『うつらうつら移りける辞』#4
詩のように辞と向き合う感性が徐々に喪失しつつある
個人の中の年輪が中抜けになってしまった 腐敗してしまったという方が近いかもしれない
時が眼前をさらい続けて、「持たざる」感覚だけがただ寂寥と散っている
しかしながら、その色だけが色褪せることなく己の中では息吹いていて、濁流と化している 川岸に立ち尽くして、その流れが水底を食い、時として遠くで物、人を貪っている様子を眺めていることしか許されていないのだろう
幸か不幸か、その濁流を濁流だと認識することは可能なのである
目の前で苛烈に振る舞うそれを生まれ落ちた時から見続けていて、差異によって認識するまで濁っていると気づかない、言うなれば濁流のネイティブであればどこかで喜びを享受出来たのかもしれない 希望的観測に苛まれて呼吸が浅くなる
晴れた日を謀るよりマシだと救いを求めることは愚かなのだろうか.
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