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僕らは非透明人間である

「透明人間になったら女子風呂を覗く!」

「いや、金を盗むほうがリターンがでかい。透明だから捕まるリスクはないしな」

「女子風呂以上のリターンあるか!ロマンのカケラもない奴だお前は!人としての心がない!」

「なんだとてめぇ表でろ!やってやらぁ!」

という議論を男子なら誰しも通過してきている。どんなに偉い人だろうが真面目な人だろうがそういうものなのだ。

でも男子は誰しも大人になり、考えなくてはいけないことがどんどん増えるごとに、透明人間のことなんて忘れていく。だからたまには考えてみませんか、透明人間のことを。

透明人間のことを考えると、では透明でない僕らのことをなんと呼べばいいか、という問題に突き当たる。

「人間」では?いやいや、透明人間だって透明なだけで人間だから、それでは区別したことにならない。

じゃあ、「透明でない人間」とか「非透明人間」とでも呼んでは?たしかに。しかしそうなると、途端に僕らが透明人間ありきの存在になってしまう。

「キウイフルーツ」は鳥のキウイありきだし、「ウォーターメロン」はメロンありき。「ハマのダルビッシュ」はダルビッシュありきだし、「和製メッシ」もメッシありき。

キウイフルーツにもスイカにも言い分はあるかもしれないけど、普通僕らはそう捉える。

だから「非透明人間」だと、僕らは透明人間ありきの存在になる。

宇宙人が地球に攻め込んできて、この宇宙人は透明人間も認識できるとする。僕と、1人の透明人間が捕らえられて「オマエタチハソレゾレナンヤネン」と聞かれたら、透明人間は自信満々に答えるだろう。「私は透明人間です」と。僕はどうするか。

答えるしかないのである。屈辱に唇を震わせながら、胃の物を全て吐き出しそうな怒りに震えながら、自らのアイデンティティが透明人間に寄りかかっている事実に絶望しながら「非透明人間です」と。

「ハマのダルビッシュ」が「国吉佑樹」と認識されるように、俺はこうだ!と言える何かになれるといいですね。

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