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ネットの前に今日も読書?『ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること』

最近、ニコラス・G・カー『ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること』(青土社)という書籍を読んだ。

私自身、読書をしている間、精神的な満足感を与えられていると思うことが多いし、街から本屋さんが消えていってしまうことを憂うが、本書『ネット・バカ』は、訳者あとがきにもあるように、「この本はネットを糾弾し、ネット以前の世界へ戻ることを推奨する本」ではなく、「インターネットがわれわれの思考モードに与えうる影響を明らかにしようとする」ものだ。

つまり、『ネット・バカ』は、インターネットと比較しながら、いかに読書という行為が素晴らしいかを語っているものではないということだ。


しかし、原書も日本における翻訳も、出版されたのは2010年だが、本書の内容は、2019年の現在の状況に対して示唆的であると思う。

ネットをやりすぎるとバカになってしまうかどうかは分からないが、毎日の生活にあまりにもインターネットが浸透しすぎると、情報が多過ぎて、どうしても注意が散漫になってしまう。

本を読んでいる間、何かを思いついたり、知らない情報に出会ったりすると、どうしても脱線したり寄り道したりして、ググるという行動をとってしまう。そしていつの間にか、元の道が何だったのか、分からなくなる――すなわち、読書に深く没頭することができなくなるのだ。


さらに、依存症的にインターネットの世界にのめり込むと、日常生活においても、速さと早さばかりを重視しがちになり、ウェブページを読むのと同じように、要約を好み、結論を先に求めてしまうような脳の使い方をしてしまう。

 マクルーハンが予言したとおり、われわれは知性の歴史、文化の歴史における重要な接合点に、まったく異なる二つの思考モード間の、移行の瞬間に到達したように思われる。ネットの豊かさを引き換えにわれわれが手放したもの――よほどのひねくれものでない限り、この豊かさを拒否したりはしないだろう――は、カープの言う「かつての直線的思考プロセス」である。冷静で、集中しており、気をそらされたりはしない直線的精神は、脇へ押しやられてしまった。代わりに中心へ躍り出たのは、断片化された短い情報を、順にではなくしばしば重なり合うようなかたちで、突発的爆発のようにして受け止め、分配しようとする新たな種類の精神である――速ければ速いほどよいのだ。

(ニコラス・G・カー『ネット・バカ』 篠儀直子 訳 p22~23)


インターネットを頻繁に利用することで得られると同時に失われるものがある。

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インターネットが世の中に浸透し始めたのは、私が大学生の頃だったが、あれから20年近く経過し、その間、ずっとインターネットは私たちの生活に影響を与え、生活のあり方を変えてきたように感じる。

だが、インターネットを頻繁に利用することで、すぐさま情報が手に入る便利さを得ると同時に、必ず何か失われるものがあるのも事実だ。


例えば、家庭に自家用車を導入すると、必然的に自分の足で歩く時間が減り、足腰が衰えるのと同じだが、このことに関して『ネット・バカ』で取り上げられる話題は、「神経可塑性に関する近年の発見」だ。

 オンラインでわれわれが、何を行なっていないかも、神経学的に重大な結果をもたらす。発火をともにするニューロンはつながらない。ウェブページをスキャンするのに費やす時間が読書の時間を押しのけるにつれ、一口サイズの携帯メールをやり取りするのに用いる時間が文や段落の構成を考えるのに用いる時間を締め出すにつれ、リンクをあちこち移動するのに使う時間が静かに思索し熟考する時間を押し出すにつれ、旧来の知的機能・知的活動を支えていた神経回路は弱体化し、崩壊を始める。脳は使われなくなったニューロンやシナプスを、急を要する他の機能のために再利用する。新たなスキルと視点をわれわれは手に入れるが、古いスキルと視点は失うのである。

(ニコラス・G・カー『ネット・バカ』 篠儀直子訳 p170~171)


もはやインターネットが無い生活は考えられないけれど、かといって、長い人生において降りかかってくる問題の全てを、インターネットが解決してくれるわけではないし、グーグルの検索エンジンが常に最適な解を与えてくれるわけでもない。


 われわれがオンラインで入る世界であるグーグルの世界では、深い読みが持つ思索的静けさも、瞑想が持つぼんやりとした無方向性もお呼びではない。曖昧さは洞察への入り口ではなく、修正されるべきバグである。人間の脳は型落ちしたコンピュータにすぎず、これにはより速いプロセッサー、より大きなハードドライブが必要だ――および、その思考の舵取りをする、よりよいアルゴリズムが。

(ニコラス・G・カー『ネット・バカ』 篠儀直子訳 p239)


今はまだ読書に時間を費やすことで立ち止まることはできる。

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私自身、インターネットをしながら自分が欲しい情報だけを採集していても、どういうわけか精神的に満たされることは少ないが、かといってただ読書だけをしていれば、より賢くなれるわけでもない。

要するにネット時代でより重要になってくるのは、読書を通じて、自分の頭で主体的に思考することだと思うのだが、空いた時間を、ただ漫然とネットサーフィンをして過ごすか、パソコンやスマホの電源を切り、思索のための読書に費やすか、最終的に選択するのは自分の意志である。

そして、ネットがライフスタイルとして浸透すればするほど、あえて読書を選択することが難しくなってくるような気がする。


ちなみに冒頭で、本書の内容は、2019年の現在の状況に対して示唆的であると思うと述べたが、まだインターネットが今のように浸透していなかった学生時代に、図書館で多くの時間を過ごしてきた著者が、「脱線――この本を書くことについて」で、この『ネット・バカ』が書かれるためには、オンライン生活の撤廃」が必要だったが、執筆が終わりかけた頃、再びオンライン生活に逆戻りしつつあると書いていることが、この本の内容自体を象徴するようで印象的だった。


  オンライン生活の撤廃は、苦痛ではないどころではなかった。何か月もおあいだわたしのシナプスは、ネット状況を欲して吠え立てた。自分でも気づかないうちに、「新しいメールをチェックする」のボタンをクリックしようとしていることもあった。一日中ウェブ祭りをすることもあった。だが、じきに渇きはおさまり、何時間も続けてタイプしたり、濃密な学術論文を、気持ちそぞろになることなく読みとおしたりできるようになった。使われていなかった古い神経回路がよみがえり、ウェブが新たに配線した神経回路が活動をやめたかのようだった。全般的に気持ちが穏やかになり、自分の思考をよりよくコントロールできるようになってきた――レバーを押している実験室のラットではなく、そう、人間らしくなったのだ。脳が急に再び息を吹き返した。

(ニコラス・G・カー『ネット・バカ』 篠儀直子訳 p272)


 実際の問題は、人々がなお時々、本を読んだり書いたりできるかということではない。もちろんできるのだ。新しい知的テクノロジーを使いはじめるとき、われわれはすぐさま精神モードを転換するわけではない。脳は二進法ではないのだから。知的テクノロジーはわれわれの思考の力点をシフトすることで、影響力を行使する。テクノロジーの最初期のユーザーであっても、自分たちの注意・認知・記憶パターンが、脳が新メディアに適応するにつれ、変化していることに気がつくこともある。けれども最も深刻な変化は、何世代にもわたるもっとゆっくりとしたペースで、テクノロジーが労働・余暇・教育に根づくにつれて展開される――その変化は社会と文化を規定する、すべての規範、すべての習慣において生じるものだ。われわれが「読む」方法は、どう変わりつつあるのだろうか? 「書く」方法はどうだろうか。 「考える」方法は? これらの問いは、われわれ自身に対してだけでなく、われわれの子どもたちに対して問わねばならない問いである。

(同  p273)


『ネット・バカ』の原題は「浅瀬」を意味する「shallows」

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近頃は、5Gといった技術や、AIが社会にもたらす影響について関心がもたれているし、情報を得るためにはテキストではなく、YouTube動画の閲覧がもてはやされている。

しかし、気づかないうちにいつのまにか、政治や経済、教育なども含め、インターネットによって私たちの生活様式の何もかもが決められてしまうようになれば、(分厚い紙の本という形式の)古典文学や哲学書はもちろんのこと、原題が「浅瀬」を意味する「shallows」であるこの『ネットバカ』すらも、読めなくなっている可能性は高い。


本が読まれなくなったのは今に始まったことではなく、書店や出版業界を含め、読書をめぐる状況は常に厳しいが、オフラインの環境で、注意をそらされずに作者と対話するようにじっくりと紙の本を読むようにすることは、一度立ち止まり、自分の頭で考えてから、これからの未来の選択をできるようになることだと思う。


 本の読み手と書き手とは、つねに高度に共生的な関係にあり、その関係は知的・芸術的交流の手段となっている。書き手の言葉は読み手の精神のなかで触媒として働き、新たな洞察、連想、知覚、およびときには啓示をも触発する。そして、批判的で注意深い読み手がいるからこそ、書き手の意欲は刺激される。だからこそ作家は自信を持って、新しい表現形式を探求し、困難で厄介な思考の道を切り開き、ときに危険でさえある海図なき領域へと飛びこんでいくことができるのだ。

(ニコラス・G・カー『ネット・バカ』 篠儀直子 訳 p108)

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