだと同時に、修行内容のひとつひとつが、各宗派の思想や生き方を身につけるための重要な方法でもあります。それは日常仏教と触れ合っていない方にとっても、身心を健康にする有用な方法になりえるのです。
 僧侶は修行から抜き取った実践法を本質的に伝えることができる唯一の存在です。なぜなら僧侶は修行を経ていることで、行のトータルを身につけたマスターであり、その実践を修行後も続けている行者だからなのです。仏教生活は、行者としての僧侶が日常行っている実践です。本来教えに沿った行をし続けるという事は、この世に於ける仏教的安楽状態を維持し続けているということです。その本質に戻り、僧侶自身が仏教生活に沿った実践から導き出される健康への意識の高まりや、本質の健康を伝えることができる重要な存在であるという事に深く気づくこと。それによって初めて僧侶は、生きとし生ける者をより本質的な安楽や健康な生き方に導く力を発揮できる存在となるのです。

〇祭祀をしなくなってきた理由
 どの宗派でも欠かすことのできない仏教的実践は「祭祀」です。「祭祀」とは僧侶が修行道場や寺院で行う毎日のお勤め。故人への葬儀、法要、祈祷。そして一般仏教徒がお参りをすること全般を指します。まさに目に見える形で仏への帰依を具現化する実践です。
 それほど仏教に馴染みのない方にとって、たまに触れ合う機会となる祭祀は回忌法要や葬儀だと思われます。最近はこれも時代の流れでだんだんと小規模になってきました。祭祀が重要視されなくなってしまった理由として一般に取り沙汰されるのは、社会が死への否定もしくは遮蔽していること。故人を想うことが生者と深く繋がっているという宗教的概念に対して僧侶や寺院が、社会や個々人ときちんと向き合ってこなかったからなどがよく言われることです。
 私はそこにもう1つの提示いたします。それは僧侶自身が、祭祀を健康や生きるために有益なものとして捉えていないからです。

〇健康法としての祭祀
 健康という立場とすると、祭祀こそ、心と身体を調え生きる充実感が長く続き健康に導かれる方法だと考えられます。特にお堂や会館で行う祭祀である法要は、本質の健康に導かれるために総合演出された最適な場です。
 法要というのは、お施主様を含めた参列の方々、僧侶、仏様が混然一体となって空間を形作っております。お堂という場は仏を奉り安らかにお迎えするため、仏国土の世界観を模したものです。生者はそこにお邪魔させていただいているのです。元よりお堂はこの世の時間空間から離れている場所です。そこでの祭祀は、私中心でなく、仏中心の時間空間に委ねられる場なのです。法要という実践は、身心を常に自分がコントロールしていると感じている日常から、コントロールできない非日常だということが体感される場です。それが個々の身心や他者とのこわばりを解き、深くリフレッシュし関係性も改善される機会となるのです。それが本質的な健康を導いていく、まさに”生き返る”場となるのです。

〇法要は六感に直接作用する場
 法要は仏の時間空間、そして非日常に委ねる場だと言いました。それを演出しているのは仏の場であるお堂の荘厳だけではありません。僧侶のお経、法要所作、焼香の臭いなど、意識を含めた六感に直接作用する多くの装置により非日常となっていくのです。これはコンサートや演劇とも似ていますが、向いている方向が故人であることで、イメージを膨らますべく意識をも駆使されていくのです。さらに親族や関わりのある方々と場を共有することで、大きなうねりとなり、五感の作用と相まって、故人・僧侶・参列者・自分の意識が混在一体となり、それぞれの境界が消えていくのです。
 六感に直接作用するということは、言語や知識でない感覚を直接受けることです。人間は一般的に言語、非言語、サブメッセージ、無意識の順で、真実性を帯びたメッセージが伝わります。それが心と身体の深い部分に直接作用していくのです。祭祀に参加し、知識的意味を求めるのでなく素直に感じることで、一体化・共鳴して大きくなった善き意識が、心と身体を調えていくことになるのです。

〇法要の際気をつけること
 僧侶が法要を勤める際、自らの身体と心そして場を整えることで、できうる限り六感に作用させる非日常を演出し丁寧に法要を行うこと。それが参列者へ仏と共に私がいる、仏に守られながら生きているという実感を引き出します。
 法要とは、分かりやすい法話の前座や焼香時のBGMではありません。法要自体に信仰を深める力があるのです。全ての僧侶が修行の実践によって身につけた体感力を駆使し、仏を想い法要の完成度を高め法要を勤め続ければ、祭祀離れやお布施の問題は起こらないのではと考えております。僧侶である我々は、高額なお布施を頂くだけのプロとしての技量を使って法要や葬儀を行っているかを問い続け実践し続けること。それが各僧侶を生かし寺院を維持するための、実は一番大切なことなのではないでしょうか。

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