悲劇の主人公ぶるのはもうやめようか#50

現在、朝の8時8分。いつもなら出勤している時間だが勤労感謝の日ということでゆっくり起きる。いつものように白湯を飲みながら、昨夜見た夢のことを思い出す。今日記を書いているのはそんなうたかたのような言葉を残しておくためだ。

自分の人生をどう捉えているか

僕は自分の人生をどこか”悲劇”として捉えている気がする。途中どんな幸せなことがあったとしても結局は報われない、悲しい物語として終わると思い込んでいる。ある意味自分に枷を課しているとも言える。

誕生日に気がついた2つの信念がその証かもしれまない。
・自分は人を傷つける存在だ
・自分は幸せになってはならない存在だ

悲劇と捉えることによって、諦めの理由を作っているようにも思う。

どうせ報われないのだから。
どうせうまくいかないのだから。
頑張ったって意味がない。
だから、頑張るのやめよう。

そんな声が聞こえてくる。

自分の人生をどう捉えたいのか

だからと言って、自分の人生を喜劇と捉えたいわけではない。避けたいのは、悲劇の主人公ぶることだ。ときには悲劇のように感じることもあるだろう。でも、悲劇の主人公という役割をそのまま演じ続けたくはないのだ。ある程度は自分の思い通りに物語を書きかえることができるんだという感覚を持っていたい。

悲劇の主人公という役割が与えられていることに、受け入れすぎてしまっている。僕は無思考で受け入れることに慣れている部分がある。抗おうとしない。楽だから。

ただ、抗っている自分の存在を感じてもいる。その声は少しずつではあるが、徐々に大きくなっている。そんな声をここに言葉として残しておきたい。

悲劇の主人公ぶるのはもうやめようか

と、ここまで考えてみたけど、肝心のどう人生を捉えたいかについてはわかってはいない。わかったところで無意味と思っているからなのかもしれない。あるいは、悲劇の主人公という役割を無抵抗に受け入れるように、考えることを放棄してしまっているのかもしれない。

とはいえ、ひとつだけ浮かんできたのは、何て幸運な人生なんだろうということだ。

幸せではなくて、幸運。色々思い返すと運がいいことたくさんあったな。光を当ててくれた方々に感謝です。

2021.11.23.Tue.8:33

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