相模原障害者殺傷事件を考える

1.(1) 昨夜、相模原障害者施設殺傷事件について書かれた朝日新聞取材班著「妄信」を読んだ。

この事件は警備業関係者にとっても相当ショッキングな事件だった。

この事件は、2016年7月26日午前2時頃、神奈川県相模原市緑区千木良476番地にある、神奈川県立の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」に、元施設職員の植松聖が侵入し、所持していた刃物で入所者19人を刺殺し、入所者・職員計26人に重軽傷を負わせた大量殺人事件。

(2)自分の回りの警備業関係者の多くの見解は以下の通り。

施設内部の警備体制を知り尽くした元職員による計画的な犯行だったこと、警備員も一人体制で深夜施設内部の警備員は仮眠中だっただけに、これを防ぐのはほぼ不可能。

この不十分な警備体制の背景には複数の警備員の配置を前提にした警備計画が金銭的に厳しいという施設側の財務問題があるのでは?というものだった。

(3) それだけに読むのを楽しみにしていたのだが、感想としては結論から言わせていただくと個人的にはちょっと物足りなかった。

A  良かった点としては線密な取材に基づいていたので事件の全体像が掴みやすかったこと。

B  物足りなかった点としてはタイトルからある程度は予想してはいたものの、精神保健福祉に重点が置かれていて防犯についてほとんど書かれていなかったこと。
むしろ、再発防止のための国の監視体制を強める措置に対し、障害者に厳しいとかなり批判的で反防犯とも受け止められる内容だったこと。

つまり防犯と福祉を一緒に考えた上で、性善説の観点から防犯を考えること自体が間違っているという非現実的な論調になっていること

あと事件の真因についてもっぱら植松聖被告の持つ障害者に対する差別感情とそれを醸成した社会的な孤立と自立を要求する日本の風土に求めており、その上で人はそこにいるだけで意味がある、弱者に対する寛容な社会作りが大切だという毎度聞き飽きた性善説的・偽善的な展開に終始していたこと。

2.(1) 確かに差別はよくない。そんなことは誰も分かっている。

それでもどうしてもやってしまう人もいる。

人間という生き物はいい面もあれば差別感情のような悪い面もある。その比重は状況次第で変わる。それを自律的にコントールできるのが成熟の意味だと思う。

だから本当の意味で差別感情をなくすことは不可能だと思う。

社会的な孤立だとかネット議論はあくまでその性質を表に出すきっかけに過ぎない。

例えばその孤立を無理矢理解消すれば、憲法13条の自己決定権や憲法22条の職業選択の自由を侵害することにもなるし、ネット議論をヘイトだと言って侵害すれば憲法21条で保障される表現の自由を侵害することにもなる。

孤立やヘイトスピーチを禁止すれば、逆にはなはだ不寛容なファシズム社会になる恐れがあるのだ。

なので、それを防ぐには、そういった人間の性悪も含めた両面性を前提に多様性を許す社会風土を形成するように国は誘導すべきと考える。

やはり防犯を考えることと福祉を考えることを別に考えるべき。

そのためには例えば国が施設に対して使途を防犯、できれば監視カメラだけでなく警備員配置を義務づけ、その実施に限定した助成金を支給する施策を行う等して福祉施設が助成金をプール出来ないようにする必要があるのではないかと思う。

となると最終的に国、国民がこういった防犯についてどう考えるかの話になっていくと思う。

以上の点から僕はこの本の主張に対してあまり共感できなかった。

(2) ちなみに、この事件で、男性職員が犯行の継続を諦めたのは、男性職員が2階の空き部屋に逃げ込んだことで警察に通報されることを恐れたためだと後に植松被告は発言している。
やはりその一点からも警備にとって初動対応がかなり重要だと分かる事件だった。


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