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セレンディピティ

セレンディピティ

これをただの偶然としたり、はたまた神からの啓示であるとしたり、超能力的なものにしたりする考え方は科学的ではない。
とするから、科学的という言葉がおかしな解釈となり一人歩きすることになる。

昔、神様、 今は、科学様?

そもそも科学者という職業は本来、存在しないもの。

かがく、つまり化け学の学問は化学であり、これは質量のある物質が対象であり、まさにそこには客観という立場であるが、しかし、科学的根拠とは化学的とは異なるものである。

演繹法なのか、帰納法なのか

ある仮説を立てて(既にこの時点で、その仮説を立てた研究者の頭の中では答え、結論は出ているもの)その仮説の裏付けとして様々な実験を行いデーターを集め、ほら俺の答えは正しいだろとするのだが、本当の意味での大発見は、最初の仮説とは全く違うものを導き出した時であることは歴史をみれば一目瞭然といえる(笑)

そして、残念ながら人間の脳ミソは、脳ミソでは動いていないから厄介である。
脳ミソが肉体を支配しているというマシンならば、その理屈は通るが残念ながら脳ミソは肉体によって教育され、その肉体は非自己、つまりはその人を取り囲む全ての環境によってコントロールされるものであるからである。

知性を生み出す根っこは感性である

根拠とは頭の中から生まれるものと肚(五臓六腑や心)から生まれるものとの二重支配である。

『よくあるデーター改ざんは何故起こるのか』

それは、人間とは頭だけではなく肚でも生きている動物であるということの証しでもある。

『AIと人間が口喧嘩をしたらば、人間はAIには勝てるわけがない』

何故か?

ちょっと感じて考えればわかることであるが、心が冷えてくるとこれがまた理解不能となる。
人間は強い意志や意思という意識では全てをコントロールはできない。

果たして本当に運も実力のうちなのか?

しかし、これこそ精神主義における意識至上主義ともとれるとも言える。
家宝は寝て待てという脳科学的であり、そして、同時に感性という心身の教えを頭脳で都合のいいように解釈すると、この教えは、ただ不幸しかもたらさないので御注意ください。

セレンディピティ

動物の本能的な自然の力であるのだが、ここに精神世界観念がはまるとオカルトになりかねないので、こちらもお気をつけくださいませ。

そして、セレンディピティ能力を磨きあげるのも心体義塾で行うZATでもあるのです。


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