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旅する心で日々を生きる

1978(昭和53)年 4月『Square』No.30、レジャー・サービス産業労働情報センター

旅する心で日々を生きる   作田啓一

 観光用の名所やその付近に住んでいる人にとっては、その名所は見るに値しないありふれた場所であるにすぎない。ところが、その人がまた、別の人にとっては住みなれた場所にすぎない風景を、高いコストを払ってでも見るに値するものとみなして、そこへわざわざ出かけてゆく。私は旅行嫌いのほうで、海外はもちろん国内の旅もほとんど試みたことはないが、それでも一度パリを訪れた時は、なんでもない街角の風景に心をひかれて、旅の楽しみのいくらかはわかったつもりでいる。その辺に住んでいたり、そこを通勤したりする人々にとっては、その街角は単に物理的空間として存在しているにとどまるのに、それが旅行者を感動させるのはなぜか。居住者あるいは通勤者として見る街角は、見なれた街角というすでにでき上がったイメージの枠組を通して見られている。この既成の枠組を通して見る限り、人は対象の一つの側面だけを見ているのであって、対象全体に心を傾けてはいない。それはたとえば通勤者にとっては目標のビルの5分間手前を表わす記号であるにすぎない。旅行者にとっては、それは道具的な記号ではなく、心という分割できない全体の外部への投影なのである。そういうわけで、旅行者は平凡な街角の風景に感動したりする。彼が旅行から帰り、ふだんの日常生活に戻って街を通勤する時、よそからきた旅行者が感動する街角に何の感興も覚えない。対象が問題なのではなく、対象を見る心が問題なのである。したがって、旅行した時のような心をもって生きている人にとっては、見なれた対象も、その時々によって常に新しい側面を呈示し、彼の心を動かすことができるだろう。ピカソの毎日は仕事の連続であり、たまに外出する時もことさら変化を求めず、カンヌの港町へドライブするコースはいつも同じであったそうである(瀬木慎一『人間ピカソ』日本放送出版協会、p.127)。彼にとっては見なれた風景が見なれたものとは見えなかったのであろう。ピカソのような天才からは程遠い我々は、既成のイメージの枠組に縛られて生きているので、何を見ても面白くなく、退屈して毎日を送っている。だから我々は旅をしたいと思うようになるのだが、まだ本物を知らない風景すらすでに絵葉書で知ってしまうような今日では、旅の中で出会った風景をさえ、既成のイメージの枠組を通して見ざるをえない、といった事態も起こりつつある。そうなると、旅立つということはもはや本質的な問題ではなくなるだろう。もちろん、旅するような心をもって日々を生きるということは、実際には極めて困難ではあるのだが、それこそが真の問題であることがはっきりしてくるであろう。
(さくたけいいち・京都大学教授)

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