8月16日 ヘドロ

 12時が近くなる。タスクバーにある、時刻をクリックする。Windows10の秒刻みのデジタル時計が画面に表示される。12:00:00。すぐに席を立ち、オフィスを出る。池袋東口のピンクサロンに向かって走る。

 ピンクサロンまで走る5~6分のあいだ、なんの歌を聞こうか走りながら考える。なんとなく、合唱曲が聞きたくなる。昼休みにピンクサロンに走りたくなる時は、センチメンタルな気持ちになっている。Amazon Musicで「合唱曲」と検索する。歌手一覧の一番上に『杉並児童合唱団』が表示される。『杉並児童合唱団』をタップすると、曲の一覧が表示される。その中から『ふるさと』をタップする。「う~さぎお~いし か~の~や~ま~」が流れてくるものだと思っていたが、違った。「ゆうぐ~れ~せ~まる そ~ら~に」、嵐の『ふるさと』が流れてきた。泣きたくなった。自分の中では、絶対に「う~さぎお~いし か~の~や~ま~」が流れてくるものだと思っていた。題名が同じという理由はもちろんだけど、まさかここ最近リリースされたJ−POPが合唱曲として歌われるなんていう、想像力が働いていなかった。なんとなく合唱曲は、その時々の時流とは無関係に、何か重厚な理由があって曲が選定されている神聖な空間だと思っていた。大人になってから冷静に考えればそんなはずはないのであり、様々な選択の下で合唱曲の選曲は更新され続けているのではあるけれど、合唱曲は子供のころに接する機会の多いものだったから、そういった大人の選択が数あるうちの一選択でしかないという認識を持つことができず、もっと動かし難い大きな何かによって決まっているものだと思っていた。でも今検索してみると、嵐の『ふるさと』が合唱曲として歌われている。数あるうちの一選択のことを、そのまま数あるうちの一選択としてそのまま認識できてしまう。記憶の中にあった、子どもの立場というものがまた一つ解体されたような気持ちになって、泣きたくなった。

 ちょうど次の歌である『ビリーブ』が流れ始めた頃、ピンクサロンに到着した。「フリーすぐ行けますか?」「今すぐご案内できます」ボーイの男性に料金を支払う。「お口に3回吹きかけてください」メロンの味のような、マウスウォッシュを渡される。シュッシュッシュッ、言われた通り3度、口に吹きかける。「お手洗いは大丈夫ですか?」「大丈夫です」「それではご案内です」

 案内された席の目の前の席ではプレイが始まっていた。30代くらいの男の上に対面座位の体勢で女の子が跨り、甘ったるい猫撫で声を出している。席同士を区切る壁が低いから、男の後頭部と、それから、一段高いところにある女性の顔の正面が見える。なんだか気まずい思いをしていると、左の入り口から、女性がやってきた。制服衣装で、パサパサした多量な黒髪が汗でワカメみたいに頬に張り付いている、20代中盤の女性が来た。その女性が真横に腰をかけると、彼女のお腹のあたりから熱気が立ち上がってきた。

「あっつ~い」

前を向きながらそう呟き、彼女が口紅をし始めた。

「暑いね。いま出勤したところなの?」

「いや、結構前からいたんだけど。化粧してたらなんか汗かいてきちゃって」

「そうなんだ」

「うん、上、乗るよ?」

その女性が、対面座位の体勢で上に乗った。

「あっ、ごめん、汗かいてる」

「いいよ、汗好きだから」

口元が1ミリしか動かない、苦笑いをされた。彼女は注意散漫な性格のようで、上に乗ってから目を合わせることなくずっと辺りを見渡している。ブースの外をボーイが歩くとそちらに注意が引きつけられるし、他の客が店に入ったり出たりすると、そちらのことが気にかかって仕方がないらしかった。ふいに、彼女が正面を向く。

「先に言っとくけど、私、ディープキスできないから」

彼女の顔が近づいてくる。暗い店内でも、肌がひび割れた石灰岩のようであることに気づく。上唇と下唇の間が暗く開いていて、彼女が口呼吸をする人間ということもわかった。唇が重なる手前、彼女の息が口に当たって、鼻の方に上昇していく。ヘドロ。ヘドロの臭いがする。一時的な口の渇きとか、内臓の不調に由来するようなにおいではなく、もっと直接的に、端的に有機物が腐敗しているかのような、くさいにおい。

「下、脱いでよ」

そういうと彼女は身体の上から降りて、おしぼりに消毒を振りかけ始める。こちらはズボンとパンツを脱ぐ。すぐに消毒のついたおしぼりで、ペニスを拭かれる。それから彼女がこちらの両脚の間に入って、フェラチオをし始めた。一心不乱に、頭をストロークさせている。彼女がこちらの方を見る様子がないので、唇を突き出すように、自分の上唇を鼻の下に押し当ててみる。臭い。ヘドロのようなにおいが、完全に移ってしまっている。上唇と鼻の間に薄い髭が生えたような、柔らかな立体感を感じる。その立体感が、ヘドロの臭いを放っている。下を見ると、相変わらずつ彼女が一心不乱にフェラチオをしている。唾液まみれになったペニスから、ヘドロの臭いがかすかに漂ってくる。正確には、その臭いが自分の鼻の下から漂ってきているのか、ペニスの方から漂ってきているのかはわからなかった。店内には、モーニング娘の『LOVEマシーン』が流れている。

「イけそう?」

「無理かも」

「萎えちゃってきてんじゃん」

「うん、今日は諦めよっか」

「なんで!? 気持ち良くなかったの!?」

彼女が急に、お腹から声を出した。それまでは一切、お腹から声なんて出さなかったのに、こちらがイけないと明示的に言葉にした瞬間に、お腹から声を出し始めた。人と接していると、今はこの人の方が主人公になっているな、と感じる場面があるけれど、その瞬間、まぎれもなく彼女が主人公になった。

「なんで!?気持ち良くなかったの!?」

「気持ちよくないってことはなかったけど」

「なんでイけないの...!?」

「たまたまじゃない」

別に彼女に気を遣ったわけではなく、本当にたまたまイけなかったのだと思った。第一に、自分は口の臭い人が相手でも何度もイッたことのある経験があったので、素朴に科学的な比較の思考で考えてみるならば、自分は相手の口が臭いからと言ってイけなくなるようなことがないことは明らかだった。第二に、今回このピンサロ嬢と自分が出会ったことと、それから、自分がイケなかったことの間には、何の因果関係すら成立していない、という考えがあった。それは、哲学者の九鬼周造が、あらゆる出来事を『独立した二元の邂逅』と言い表したことを前提にしている。僕と彼女が出会ったことにも、僕がイけなかったことにも、その間には因果関係は成立していない。僕と彼女が出会ったこと、僕がイけなかったこと、そうした独立な事象が、ただただ並列的に生じているだけである。この世の出来事を『独立した二元の邂逅』と捉えることは、そういうことだと思う。

「たまたまじゃない」

「そんなことある?」

「あるよ」

「ふーん」

服を着て、お別れの挨拶をして、外に出る。外に出た瞬間、誰にも気を遣うことなく、唇を突き出して思いっきり上唇を鼻の上につける。やっぱり、ヘドロのような匂いがする。雲ひとつない青空。歩く人たちはタオルや日傘や携帯扇風機で、暑さを凌いでいる。アスファルトに沿って遠い方を見ると、景色が揺らいでいる。なにもせずにただただ日に照らされた街の方が、人よりも朦朧としているように感じる。灼熱に照らされたアスファルトから、車のタイヤの臭いや、アスファルトに付着した泥の匂いが漂ってきて、鼻の下のヘドロの臭いにくっつく。鼻の下の臭さが倍増する。遠心作用のみならず、求心作用まで備えた臭い。とりあえず、近くのFamilyMartに入る。昼休みは残り10分しかない。今日は、昼飯を食べるのをやめることにする。お腹は空いていたが、お腹を満たすことよりも、空腹と付き合いたい気分の時がある。ヘドロの臭いを消すために、なにか発酵した臭いをするものを摂取しようと思って、高千穂牧場の、のむヨーグルトを購入する。高千穂牧場ののむヨーグルトは格段に美味しい。こんなに美味しいのであれば、220mlという小さいサイズではなく、もっと大きいサイズで売ってくれればいいのに、と思うけれど、「もっと大きいサイズだったら良いのに」という渇望感が、高千穂牧場ののむヨーグルトの美味しさの由来の一つだということも、なんとなくわかっている。FamilyMartを出て、のむヨーグルトを一気に飲み干す。唇の上にのむヨーグルトが付着するように飲んで、上唇を大袈裟に舐める。その時の鼻の下のひんやりとした感じから、灼熱の街の中にも、かすかに風が吹いていたことを感じる。ヨーグルトの匂いが広がり、ヘドロのような臭いが、なくなった。



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