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縄張り 第6話

 こんなすぐ目の前の自宅に逃げ帰っても意味なんてないのだろう。けれど、ほかに行く当てはなかった。自分の部屋以外に身を隠せる場所を知らないのだ。
 今すぐにでも山村さんの報復があるかもしれない。わたしたちはベッドで身を寄せ合った。
「たぶん、あたしだって不老なんだよ。彩乃姫みたいになっちゃうんだ。ずっとずっと何百年も生きていくんだ。友達や家族がみんな死んじゃったあとでも、一人で生きていくしかないんだ」
 二枚重ねにした毛布を頭からかぶっていても、美凉の震えは止まらない。
「ありえないよ。だって、赤ちゃんの状態で生まれて、ここまで成長してきたんだし。年を取っているという証拠だよ」
 その場しのぎの慰めだった。美凉の不安が現実のものとなるのか、今のわたしにわかるはずがない。
「あたしにも井戸の神の血が流れているんだ。きっと、澪に嫌われちゃうんだ。だったら、今すぐ死んでしまいたい」
 毛布の中の闇では、表情なんて互いに窺い知ることができない。けれど、美凉の気持ちは痛いほど伝わってくる。
「そんなこと言わないで。何があったって澪を死なせはしない……って、あのときの言葉、とっても嬉しかったんだよ。わたしだって美凉を死なせはしない。美凉は普通の人間だよ。ずっとわたしの友達だよ」
「ずっと……友達?」
「当たり前だよ。訊くなんておかしい」
「こんなあたしと友達でいてくれるの?」
「そうだよ」
「あたしが神の子でも?」
「美凉は神の子なんかじゃ――」わたしは一呼吸置いた。「仮に、仮にだよ。美凉が神の子だったとしてさ、それがなんだっていうの? 美凉が神の子だったら、わたしは友達でいちゃいけないの?」
「だって」
「立場が逆だったら、美凉はわたしを嫌いになる?」
 わたしは美凉の髪をそっと撫でた。美凉が首を横に振るのが、髪を撫でるわたしの手に伝わった。
「澪を嫌いになるなんて、ありえないよ」
「でしょう? わたしだって同じだよ」
「でも」美凉は言った。「あたしは澪をだましたんだよ」
「美凉が山村さんの子供だった、っていうこと?」
「うん」
「そんなの、問題ない」
 本気でそう思った。偽りはない。
「それだけじゃない。あの地下室に隠されているものが何か知りたくて、だからあたしは、澪の誘いに乗ったんだ」
「泊まりに来てほしい、っていう誘い?」
「そうだよ。澪が、ここに引っ越す、とあたしに教えてくれたとき、こんな偶然ってあるんだなあ、って驚いたんだ。そして、いつかは澪の家に遊びに行って、チャンスがあればこっそりとあの家に忍び込んでやろう……そう考えたんだ。ここに泊まることは、母さんにも言っていなかった。ほかの友達の家に泊まる、って言っておいたんだよ。あの家の向かいに泊まるなんて知ったら、母さん、絶対に許してくれなかっただろうし。あたしは、母さんにも澪にもうそをついたんだ。そのうえ、あたしは澪を利用したんだ。だから、あたしは……あたしは……友達失格……」
 美凉の言葉は涙声になっていた。
「友達失格だなんて、そんなことはないよ」
 力を込めて訴えた。
「こんなあたしなのに、友達でいていいのかな……」
 どうにか聞き取れる程度の声音だった。
「もういいんだよ。美凉はわたしと一緒にいればいいの。ミーちゃんコンビは、ずっと続くんだからね」
 わたしは美凉を抱き締めた。
 そして、一緒に震えた。

「澪、起きて」
 体を強く揺さぶられた。
 耳元で聞こえた焦燥の声は、紛れもなく美凉のものだ。
 わたしはベッドでうつぶせになっていた。
 すぐに体を起こし、ベッドの上で正座した。
 外は明るい。というより、カーテンが開いている。
 目覚まし時計を見ると、起床時間の一時間前だ。
 美凉がベッドの横に立っており、険のある表情でわたしを見下ろしていた。
「美凉?」
 何か悪夢を見ていたような気がするけれど、とりえず、わたしは美凉を見上げた。
 美凉は「早く起きて」とわたしをせき立て、窓辺に歩み寄った。
 そうなのだ。わたしは思い出した。夢ではなかったのだ。山村さんの家の地下室で目にした光景――あれは、現実だったのだ。
 ふと、外が騒がしいことに気づき、わたしは眉をひそめた。いくつかの叫び声が聞こえる。
 不安が募った。
「山村さんが何かしたの?」
 わたしはベッドから起き上がり、美凉に並んだ。
「大変だよ」
 窓の外を見つめる美凉が言った。
 わたしはようやく現状を目にした。
 山村さんの家が燃えていた。すべての窓ガラスが割れており、あちこちから紅蓮の炎が噴き出している。そして、黒々とした図太い煙が、天高く伸び上がっていた。
 近所の人たちが、少し離れた路上に集まっていた。吉田さんの奥さんもいる。
「消防署に通報しないと」
 わたしは枕元から自分のスマホを取った。
「彩乃姫とユキが……死んじゃう」
 窓の外を見つめる美凉がそう漏らした。
 吉田さんの奥さんがあたしたちに気づき、大きく両手を振った。
「危ないから、早く出ておいで!」
 吉田さんの奥さんの声を聞いたわたしは、スマホの操作を中断し、空いている左手で美凉の右手を取った。
「とにかくここから出よう。延焼するかもしれない」
 とせかしたけれど、美凉は炎から目を離さない。
「あたしが悪いんだ。あたしがあの地下室に行かなければ、こんなことには……」
「そんなことを言っている場合じゃないよ!」
 わたしは美凉の手を引いた。
 脱力しきった体が、わたしのあとに続いた。
 遠くからサイレンの音が聞こえてきた。

 山村さんの家は全焼した。
 幸いにも延焼はなく、わたしの家はたいした被害を受けなかった。もっとも、消防隊の放水によって、庭も玄関も二階のベランダも、大雨に遭ったようなありさまだ。
 美凉は近所の人たちに気づかれることなく、西側の林から出ていった。十年前の顔見知りがいるかもしれない、と憂慮したらしい。少なくとも吉田さんの奥さんとは面識があったそうである。キャップとマスクで顔を隠していたのは、吉田さんの奥さんのような「見知った人たち」の目を逃れるためだったのだ。
 吉田さんの奥さんは、「澪ちゃんの部屋にもう一人の女の子がいたような気がしたんだけど」と首を捻った。そんな吉田さんの奥さんに対し、事実を隠蔽しなければならないと焦ったわたしは「一人で留守番をしていました」と言い張った。「気が動転していたのかもしれないね」と納得してはもらえたけれど――。
 ショッキングな出来事の連続に傷心したわたしは、この日、学校を休んでしまった。わたしからの連絡を受けて早めに帰宅した両親には、無論、美凉がうちに泊まったことも山村さんの家に忍び込んだことも伝えなかった。
 山村さんの家の焼け跡からは、山村さんと見られる男性の焼死体と、もう一体、女性の焼死体が発見された。どちらの焼死体も、見つかった場所は地下室である。地下室が存在しただけでも近隣住民の興味を煽ったのだけれど、独り暮らしの山村さん宅に女性の焼死体があったことが、団地内を震撼させた。また、火元にポリバケツがあったことが報道されたらしく、灯油をかぶっての無理心中らしいという噂がまたたく間に広まった。
 もっとも、発見された焼死体は人間の男女、その二体だけだ。吉田さんの奥さんが、知り合いらしい消防隊員に尋ねたけれど、猫の死骸は見当たらなかったという。ユキはどこへ行ってしまったのか、皆目見当がつかなかった。そしてもう一つ、わたしが懸念したのは、彩乃姫のお腹にいたはずの胎児について何も話がなかったことである。彩乃姫が焼死したならば、お腹の子も無事ではないはずだ。
 警察には根掘り葉掘り執拗に問われたけれど、両親に話した内容とつじつまが合うように、美凉が一緒にいたことも山村さんの家に忍び込んだことも、なんとか隠し通した。山村さんの家のすべてが灰燼と化した今では、わたしたちが忍び込んだ痕跡も消えてしまったのだろうけれど。
 気持ちを静める暇もないほど、慌ただしい一日だった。それでも、明日はなんとか学校へ行こう。美凉に会えば、少しは気持ちも落ち着くはずだ。
 もっとも、美凉が登校すればの話である。火事のどさくさに紛れて別れてから、メッセージのやり取りさえしていないのだ。美凉の様子が気になって仕方がない。

 夕食とお風呂を済ませたわたしは、午後九時過ぎに自室に入った。冷房をかけてベッドで仰向けになり、天井を見つめる。
 出かける予定はない。タンクトップにショーツのみという、いつもの涼しい格好だ。
 美凉に連絡をしようかどうか迷っていると、突然、スマホの呼び出しが鳴った。
 すぐに枕元のスマホを取って確認すると、案の定、美凉だった。
 半身を起こし、わたしはスマホを耳に当てた。
「澪、大丈夫だった?」
 美凉が切り出した。
「うん、大丈夫。山村さんの家に行ったことも美凉が泊まりに来たことも、うちの両親や警察にばれていない」
 早く美凉を安心させたかったから、最も気にしているだろうことを先に伝えた。
「そう」
 気のない返事だった。
「吉田さんの奥さんとか近所の人たちにも、美凉がいたことはなんとかごまかせたし、もう何も心配しなくていいんだよ」
「でも、うちの母さんが気づいたかもしれない」
「本当?」
「おっさんの家の火事、ニュースで報道されていたから」
 憂いの声がわたしを納得させた。
「うん、夕方のニュースでやっていた。美凉の外泊をあの火事と関連づけられる可能性はあるかもしれない」
「もし母さんに問い詰められても、あたしは本当のことなんて言わない……でも、納得してくれるかどうか」
 憂慮すべき事態である。もしかしたら、わたしの両親はもとより、警察にまで事実が伝わってしまうかもしれないのだ。
「あたしが泊まったことになっているのはマミの家なんだ」
「マミ?」
 不良グループの中にそんな名前の女の子がいた、と思い出した。隣のクラスの生徒だけれど、どんな子だったのか、顔を思い出せない。
「うん。そのマミと口裏は合わせてあるんだ。あいつ、口が堅いから大丈夫だとは思うんだけどさ」
 自信なげな言葉に、わたしも動揺してしまう。
「そうか。ばれちゃったときは、正直に言うしかないよね」
 下手な悪あがきはしないほうがよいのかもしれない。美凉と一緒なら、どんな罰でもうけよう。少なくとも、わたしたちが山村さんの縄張りを荒らしたのは事実なのだから。
「罪があるとすれば、あたしだけだよ。澪に罪はない」
 強い口調で美凉は告げた。
「何を言っているの。わたしも一緒に山村さんの家に入ったんだよ」
 山村さんの凶行から美凉を助けようとしたあのときの気持ちが、再び湧き上がった。
「事実を伝えたら、澪は悪くない、って誰もが理解するはずだよ」
 美凉はどうあってもあたしをかばいたいらしい。
「そんなの、だめ――」
「だめじゃないよ」美凉はわたしの言葉を遮った。「あたしがあの家に行かなければ、彩乃姫だって死なずに済んだんだし」
「でも……」
 話の腰を折られたわたしは、即座には返せなかった。
「ニュースで、男女の焼死体が発見された、って言っていたじゃん」
 美凉の声はさらに重くなっていた。
「うん、わたしも見たよ」
 哀れな彩乃姫を思えばこそ、そう返すのが精一杯だった。
「彩乃姫……かわいそうじゃん」
 嗚咽混じりに美凉は言った。
「美凉のせいじゃないよ」
「彩乃姫はあたしを……あたしを産んでくれた母親でもあるんだよ。それに……あたしたちを……助けようとしてくれた……」
 美凉の嗚咽が激しくなった。
「美凉、しっかりして」
「うん」
 その答えの直後に、美凉の深呼吸が伝わってきた。
 わたしは美凉が落ち着くのを待った。今のわたしにできることは、それだけだ。
 数十秒――いや、二分以上、二人の間に沈黙が流れた。
 息づかいが静まり、ようやく美凉の言葉が紡ぎ出される。
「えーと……電話、まだ繋がっているよね?」
 美凉の声を聞いて、わたしは安堵した。
「ちゃんと聞こえているよ」
「あのね、明日は登校するの?」
「もう休むわけにはいかないよ」
 勉強の遅れも気になるが、美凉の顔を見たいという理由が大きい。
「無理して登校しなくてもいいと思うけどさ」
 美凉の声は、落ち着きを取り戻しつつあった。
「ううん。明日は登校するよ」
 わたしは答えた。
「無理すんなよ」
「大丈夫。美凉はどうするの?」
「登校する……っていうか、今日だって学校へ行ったよ」
「ええっ?」
 あんな状況で登校できるなんて、わたしにとっては驚愕以外の何ものでもない。
「澪の家の勝手口から西の林に入ったじゃん」
「うん」
「あの林の中で制服に着替えて、近くのバス停に行ったんだ」
 平然と言っているけれど、無理をしたのは美凉のほうに違いない。
「知らなかったよ」
 美凉の強さに脱帽しつつ、自分自身の弱さに辟易した。
「とにかく、明日、学校で会おう」
 美凉の声がわずかに明るくなった。
「うん。美凉に会えれば、元気になれそう」
「あたしも同じだよ」
 そう言ってもらえるだけで嬉しい。
「それにしても」不意に、美凉の声が神妙な色を帯びた。「今、自分の部屋……ていうか、亜紀との共同の部屋に一人でいるんだけど、さっきから外でさ、猫が鳴いているんだよ」
「猫?」
「うん。もしかして、ユキだったりして」
 冗談というよりは怯えている様子だった。
「そういえば、火事の現場にユキの死骸はなかったみたいだね」
 言葉にしてから後悔した。わたしが美凉を追い詰めてはいけないではないか。
「やっぱりそうか」
「でも、猫なんてどこにでもいるじゃない」
 今さら取り繕っても遅いのだろうけれど――。
「あたしを呼んでいるような……切ない声で鳴いているんだよ、猫がさ」
 美凉の言葉を聞き、わたしは息を呑んだ。
「澪には聞こえない?」美凉は続けた。「やっぱりスマホを通してじゃ無理か」
「美凉、今日はもう寝たほうがいいよ。外のことなんて気にしないで……ね」
「そうだけどさ、猫の声がだんだんと大きくなってくるんだ。父さんも母さんも亜紀もリビングでテレビを見ているんだけど、三人ともあの鳴き声が気にならないのかなあ」
「美凉、寝られないんだったら、家族のみんなと一緒にいたほうがいいよ。そのほうが落ち着けると思う」
「ねえ、澪」こちらの焦慮を無視して美凉は言った。「ユキって、ミルクなんだよ」
「え……何?」
「だってミルクも強かったもん。ああ、やっぱりそうだったんだ」
「美凉、聞こえている?」
「なんだか眠くね?」
 美凉はたわけているのではない。絶対におかしい。
「美凉ってば」
「お休み」
 通話は一方的に切れた。
 すぐにかけ直したけれど、呼び出しは鳴らずに女性アナウンスが流れた。あちらの電源はすでに切れているらしい。
 スマホを左手に握り締めたまま、わたしは呆然とした。

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