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父親の死因さえ変化した金学順(キム・ハクスン)証言について

自称・朝鮮人従軍慰安婦に『金学順(キム・ハクスン)』と言う人物がいますが、彼女の証言はコロコロ変わり、証言内容も怪しいものとなっています。

こちらのページには反論用画像に記載できなかったものも含まれています。
詳しく見ていきましょう。
(⬇のURLの情報を参考にし、一部情報を転載させていただいています)

読んでいると同一人物の回顧録とはとても思えないほど証言が変更されています。
職務質問をした将校ひとつとってみてもこの有様です。


裁判 = 1991年の裁判訴状
金学 = 金学順(キム・ハクスン)さんの証言
証言 = 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち


職務質問をした将校

📑 裁判
職務質問、および、それに連なる強制連行の話は出てこない。
📑 金学
長い刀を背中にしょっていて、その刀を養父につきつけたり振り回したりする。
📑 証言
刀の話は出てこない。

『長い刀を背中にしょっていて』と言う時点で、日本軍の将校ではないですね。日本兵は軍刀はからぶら下げてましたから。


父親の死亡原因

📑 裁判
死亡原因の言及はなし。
📑 金学
三・一独立運動に参加した独立運動家で、日本軍の銃に撃たれて亡くなった。
📑 証言
独立運動をしていたとは記載されているが、死亡理由については、「どのように亡くなったかくわしい事情は分かりません」とだけ記載。

驚くべきことに、父親の死因ですら変化しています。
その時々で都合の良いように適当にアレンジして喋っているのでしょう。


キーセンになった理由

📑 裁判
理由の記載なし。
📑 金学
母の再婚相手が嫌で家を飛び出した後、一人で稼がなければならなかったから。
📑 証言
彼女の母親が、同女をキーセン(高給売春婦)を養成する家の養女に出した。


他の自称慰安婦の人もそうですが、彼女も涙ながらに証言を行うことがありましたが、その中身をよく見てみると、どうみても記憶違いしそうにないことが変わっていたり、おかしな事を言っていることがわかります。



金学順の証言の変遷

1991年8月15日 ハンギョレ新聞

生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌のあるキーセン(高給売春婦)の養成学校に売られていった。
三年間のキーセン養成生活を終え、検番の義父に連れていかれた所が、華北の日本軍300名余りがいる部隊の前だった。

1991年12月 裁判訴状

誕生後、父がまもなく死亡した。
家が貧乏なため学校を辞めた。
金泰元という人の養女となり、一四歳からキーセン(高給売春婦)学校に三年間通ったが、一九三九年、一七歳(数え)の春、「そこへ行けば金儲けができる」と説得され、金学順の同僚で一歳年上の女性(エミコといった)と共に養父に連れられて中国に渡った。
「北支」「カッカ県」「鉄壁鎮」であるとしかわからなかった。
金学順らは中国人の家に将校に案内され、部屋に入れられ鍵を掛けられた。

1991年12月25日 朝日新聞

私が生後100日位の時、父が死んだ。
貧しくて学校は、普通学校(小学校)4年でやめた。
1939年、17歳(数え)の春だった。
『そこへ行けば金もうけができる』。こんな話を、地区の仕事をしている人に言われました。
仕事の中身はいいませんでした。
近くの友人と2人、誘いに乗りました。
平壌駅から軍人達と一緒の列車に乗せられ、3日間
私と友人は、将校のような人に空き家の暗い部屋に閉じ込められ、鍵をかけられてしまいまった。
私が連れて行かれたところは、「北支(中国北部)カッカ県テッペキチン』

1992年4月 従軍慰安婦 元兵士たちの証言

十七歳になると女の子は軍隊に連れていかれるというので、どの家でも、娘が十七歳になる前に結婚させていました。
部落の人が、日本の警察官と一緒にやってきました。
「お金がたくさん稼げるところがある」と説得され、トラックに乗った。
三日ほどして着いた所は、中国だった。
(「北支」「カッカ県」「鉄壁鎮」)

1992年8月 <証言>従軍慰安婦・女性勤労挺身隊

父は独立運動をしていた。
死因は不明。
母の希望もあったし、一四歳で平壌の「妓生券番学校」という有名なキーセンになるための学校に入った。
この学校に入ためのお金は、金泰元(キム・テウォン)の養女になって、お金を出してもらった。
卒業した年に、この養父ともう一人の自分より一歳上の娘と一緒に、中国へ行った。
ところが、着いてすぐに日本軍の兵隊が来て私たちを取り囲み、日本刀で脅した。
将校が「娘たちを連れて行け」と兵隊に命令したので、私たちは連れて行かれた。

1993年2月 金学順(キム・ハクスン)さんの証言 -「従軍慰安婦問題」を問う-

父は三・一独立運動に参加した独立運動家で、父は日本軍の銃で撃たれて亡くなった。
私が十四歳のとき、母と一緒になった男性を父と呼ぶことができなかったので家出した。
キーセンの修行のできる家の養女になった。
一九歳でないとキーセン(高給売春婦)の許可がおりなかった。
(彼女は十七歳だった)
養父が「平壌では暮らしていけないから満州へ行こう」と言った。
三日間ほど汽車に乗り北京に着いた。
食堂で食事をとろうとしている時、日本軍の将校に見つかってしまい、私たちはそのまま軍人につかまって、道ばたに止めてあった軍用トラックに乗せられた。

1993年10月 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち

父がどのように亡くなったかはわかりません。
母は私をキーセン(高給売春婦)を養成する家の養女に出した。
母は養父から四〇円をもらい、何年かの契約で私をその家に置いていった。
十九歳にならないと役所から妓生許可が下りないので、養家で一緒に妓生になるための習い事を習った姉さんと私は、養父に連れられて中国へ行くことになった。
北京に到着して食堂で昼食をとり、食堂から出てきたときに、日本の軍人が養父を呼び止めました
姉さんと私は別の軍人に連行されました

1997年12月16日 共同通信

十七歳の時の春に、日本の軍人に強制的にトラックに乗せられ、中国大陸の前線に連れて行かれたと証言


📓 日韓併合時の捏造情報に対する反論資料集

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