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彼方からの臭気 第1話

あらすじ

製造工場の事務員である樋口香織は、鋭い嗅覚の持ち主だ。香織は水野部長のパワハラを厭いつつも業務にいそしんでいた。
ある日、香織は従業員の関根が怪しげな書物を広げているところに出くわした。その数日後、香織は関根が縊死をとげているのを発見する。やがて香織は、異様な臭気を発するものがはるか遠くで蠢いているのを、感じ取る。
その日、工場の地下深くに例の蠢くものが来ていることを、香織は知った。従業員たちが意味不明な言葉を呟きながら香織に迫る中、香織の前に現れた山野辺が、隠れていた水野を見つけ出す。すべては関根の恨みを晴らすために山野辺が企てたことだった。
水野は従業員たちによって生きたまま解体された。

 消毒用塩素剤のにおいを伴いながら蛇口から水がほとばしった。これを旨そう飲める人の気持ちが、まったく理解できない。においが強すぎるのか、目に染みるほどだ。
 せめて塩素の殺菌効力にあやかろうと、いつもより多めの流水で、一心不乱に湯飲み茶碗を洗った。いっそのこと世界中の全ての毒を消してくれたら、と思う。
 午後の始業時間五分前であるのを、樋口香織ひぐちかおりは腕時計で確認した。洗い終わった湯飲み茶碗を次々と籠に入れていく。
「これだって、れっきとした仕事よね。時間外手当くらい出せっつうの」
 香織と並んで湯飲み茶碗を洗う奥村弥生おくむらやよいが、口を尖らせた。その表情の険しさと比例するかのように洗い方が雑になっている。
「あの製造部部長が仕切っている会社ですからねえ。この世の終わりが来たって、絶対にありえないですよ」
 香織はため息をつきながら、弥生が洗い終わった湯飲み茶碗を、籠に入れ始めた。
 給湯室の小さな窓からは、夏の青空が積乱雲に浸食されていくのが見える。蝉の声に紛れて、太鼓の轟きのような雷鳴が伝わってきた。
「本当にそうだ。あのばか部長じゃだめだね。五十おやじが……まったく!」
 弥生は後ろで束ねた長い髪を揺らしながら、まるでやくざが相手を威嚇するかのように頭を上下に振りまくった。反動でずれ落ちた眼鏡を、濡れたままの手で直す。
「製造部もそうですけど、検査部や管理部の雰囲気まで変わりましたよね」
 香織の言葉に、弥生の顔から荒々しさが消えた。
「そうよね。最近は辞めちゃう人だって多いし」
「いじめもあったんでしょう?」香織は声を潜めた。「えっと、検査部だったかな?」
「そうみたいね……内容はよくわからないけど。いい大人のすることじゃないわ。でも、製造部の現場は一番ひどいよ。みんな人間扱いされていないみたいだわ」
 給湯室の空気が鉛のように重い。それは香織が感じていた塩素臭を、さらに刺激的ものにした。好みではない紺色の制服にも、そのにおいが染みついているような気がしてならない。
「でもどうして、たかだか製造部の部長が、工場長を差し置いて好き勝手にやっていられるんですか?」
「あれれ……香織ちゃん、知らなかったの? あの部長の奥さんって、本社の社長の娘なんだよ」
「え?」
 呆気に取られて、弥生の顔を見る。
 話を理解するために、五秒ほど費やさねばならなかった。
 地元の大学を卒業してすぐに入社し、今年で二年目である。それでも初めて知った事実だった。
「嫌よねえ。政略結婚だなんて」
 苦笑する弥生が、ハンカチで手を拭いた。
 弥生は五年先輩というだけでなく、かなりの情報通だった。もっとも、上司の妻の件は、知っていて当然だろう。
「ところで弥生さん、この給湯室、なんだか黴臭くないですか?」
 二人でほぼ満員となる狭い室内を、香織は見回した。塩素臭の中にも、そんなにおいを感じ取ってしまう。
「うーん……梅雨明けに黴取りしたんだけどなあ」
 弥生は鼻をひくひくとさせた。
「見た感じ、きれいなんですけど……それに、排水口からも下水のにおいが逆流しているみたいで」
 香織がそう言うと、弥生は自分の鼻の頭を人差し指でつつく。
「香織ちゃん、鼻が利くよね?」
「そんなこと、ありませんよ……」
 香織の中では、においの話はタブーだった。それを自ら犯してしまった、と自責の念に駆られる。
 しかし、気になり出したら切りがないのだ。異臭や悪臭ならば、なおさらである。
 ――まったく、香織だなんて。名は体を表すのよね。
 唯一親を恨むとすれば、この名前にしてくれたことだった。

 事務所の南側に面した窓ガラスを、夕立が激しく叩いていた。
 向かい合わせの席で資料に目を通す太りぎみの男が、閃光が走るたびに眉をひそめる。
「まさかとは思うけど、停電になったら一からやり直しだ」
 おどけたように言う四十五歳のこの男は、直属の上司の板橋いたばしだ。
 整髪料のにおいが、香織の鼻孔を貫いて目に染みた。いつものことだが、それだけでこの男のそばから離れたくなる。仕事以外ではかかわりたくなかった。
「バックアップは取っておきました。……現場に行ってきます」
 にべもなく言った。そして、脂ぎった顔から目を逸らしつつ、現場の各職場に配布する書類の束を手にした。
 雷鳴が轟いたのは、その直後だった。板橋が仰々しく両目を閉じても、香織は相手にしない。
 彼女の注意は、製造部部長の有野克好ありのかつよしに向けられていた。部下たちを監視するように配置された机が、その男の定位置である。
 有野はパソコンの操作に集中していた。その眼鏡にパソコンの画面が反射し、表情は窺い知れない。実年齢より若く見えるが、痩せて尖った顎は狐のようだ。
 香織の直属の上司は係長である板橋だが、その板橋や課長さえをも通さずに、香織は有野本人から仕事の指示を受けることが多かった。もっとも、雑用が主な内容である。
 それにしても、ヘビースモーカーの有野の顔を見ているだけで、禁煙のはずの事務所内がタバコ臭く感じられる。
 株式会社長谷川動伝はせがわどうでん工業筑西工場の従業員の全ては、この有野という男の持ち駒でしかなかった。東京の本社から派遣されている工場長さえ――である。
 そんな管理者たちの思惑に、香織は疑念を抱いていた。これまでの事業所内の改革は、単なる市場原理主義ではないのかもしれない。地位や名誉に魅せられた者たちの駆け引きに、自分たちは翻弄されているだけではないのか。
 紺色の作業帽をかぶった香織は、三十人ほどの人間がひしめくフロアを足早に出た。
 事務所玄関の手前から、階段を使って二階に上がる。そして事務所の真上に位置する設計部の正面を経由し、連絡通路を渡って現場二階の研究所へと入った。しかし、試作品の実験をおこなう部署にしては誰もいないし、照明も落とされて薄暗い。
 このルートを使えるのは、事務所、設計部、研究所、という部門の人間か、管理職に限られていた。研究所の所員でさえ、普段は設計事務所での執務が多い。就業時間中にあって閑散としているのは、そのためである。
 空調設備のない現場に入ると、じんわりと汗が滲んできた。
 豪雨が屋根に喝采を浴びせている。
 香織は逃げるように、階段を使って一階へと降りた。そこは、機械の動力伝達装置を主な製品として製造する、現場フロアである。
 その瞬間、香織の鼻孔が有機物以外のにおいで満たされた。切削工具を保護し、かつ加工効率を上げるために使われる油――そのにおいだ。それは、まるで石油が焦げたようなにおいである。
 香織は後悔した。常に携帯しているマスクを、うっかり忘れてしまったのだ。
 人並み以上に敏感な嗅覚など、誇らしく思えるはずがない。他人のかすかな体臭によって吐き気を催すことさえあるのだ。周囲に余計な気を遣わせまいと、逆に香織が嗅覚の鋭さを伏せている次第である。もっとも、現場を回るときは常にマスクを着用しているのだから、アレルギー症などと思われていても仕方がない。
 香織が最初に向かった現場では、旋盤やフライス盤といった、金属を切削加工する機械が稼働していた。
 モーターの稼働音や金属の削り取られる甲高い音が入り混じっている。周期的に音質が変化する無機質で耳障りな音楽会、といったところだ。誰からも歓迎されないカプリチオである証しに、現場従業員の大半が耳栓を着用していた。
 だが、香織にとって、音は陰鬱の要因になるほどではない。悩みの元凶は、あくまでもこの「におい」なのだ。
「樋口さん、今日はマスクしていないんだ」
 この職場のリーダーが、自動で動いている一台のNC旋盤の陰から出てきた。作業服と作業帽はともに薄茶色一色のはずなのに、油汚れによってところどころに濃い茶色の斑点模様が追加されている。この男が近づくだけで、そのにおいは強烈さを増した。
 それでも己の業務は遂行せねばならず、必要ぶんの書類を男に渡した。
「そうなんです。肺を冒されないうちに、早く逃げます」
 香織としては本気で言ったつもりだ。そして、ハンカチで口を押さえながら、次の現場へと向かう。
 緑色に塗装された幅二メートルの通路を進んだ。その両側に並ぶ巨大な加工機械の間に、幾多の油臭い視線を感じる。
 いつものことなのだが気恥かしさを感じ、香織は帽子のつばを深めに下ろした。
「アイドルが制服を着ているような、はつらつとした壮健さがあるね。現場の女性といえばパートのおばちゃんだけだし、より一層光って見えるんだよ」と弥生に言われたことがあった。自分では、少し幼いイメージかな、と思っている程度なのだが、弥生にはボブの髪型と大きな瞳が気に入られているらしい。
 しかし、このにおいがあるのでは、浮かれた気持ちにもなれない。
 次の職場は、さらなる異様な臭気に満たされていた。切削油の焦げたにおいなど、ただの腐敗臭に感じられる。こちらのにおいは硬質的な鋭さがあり、香織の鼻の奥を一気に突き刺した。ある種の薬品のようにも感じられる。
 香織は顔をしかめながら、だだっ広い現場へと入っていった。わずかに頭痛を覚える。
 中央に置かれた細長い台車の上に、円筒形の金属が並べてあった。全長三十センチほどの作りかけの部品だ。
 その奥では、何枚もの衝立に囲まれた四台の機械が、管楽器から放たれるような低い唸りを上げている。その衝立のわずかな隙間から、強烈な光が漏れていた。
 ここでは、円筒形の部品同士を溶接で接合する作業をしている。自動溶接機で部品の外周を溶接するのだ。
 香織の鼻を刺激していたのは、溶接部を大気から保護するために使用されているアルゴンガスだった。集塵機で吸い切れなかったガスが、迷い込んだ獲物をとらえるべく、この一角を漂っている。
 この四台の自動溶接機を背にして、部品が載せてある台車をじっと見つめる従業員がいた。痩せ細っており、まるで死期を間近に控えた老人のようである。身長は百七十センチほどだが、背筋が曲がっているせいか香織と同じくらいにしか見えない。香織に気づいていないのか、惚けたように立ち尽くしている。
 男はこの職場でサブリーダーを務める関根俊夫せきねとしおだった。入社以来十年以上、この職種に携わっている三十三歳のベテランだ。以前の彼は明朗活発だった。休憩時間には男同士の井戸端会議で司会進行役となり、あまつさえ趣味である釣りの話になると、その雄弁さに拍車がかかった。そうなれば誰にも止められない。従業員たちの事情に疎い香織が知っているほど、社内中で有名な釣りばかなのだ。
 とはいえ、それも半年前までの話である。
 今の関根は壊れかけていた。
 片づけても片づけても、増えることはあっても減ったためしのない仕事の山。納品の予定は二年先まで入っている。さらには職場の美化活動、改善提案、QCサークル活動の成果報告など、会社から要求される責務は重さを増す一方だ。特にこの職場では課員の減ったぶんを考慮すると、関根への負担は計り知れないものになっていた。
 ただそれだけなら、いくらでも同じ境遇の者はいるのだが――。
 香織は溶接課の職場内を見渡し、話せる人物をほかに求めた。
「今日は青山あおやまさんが夜勤だから」
 ふいに耳元で声をかけられた香織は、書類を胸の前で抱いたまま硬直した。
「それ、持ってきたんだろう?」
 関根だった。
 取り乱した自分を隠そうと、香織は笑顔で「ええ」と答えた。
 関根は目の下の隈が哀れな、やつれた表情だ。服用している薬の影響か、加齢臭がアルゴンガス以上に強く感じられた。
「おれが預かっておくよ。また、たくさん持ってきたね」
 書類の束を受け取りながら、関根はため息をついた。
「関根さん、大丈夫ですか?」
 そう心配する香織には答えず、関根は書類の確認を始める。
「樋口さん」関根が顔を上げた。「太古の地球で隆盛を極めていた異形の種族、っていうのを信じるかい?」
「え?」
 何を言っているのか、香織には理解できなかった。
「恐竜の時代なんかよりずっと遠い昔に、神々の眷属として栄えた種族だよ。今だって、彼らは存在しているんだ」
 香織は声を出せずにすくみ上がった。
 しかし関根は、香織の反応などには興味がなかったようだ。それだけ言うと、書類を片手に溶接機へと向かう。
 関根と入れ違いに、一人の男が香織に近づいてきた。
 端正な顔立ちの青年が、香織の前で微笑む。
「書類かい? 青山さんは夜勤で――」
 この職場では一番若い従業員、山野辺士郎やまのべしろうだった。若いうえに背も高い。百六十センチほどの香織でも、多少見上げるように顔を向けなければならなかった。
「うん。だけど関根さんに渡したから」
「そうなんだ。あとでぼくが預かっておこう」
 そう告げた山野辺は、依然として台車の前に立ち尽くす関根を、静かに見つめた。
 悲痛な思いで、香りも関根を見る。
「二交替にして、関根さんは楽になったのかな?」
「今さら遅いと思うよ。こんなになるまで圧力をかけておいて、ひどいものさ」
 山野辺が言うと、香織は頷いた。
「どうして関根さんだけが、ああなっちゃったの?」
 香織に悪気はなかったのだが、その言葉に山野辺は顔をしかめる。
「有野部長に……好かれていなかったんだよ」
 言葉を選んだようだった。
 香織は首を傾げる。
「好かれて……いなかった?」
「うん。部長のやり方や考え方に反発していたからね、関根さんは。まあ、関根さんに限ったことじゃないけどさ。……自分の思い通りにならない人間は当然のように虐げるだろう、あの部長は」
「有野部長に何かされたの? パワハラとか」
 そうであるとすれば、深刻な問題だ。
「パワハラというか……例えば、自動溶接機を稼働させている間に、時間がもったいないからフォークリフトで部品のパレットを取りに行くんだ。すると有野部長に呼び止められて、職場離脱をするな、と注意されていたし」
「だって、専門のラインキーパーがいるんでしょう?」
「ラインキーパーの数が足りないんだよ。そんなのを待っていたら、次の仕事にかかれないんだ」
「そっかあ」
「それに、そのやり方は小池課長が認めていたくらいに効率のいいやり方だったんだ。だから、関根さんは部長に注意されたことを課長に報告したんだよ。当然だろうけど小池こいけ課長は、そのやり方は間違っていない、と言ってくれたんだ」
「よかったじゃない。小池課長も捨てたものじゃないわね」
 少しだけ、救われた気分になった。
 しかし山野辺は、前髪をかき上げながら「よくはないさ」と切り返す。
「その次日、職場の朝礼に部長が出席したんだ。そうしたら、小池課長は凄いことを言ったよ。勝手に職場離脱をするな、とね。名指しではなかったけど、納得のいかない関根さんは、朝礼が終わったあとに小池課長に詰め寄ったんだ。課長は、部長の前だからそう言うしかなかった、って釈明したけど、その件のせいで、関根さんはボーナスの査定がマイナスになっちゃったんだ」
 山野辺は言い終えると、呆れたように肩をすくめた。
 香織は胸を締めつけられる。
「小池課長、まるでタヌキおやじじゃん」
 言ってから、自分の品のなさを呪った。
「タヌキ……なるほど」
 山野辺は頷いた。小池の容姿を思い浮かべたのだろう。
「今のは一つの例にしかすぎないよ。本当はもっといろいろとあるんだけど、話すと長くなるし」
「確かに、それじゃ病気になっちゃうね。で、病院には行っているんでしょう?」
「うん。週に何回か行っている。でも薬漬けみたいだよ。辛うじて仕事はできるけど、容体は段々と悪くなっているような気がするな。そのぶんぼくらがやるから、関根さんには、ゆっくりと休んでもらいたいんだ」
 山野辺の言葉を聞いて、香織は関根に視線を戻す。
 妻と五歳の長男がいるというのに、この男の家庭はどんな有り様になっているのだろうか。どう思っているのか、有野に直接訊いてみたかった。
「そういえば……関根さん、異形の種族がどうのこうのって言っていたけど」
 関根の不可思議な言葉が脳裏に浮かび、香織は言った。
 山野辺は「異形?」と首を傾げる。
 そもそも、関根はそんな話題を持ち出す男ではないのだ。釣り以外に興味がないということは、誰もが認めている事実なのだから。
 気にするほどではない、と思いつつ、香織も首を傾げるしかなかった。

 引き続き現場を巡っていた香織は、通路に佇む有野と出くわした。しかし、有野は香織を一瞥もしない。旋盤の操作をしている若い男性従業員の後ろで、腕を組んだまま黙って立っている。
 加工の済んだ部品が木製のパレットに並べてあった。その部品の寸法をノギスで測り始めた若い従業員が、有野に気づいたのか、ふと振り向く。
「部長――」
「このパレットは通路にはみ出しているじゃないか。ルール違反だぞ」
 有野が眼鏡のブリッジを押さえながら言う。
「え、パレット?」
 金属素材を載せた別のパレットが、通路と作業場を仕切る白線の上に置かれてあった。
 この騒音である。運ばれてきたことに気づかないのも無理はない。
「今月の目標、言ってみろ」
 有野は腕を組み、若い従業員を見据えた。
「えっと、あの……」
 躊躇している従業員に代わって、香織は答えてあげたかった。
 有野は「いいか、今月の目標はな、通路の安全確保だぞ」と言い放つ。
「は、はい。だけどこれ、おれが置いたんじゃないですよ」
「言い訳をするな。すぐに直しておけよ」
 有野は居丈高に眉をひそめると、その場から立ち去った。
 ――ルール違反は部長のほうだわ。課長と係長をパスして雑用を押しつけているんだから。傍若無人もはなはだしい。
 雇用される側としては、何も言えないのが現状である。従業員たちは労働組合に加盟しているが、執行部に苦情を訴えても軽く受け流されてしまうのだ。春闘や一時金闘争などで会社側とのやり取りに障害が出ると困るらしい。つまるところ、組合の意味がないというわけだ。これでは事業所の雰囲気が悪くなるはずである。
 呆然としていた香織は、その従業員と目が合った。
「あの……あんなのって、ないですよねぇ。たぶん、今日は機嫌が悪いんですよ」
 安易な気休めだった。
「いつだってそうじゃん。あのクソ野郎が!」
 若い従業員は悪態をつくが、その罵声は周囲の機械の咆哮によってかき消されてしまう。
 自分にまで怒りの矛先を向けられてはかなわない――と香織は先を急いだ。


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