見出し画像

縄張り 第2話

 学校での昼休みが自分の家にいるより落ち着けるなんて、ある意味、とてもむなしいことだ。言うまでもなく、決して学校が好きなわけではないのだけれど。
「澪、なんだか最近暗いんじゃねーの?」
 向かい合わせにした机で弁当箱を開いたわたしは、野本のもと美凉みすずに正面から顔を覗かれた。
 美凉は同性のわたしでさえほれぼれするほどのきれいな女の子だ。若干きつい切れ長の目が、白い肌と相俟って、大人びた雰囲気を醸し出している。背中まで伸ばした黒髪の美しさだって、学校中を探しても、かなう女の子は見つからないほどだ。
「例のおじさんだよ」
 答えたわたしは箸箱から箸を取り出した。その箸がいつもより重く感じる。
「やっぱりそうだったんだ。なんだか最近、ため息ばっかりついているし。そのおっさんのこと、詳しくは聞いていなかったけど、かなり陰険なやつみたいだね。念願の一戸建てに引っ越したのに、なんにもならないじゃん」
 声を曇らせる美凉が、自分の弁当箱を開いた。
「うん。それさえなければ、とてもいいところだよ」
「それに、虫だの蛇だのいろいろとくわえて持ってくる猫だっているし」
 美凉はいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「ちょっとやめてよ。食事中じゃない」
 慌てて周囲を見渡すものの、クラスメイトたちはそれぞれの話題に夢中で、わたしたちの話に突っ込んでくる様子などなかった。
「ごめんごめん」
 美凉は笑い、自分の弁当をつつき始めた。
「いいよ。誰も気づいていないみたいだし」
 愛想笑いを作ったわたしは、苦手なプチトマトをよけて、大好物のウィンナーソーセージを口に運んだ。
「そのおっさん、みんなが我慢しているから図に乗っているんだよ」
 美凉はそう言うと、わたしがよけたプチトマトを箸でつまんだ。いつもの光景だ。
「美凉の言うとおりかもしれない。でもね、もっと深刻な問題があるの」
「深刻な問題?」
 身を乗り出す美凉に、わたしは自分の弁当箱を見つめながら答える。
「引っ越してきて一週間が経ったばかりなのに、お父さんとお母さんが外泊するんだ。親戚のおじさん……お母さんのいとこが急に亡くなったんだって。その葬儀に夫婦揃って出席するの。片道だけでも車で四時間はかかる距離なんだ。通夜がある日の午前中に出発して、次の日の告別式を済ませて帰ってくる、っていう予定」
「ふうん、そうなんだ」美凉は箸を止めてわたしを見た。「それっていつなの?」
「通夜があるのは、火曜日。明日だね」
「急な話だな。で、明日は一人で不安な晩を過ごさなくちゃいけないんだ?」
「そうなんだよ」
「だったら、学校を休んで一緒に行っちゃえばいいじゃん。親戚の葬式なんだし。先生だって理解してくれるよ」
「わたしだってお父さんとお母さんにそう言ったの」
「だめだってか?」
「うん。勉強のほうが大事だろう、って。それにわたしは、その親戚のおじさんとは一度も会ったことがないし」
「ならやっぱり、一人で留守番じゃん」
「だから」わたしは美凉を見つめた。「ねえ美凉、これも急な話なんだけれど、明日、わたしの家に泊まりに来てくれない?」
「え、あたしが?」
 美凉は目を丸くした。
「一晩だけ、一緒にいてほしいの」
 断られるのを覚悟の上だった。週末ならまだしも、当日と翌日には学校があるのだ。
「うーん」と暫時考えたのち、美凉はこくりと頷いた。「いいよ。明日の夜は澪の留守番に付き合ってあげる」
「本当に?」
 わたしは浮き立ち、箸を両手で握り締めた。
「まだ澪の新居に行っていなかったし、いい機会じゃん」
 笑顔の美凉は、再びお弁当をつつき出した。
「ありがとう。美凉に断られたら、わたし、死んじゃったかも」
「ばーか。何があったって澪を死なせはしないよ」
 と呆れたように言う美凉が、不意に箸を止めた。
「澪、あのさ」
「何?」
「あたしが泊まりに行く話だけど、澪の父さんと母さんには内緒にしておきな」
 深刻な面差しだった。
「どうして?」
 わたしが固まっていると、美凉はいきなり噴飯した。
「あははっ。下手に話すと、女友達と偽って男を連れ込むのでは……なんて勘繰られる場合があるんだ。経験豊富な女の子なんだぜ、あたしは」
 冗談とも本気とも取れる話だ。もっとも、わたしの両親はそこまで邪推するような性格ではないのだけれど。
 とにかく、美凉が留守番に付き合ってくれるのを快諾してくれて、わたしは心底嬉しかった。それに、その翌日は二人揃って登校できるのだ。なんだかわくわくする。
 我ながら呆れ果ててしまうほどの現金さだった。

 珍しく早起きをした。ゆうべはベランダを確認しなかったし、今朝だって山村さんの嫌がらせがある前に家を出た。それなのに、授業の間だけは時間の進むのが遅かった。
 下校時間になると、わたしは美凉に目配せして先に教室を出た。
   *   *   *
 風呂に入ってから行く。
   *   *   *
 帰宅直後に美凉からのメッセージが届いたので、わたしもお風呂を済ませておいた。
 夕方になっても蒸し暑い。Tシャツにジャージのハーフパンツでも、エアコンなしではいられなかった。
 午後五時半を過ぎた頃だった。冷房の効いた一階のリビングでテレビのニュースを見ていると、呼び鈴が鳴った。待ちかねていたわたしは、玄関へと走る。
「美凉、何よそれ」
 わたしはドアを開けるなり呆然とした。
 Tシャツ、ストレートジーンズ、スクールバッグ、小さなリュックなどに、別段変わったところはない。けれど、派手なワッペンがたくさんついているキャップを深々とかぶり、そのうえマスクをかけているのでは、あまりにも怪しいではないか。
「向かいのおっさんを調査する名探偵、なんてね」
「変装のつもり? かえって目立つよ」
「やっぱり? あはははは」
 美凉は笑いながら玄関に入り、キャップとマスクを外した。艶やかな黒髪が柔らかく揺れた。わたしは目を奪われてしまう。
 どんな装いでも様になる美凉は、いつだって光っていた。男女問わず学校中の生徒から羨望の眼差しを受けるアイドルだけれど、わたしだってそんな美凉に憧れていた。そして、友達でいられるのが誇りだった。
 わたしたちは互いに別の中学の出身だ。高校に入ってすぐに知り合い、一年、二年と、ずっと同じクラスだ。
 噂によると、中学生の頃の美凉はだいぶ荒れていたらしい。今だって不良グループとの付き合いがあるくらいだ。一方のわたしは内気でおとなしめ。中学ではいじめられていた時期さえあった。そんなわたしが平穏無事に高校生活を送ってこられたのも、美凉のおかげだ。
 傍から見れば相反する二人なのだろう。けれど、わたしたちは何かと気が合った。人の弱みを突くのが嫌い、という共通点が互いを結びつけているのかもしれない。
 美凉もわたしも「み」で始まる名前だ。そのため、クラスメイトの一部に「ミーちゃんコンビ」と揶揄されることがある。でもわたしたちは、むしろそれを喜んだ。ミーちゃんコンビの問題点を挙げるとすれば、ルックスの違いだろう。自他ともに認める童顔のわたしだ。この劣等感を克服したい、と常に考えているほどである。
「わたしも髪を伸ばしちゃおうかな」
 美凉を二階へと案内する途中で、不覚にも言葉にしてしまった。
「いいじゃん。ロングの澪も好きだな」
 美凉はけろりとした調子だけれど、わたしの胸は高鳴った。たとえ同性からでも「好きだ」なんて言われたのは初めてなのだ。
「殺風景な部屋でしょう。テレビは一階のリビングにしか置いていないんだ。パソコンはお父さんが独り占めしているし」
 わたしは自分の部屋に入ると自嘲ぎみに弁解し、エアコンの電源を入れた。
 ふと、夕日に染まる向かいの家が目につく。わたしはとっさに部屋中のカーテンを閉めた。あうんの呼吸で美凉が照明のスイッチを入れてくれる。
「何言ってんの。あたしんちって市営のアパートで、おまけに妹と一緒の部屋じゃん。こんなの憧れちゃうな」
 荷物を部屋の隅に置いた美凉は、うらやましそうに言った。
 わたしは一度だけ美凉の家族に会ったことがある。去年のクリスマスイブの夜だ。美凉は両親と妹である中学生の亜紀あきちゃんとの四人で、楽しそうに買い物をしていた。
 あのときのわたしは、ただひたすら恥ずかしかった。わたしも両親と一緒だったけれど、クリスマスケーキをどの店で買うかで三人の意見が分かれてしまい、剣呑な雰囲気だったのだ。
「わたしのほうこそ、亜紀ちゃんみたいなかわいい妹のいる美凉がうらやましいよ」
「お互い、ないものねだりなんだ」
 美凉はおどけた表情で肩をすくめた。
「だよね」とわたしは笑い、小さなカーペットの真ん中にリビングテーブルを用意した。
「じゃあ、これ」
 美凉がリュックから取り出したのは、中身がぱんぱんに詰まったコンビニ袋だ。
 サンドイッチ、おにぎり、マカロニサラダ、スナック菓子、オレンジジュースのペットボトルなどが、テーブルの上に並べられた。これが今晩の食事である。代金は二人の割り勘だ。
「すぐに食べる?」
 わたしが尋ねると、美凉は頷いた。
「だって、お腹ぺこぺこだよ」
 そう言われて、自分も空腹である、と気づいた。
「いいかもね」わたしも頷く。「じゃあ、食べようか」
 わたしたちはテーブルを挟んで向かい合わせに座った。
「どうせ澪は飲まないし、アルコールは買わなかったよ。本当はこんなめでたい日にこそがんがん飲みたいんだけどね」
 美凉が二人分の紙コップにオレンジジュースをそそいだ。
「美凉は飲みすぎ。たまにはアルコールを抜きなよ。今回は我慢我慢」
 週に四日は焼酎を飲む、という美凉の悪習をわたしは知っていた。「両親が公認しているんだ」と美凉は言い張るけれど、わたしは信じていない。喫煙しないというのがせめてもの救いだ。
「まあ、よしとするか。今日は休肝日だ。それでは遅ればせながら、お引っ越し、お疲れさんでした」
「ありがと」
 わたしたちは紙コップで乾杯した。
「ところで、迷わずに来られた?」
 オレンジジュースを一口飲み、わたしは美凉に尋ねた。
「バスを降りたらすぐに団地の案内板があったし、澪んちは一番奥じゃん。全然迷わなかったよ。けどさ、そこそこ歩かされた。スクールバッグには、明日着ていく制服が入っているじゃん。鉄アレイを入れているみたいで、これがまた重いんだ。歩きづらくて、道中が長かったね」
 美凉は澄まし顔でサンドイッチの包装を開けた。
「ごめん。バス停まで迎えに行って、荷物運びを手伝えばよかったね。それに、家の中だってなんにも持ってあげなかったし。美凉が来てくれるんで、一日中うきうきしちゃってさ。わたしって気が利かないんだな」
 自分のふがいなさに落胆し、わたしは肩を落とした。
「マジになるなよ。制服がそんなに重いわけないじゃん。そんなことよりさ、案内板にでかでかと書いてあるけど、養老ヶ丘ニュータウンって、なんか変だよね。思わず笑っちゃった」
「高齢者ばかりの団地、みたいだね」
「うんうん。不老不死の水の伝説は知っているけどさ、このネーミングはちょっとなあ。なんだか笑える」
 美凉はそう言うと、サンドイッチを片手に持った。
「黒岩城があったんだもの、黒岩ニュータウン、としたほうがよかったのかもね。あるいは、彩乃姫ニュータウン、とかさ」
 わたしの適当な思いつきに、美凉は破顔した。
「ふっ、それいいね。……そういえば、その彩乃姫って、黒岩城が落ちたときに、敵に斬り殺されたんだよね?」
「違うよ」わたしは首を横に振った。「自分の喉を短刀で突いたんだよ。引っ越しの挨拶のときに、隣の奥さんが話してくれたもの。……あれ? なんか、小学生のときに聞いた話とは違うな」
「敵に追い詰められた殿様、千代川なんとかが、自分の娘である彩乃姫を斬って、自分も切腹した、とか」
「それも違うなあ。当時の城主の千代川輝泰てるやすは敵に討ち取られたけれど、彩乃姫はとらえられて……うーん、違うか」
「なんだ、結局わからないのか」
 美凉は呆れ顔でサンドイッチにかぶりついた。
「何とおりもの説話があったんだね」
 わたしは何度も小さく頷き、おにぎりの包装を開けた。
「勤勉家の澪にもわからないんじゃ、仕方ないか」
「黒岩城の歴史なんてローカルすぎて、日本史の教科書にだって載っていないよ。それにわたし、美凉が思っているほどの勤勉家じゃないし。ほら、テストの結果だって、いつも美凉のほうがいいじゃない。わたしね、ちゃんとチェックしているんだよ」
 そして、横目で美凉を睨む。
「テストの結果? あんなの、まぐれまぐれ。いつもね、あみだくじで解答を決めているんだ」
 見え透いた虚言だ。信じるほうがどうかしている。
 わたしは口を尖らせた。
「そんなわけないよ」
「それがあるんだな。回答欄の脇にあみだくじの線を引いてさ」
「じゃあ、今度見せてよ」
「えっと、無理だな、それは。答えを記入したら、あみだくじはすぐに消しちゃうんだ。でなきゃ、職員室に呼び出されちゃうじゃん」
 降参したのだろう。美凉はとぼけた表情で舌を出した。
 美凉の授業態度は至って不真面目だ。お菓子を食べていたり居眠りをしていたりと、まるでプライベートタイムである。それなのに、試験の結果はどの教科を比べてみても、いつだってわたしより上だ。むしろ、学年で常にベスト5に入っているくらいである。
 当然、自宅では毎日勉強しているのだろう。けれど、授業中の美凉の様子をつぶさに見ていたら、そのだらしのない態度に先天的な才能の一端が窺えたのだ。
 美凉は授業中にお菓子をつまんでいても、教壇や教科書から目を離さなかった。それに、居眠りをしているときは、自習時間か、担当教師の永遠に続くとも思える雑談中なのだ。
 無駄話だけはしていないというところが、その学習方法の神髄らしい。好き勝手にしていても、常に態勢を整えているため、必要な箇所ですぐに集中できるのだ。
 そんな美凉に対し、わたしのほうこそ勤勉家になる必要があった。がむしゃらに勉強して志望大学の合格を目指すしかない。その結果があってやっと美凉に一歩近づける。それはわたしの大いなる夢であり、美凉に憧れればこその志でもあるのだ。
 それなのに、今の美凉は大学受験を諦めている。家庭の事情があるようだ。「がんばって同じ大学を目指そうね」なんて二人で浮かれていた頃が懐かしい。
「で、その井戸ってさ、今はないんだよね?」
 美凉の声で我に返ったわたしは、あいまいな記憶を手繰り寄せた。
「この団地を造成するときに、黒岩城のあったところは全部削っちゃったみたい。当然、井戸だって跡形もないはずだよ。確か、この丘の一番上の辺りだね。話を聞いただけで、行ったことなんてないんだけれど」
「名ばかりの城跡かあ。痕跡は何もない、っていうわけだ。でもさ、不老不死の水がどんなんだか、気にならない?」
「民話というか、ただの昔話だよ。だって、誰も生き残っていないじゃん」
 わたしは答え、マカロニサラダを割り箸でつまんだ。
「なるほど」
 澄まし顔で美凉は首肯した。

 わたしたちは学校の男子の話題で盛り上がっていた。美凉は夏休み前に、他校に通う彼氏と別れている。互いにフリーのミーちゃんコンビは、同学年にタイプがいないということで、とりあえず意見が一致した。
 憧れの異性が身近にいないという現実は、やるせないものである。美凉は経験豊富な女の子なのだろうけれど、わたしは一度だって男の人と付き合ったことがないのだ。確かに、告白したとしても成功するとは限らない。でも、告白する相手さえいないのだから、わたしは当分の間、フリーのままなのだろう。
「澪――」
 一時間ほど経った頃、美凉が紙コップをテーブルの上に置いた。
「どうしたの?」
「向かいのおっさんが帰ってきたみたいだよ」美凉は立ち上がった。「車の音がした」
 二人揃って耳を澄ましたけれど、すでに車の音は聞こえない。
「澪、明かりを消して」
 言われるままにわたしが照明のスイッチを切ると、美凉はカーテンを少しだけめくった。
「あれが例のおっさんか」
 そうつぶやく美凉とともに、わたしもカーテンの隙間に顔を寄せて夜陰を覗いた。
 向かいの庭の隅にバックで停められた車から、スーツ姿の山村さんが降りたところだった。車用のアコーディオンタイプの門扉を閉めた山村さんが、辺りをゆっくりと見渡す。
 そのとき、わたしは山村さんと目が合ったような気がした。
「部屋の明かりは消してあるし、気づかれていないよね?」
「大丈夫だよ。あたしがついているじゃん」
 美凉はわたしの肩を優しくさすってくれた。
「うん」
 小さく頷く自分が情けなかった。
「澪、もうちょっと見てみよう」
 山村さんは玄関に入ったけれど、美凉は動こうとしない。
 この機会に、わたしもじっくりと観察してみる。
 二分ほど経った頃、山村さんの家の一階に明かりが灯された。庭に面したテラス窓の内側に、スーツ姿のままの山村さんが立っている。
 山村さんがテラス窓を開けると、小さな白い影が庭に躍り出た。
「出てきたぞ。名前はユキだっけ?」
「そうだよ」と即答したけれど、ユキが表に出る瞬間なんて、わたしは初めて見る。振り向きもせずに庭の奥へと消えていくユキが、異界の生物のように思えた。
 ユキを見送った山村さんが、テラス窓を閉じ、奥へと姿を消した。
「なるほどね。ユキが毎日ほぼ決まった時間に歩き回るのは、おっさんがその時間までには帰宅している、っていうわけなんだな。あのおっさん、仕事よりユキの外出を優先しているんじゃねーの?」
「美凉の話だと、まるで山村さんがユキに使われているみたいだね」
 わたしは笑いをこらえた。
「澪の意見、なかなかいいよ。主人とペット、どっちが飼われているのかわからない。そういうのって、ありそうじゃん」
 淡々とした調子で述べると、美凉はカーテンを閉めた。
 わたしはすぐに部屋の照明のスイッチを入れる。
「隣の奥さんが言っていたの。山村さんは飼い猫が行方不明になったり死んだりすると、すぐに次の猫を飼うんだって。ユキの前にも、ユリ、ミルク、シロ、なんていう名前の、白い雌猫ばかりが続いたそうだよ。それに、山村さんってさ、もっと不可解な行動を取るんだって。新しい猫を飼うたびに、なぜだか必ず周りの人たちに報告するらしいんだ。そのときだけは愛想がいいみたい。それでも、十年以上も前から猫問題は続いているの」
「この界隈は、そんな昔から山村家の飼い猫の縄張りなのか」
 感慨深げに言う美凉が、テーブルを前にして、ぺたんと座り込んだ。
「猫って、縄張りがあるの?」
 尋ねながら、わたしはベッドの端に腰を下ろした。
「当たり前じゃん。生活圏が家の中だけならともかく、外に出る猫はそれなりのテリトリーを持っているはずだよ。自分の縄張りの巡回は不可欠だろう」
「ふーん。ただの散歩じゃないのか。変なところばかり歩くわけだ」
「たとえばさ、澪んちだって、塀に囲まれた敷地があるじゃん。けどね、猫の縄張りは、人間の土地の仕切りとは違う。縄張りの巡回に使う通り道だって、人間の作った道路に沿っているわけじゃない。だから、塀の上を歩いたり庭に入ってきたり……あとはまあ、ベランダなんかを通ったりするんだ」
「理解はできるよ。けれど……」
 言葉に詰まったわたしは、改めて感じた。この世界は人間本位で成り立っているのだ、と。
「てゆーかさ」美凉は言った。「そんなに悩まなくていいんだよ。だって、あたしたちは人間なんだ。ほかの動物同士にしたって同じ。相容れない関係ってあるじゃん。あたしたちはあたしたちの縄張りを守ればいいし」
「でも、この団地みたいに山を削ったりとか、人間は好き勝手にやりすぎちゃったよね」
「やりすぎちゃったよな」
 美凉は相槌を打った。
「なら」わたしは天井を見上げた。「人間同士の縄張り争いはむごたらしいよ。喧嘩して、戦争して、みんな壊して殺しちゃう」
「戦争か」しんみりとした様子で、美凉がうつむいた。「そうだね。どんなに大義名分を掲げた戦争だとしても、あたしは絶対に肯定しない。澪の言うとおり、戦争なんて破壊と殺戮の集大成だよ。血染めの縄張りは、そうやって広がっていくんだ。そして、敗者はじりじりと追い詰められていく」
「敗者は追い詰められていくけれど、人と争わないで済むのなら、わたしは自分の縄張りなんて小さくてかまわないよ」
 いじめられていた時期の名残で、わたしは目立たないように小さくなっていることが多い。自分の領分を小さくしておけば、人との争いは避けられる。
「その小さな縄張りにさえ入り込んでくる」美凉は顔を上げてわたしを見た。「どこにだっている嫌なやつだよ。人の心の安らぎ、という最後の縄張りまで侵略してくるどうしようもないやつ」
「山村さんの話?」
「澪が自分の部屋にいても落ち着けないのは、そういうことなんだよ。この丘はもともと山村家が所有していた土地なんだ、って澪は言っていたけど、たぶん、あのおっさんは未だにこの団地のすべてを自分の縄張りだと思っているんだ。たった一人で孤独な戦争を続けているみたいで、無様というか、哀れだよね」
 美凉のその見解に、わたしは黙って頷いた。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?