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何ゆえに裁きうるか①

ぼけぼけの86歳の母が、テレビニュースを見ていても「何もわからん」と言いながら、「なんで人間は戦争なんかするんやろう。なんで?」と繰り返し繰り返し聞いてきます。
裁きと悪についての面白い対談を見つけました。一部分を2回に分けて掲載します。


1971(昭和46)年 6月『展望』筑摩書房(『To Be, or Not To Be: 木下順二対談集』筑摩書房、1972 に収録)
対談 何ゆえに裁きうるか
 木下順二(劇作家)
 作田啓一(京都大学教授・社会学)

はじめに
原点としての東京裁判
裁判における客観的価値
〔以上、略〕

裁きの根拠は何か
 木下 ところで、裁くという場合、何かしら秩序というものにのっかって裁くということがありますね。シェイクスピアの『マクベス』という芝居で、マクベスがダンカン王を殺そうとするのは、エリザベス一世を中心とした絶対主義社会の秩序を破るということで、そういう意味で悪である。こうした裁判なんかふつう行なわれている。じゃ、しかし、秩序というのは何なんだという問題がひとつ残ると思うんです。裁く側は、自分は正当な立場があるつもりで裁いているわけですけどね。いまの最高裁なんかの場合では、そこをもう一つ踏みこえて、体制と結びついて裁くというところがあるんじゃないかと思うんですが、とにかく裁くという以上、何かの根拠があって裁くわけでしょう。その根拠というのは何なんでしょう。秩序ということばで抽象的にはいえるんだけれども。
 作田 裁きの根拠を考えていきますと、やはり人間の社会の原型である、ギヴ・アンド・テイクの相互作用というところにいきつくと思います。恩恵を与えたものが、そのかわりに報酬をもらう。そして、その恩恵と報酬との関係がある程度固定していくと、これこれのことをすれば、相手に当然これこれのことをしてもらえるという期待が起こるわけですね。そういう期待の制度化されたものが、オーダー=秩序といわれるものである。だから、人間の社会が安定して存続するためには、お互いに頼りになり得る(dependable)人間となるということが必要でしょう。これこれのことをしたのに、全然それと見合わない報酬が返ってくるということでは、一つの社会のオーダーが保てない。だから、そういういわば債権と債務の関係にアンバランスを引き起こした行為は、社会に対する反逆であるということになる。
 木下 それは人間同士だけですか。
 作田 人間同士だけですね。
 木下 へんな質問をするけれども、犬とか、ぼくの得意なる馬とかに、あることをしろと命じますね。その動きをやった場合には、報酬を与えるわけです。何か食わせてやるとか。そういう場合と、人間同士のギヴ・アンド・テイクの概念とどういうふうに区別するんですか。
 作田 人間の場合には、約束をなしうる能力があると設定するわけですね。
 木下 個人の主体的能力。
 作田 そうですね。未開社会などでは、しばしば動物が刑罰の対象になったりすることがあります。たとえば自分の氏族の守護神と考えられているワニが、自分の氏族のだれかをくわえて池の中にもぐった。そういう場合には、裁判を開いてそのワニを処刑する。しかし、ほんとうにそのワニが見つかるわけではない。ですから、たまたま池の中でつかまえたワニを、きっとこれがやったに違いないということで、ちゃんとした儀式を開いて--裁判というのは儀式ですね--そして、ワニを処刑する。そういうふうに、まだ人間の能力が何であるかということが、動物とはっきり区別されてない段階では、動物を刑罰の対象にする。
 木下 その場合は、人間が自分の秩序を保つためにワニをたまたま使って、裁判の儀式を開くんでしょう。
 それとも、ワニは人間と同じ能力があるものとほんとうに考えて……。
 作田 そこのところはかなりフィクショナルなんでしょうけれども、自分の仲間であるというふうに、ワニをこちら側に入れてしまえば、ワニは決して自分たちに悪いことをしないだろう、という安心感を得るために、ワニを自分の仲間にむりやり引き入れているだけであって、ほんとうにワニに責任能力があると思っているかどうかは疑問です。一応そういうふうにして安全圏を広げているわけですね。
 木下 その場合、ますますへんな質問しますけれども、ワニのほうは裁判開けないわけですね。
 作田 ええ。
 木下 人間のほうが開く。つまり人間が、それなりの意識、能力で保っている未開社会なりの秩序、それを維持するためにワニを裁くわけですね。
 作田 そうです。だから、人間が非常に強力になれば、というよりも、社会が非常に実力を蓄えてくれば、ワニなんか当てにしなくたって、安全が保てるわけですから、ワニには責任能力なしと認定してしまうわけです。その次に、子どもは責任能力なし。狂人もなし。というふうにだんだん範囲を狭めていって、精神が正常である年齢層に達したものだけが、正常な大人だけが責任を問われるということで、そこで秩序の範囲を限定するわけですね。そして、貸借関係のバランスが崩れた場合、そこに犯罪があるということにしていくわけです。
 その場合に、刑法は民法と違って、ふつうの貸借関係、つまり個人と個人との関係でなくて、社会と個人との関係を基礎にしているわけです。社会が個人にいろいろ恩恵を与えている、その恩恵を返せるにもかかわらず返さないとか、恩を仇で返すようなことを行なった、それが裁きの根拠になっているんじゃないかと思うんですね。
 木下 その場合、しだいに限定していきますね。ワニではない。気違いではない。年齢が幾つまでかの少年は責任がない。犬が人を噛んでも、それは飼い主に責任がある、と限定していきますね。その場合の除外された以外の人間、いわば大人、それが持っている秩序というものがあるわけですが、その秩序は何が根拠になるんですか。
 作田 ジャスティスというか。
 木下 ジャスティスの本質は何でしょうか。
 作田 やはり人間は単独で暮らせない、相互に物とかサービスとかをやりとりして暮らしていく、こういうことが根拠じゃないでしょうか。共同生活をディスターブすることが犯罪である。そこで、裁かざるをえない。そういうことになると思うですね。
 そうすると、こうした市民社会の裁きの理念で、ちょっと律しきれない問題が出てくるわけですね。共同生活のユニットでない、もっと大きな広がり、たとえば国家の他の国家に対する侵害。そこではだれも自分の国家には恩恵を受けているけれども、よその国家には恩恵を受けていない。それをどう裁くかという問題が一つ。
 それから、全然恩恵を与えられていない国民がいるわけです。たとえば永山則夫。中学三年のころですが、おかあさんが入院したころは大根と水だけで三日間暮らしたというような少年ですね。この場合に社会が全然恩恵を与えていない。恩恵を与えていないのに、お前は恩恵を与えられたけれどもこういうことをしたのはいけないと、こういうふうに裁く権利がはたしてあるのかどうか、という二つの問題が出てくると思うんです。
 そこを、戦争裁判の場合には、国際社会というフィクションをつくって……。
 木下 フィクションでしょうね。
 作田 ここには人道という理念がある。そして、みんな互恵的な関係にあるんだという仮定をしているわけです。しかし、現実にはそういう人類社会はできていないので、そこにはどうしてもむりがある。
 たとえば経済の面では、相互の互恵関係がある程度形成されてはいるものの、まだ第三世界とかいうような領域を残していますし、世界は完全には有機体となっていないということは明らかです。理念の上では人類という観念が先に出ているわけですから、現実の下部構造と理念的な上部構造との間にギャップがありながら、理念の上からは、裁きが必要だという要請が、当然出てくるわけですね。
          〔続く〕


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