見出し画像

点描-枯山水ライク :『うつらうつら移りける辞』#13

タイトル的な単語が出てくると白紙の上に写真のレイヤーを乗せた直後みたいにピースが落ちていくのは面白い 続けられるかはわからん

とてもとても体幹のない自己世界だなぁと今まで虐げられたと感じた過去の記憶よりも鮮明に自己を嘲りつつ、無常の滝が精神の中に流れているのだろうと肯定しつつ生きていくことや行動の中に求められるステートメントを内省することを3日に1回くらいは行なっている

今回はざっくりといえば「人生(便宜上の大きな主語だから鮮明な言葉はもっと別にある)は点描的で、最終的に外から見つめている情景には枯山水のようであるのかもしれない」と考えていた

有象無象ある大小の異なった選択に次ぐ選択-もはやこれは1択であっても該当すると思う-をおしなべて点描を無差別的に施す作業である おそらくインプットした知識なんかも別の厚紙か隔たりをもった上で涼しい顔をして踏み込んでくるようなカウンターパートに近い
どんな手触りの事象と出会うか、その中でどれだけの認識と批評と実行etc.のフィルターを通して純度の高いニューアイテムが手に入るかは自然と比較してしまえば矮小にも程があるくらいの意図と偶然性の賜物と言える アイテムクエストを繰り返して積み上がっていく無数の点は均等に敷かれたものでも、テキスタイルに刻まれているような模様を描く訳でもない、ない訳でもないが(言い切れはしないのが偶然性だと認識している)

似たような分野や事象が繰り返されたらばおそらく似たようなところの点の数が多くなっていく
これによってなんらかの集合体が描かれ、絶対数の少なかった点のフローを妨げるようになっていく

みたいなくだりを繰り返して

どの時勢、どの価値観、どの絶望を持っているかはさておき賽の河原に立ち入った時のように自分の汚し尽くしてきた-不可逆的なシワをつけてきたとか言う方が感性的には近い-平面を俯瞰した時に見える形が各々に見られる枯山水のような情景が浮かばれるのだろうなぁという観念である

中々に小石が多いなぁとは思っている 龍安寺の侘び寂びや美しさを人間の整然さに甚だ欠けている濁流の中で作り出すことは至難の技どころか不可能なのでは????と思ってしまう
出来たらそれはそれでいいけれど 画一教育みたいな形でなされることは絶対にないと思うし出来たあかつきには思考や知能がないみたいな着地になりそうな予感がしている

小石で敷かれた水の中に佇んでいる小石
もはやこれは砂なのか???まぁそれはそれで味があって好きだからいいか

粒度を大きくすることがぼんやり自分の指向性にあるのかもしれない

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?