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みんなが知らないスーパーマーケットの世界②~流通革命の申し子”ダイエー”

みなさん、はじめまして。
シルタスのBizdivチームで働いている石川です。

知らない人はほとんどいないで思われるであろう、”ダイエー”。

1957年、戦後の時代から始まったダイエーは、スーパーマーケット~チェーン展開~GMSなど、今の小売のビジネスモデルの基盤を作るとともに、小売企業として初の売り上げ1兆円達成など、戦後の日本の経済と業界を作ってきた存在です。

その過程でのイーロンマスクとそん色ないくらいの破天荒ぷりは胸躍らさせるストーリーばかりでして、NHKはいつダイエーのドラマをつくるんだろうかとソワソワしている今日この頃でございます。

ダイエーの歴史を知れば知るほど、もうあれですね、呼び捨てできないです。僕はもう今では”さん”づけです。そしてダイエーの店舗の方角に足を向けて寝れないレベルで尊い。。。

ダイエーさんが時代を作っていく過程は多くのビジネスパーソンの方にとっても、たぎる部分が多くあると思いますし、消費者としてもファンになっちゃうことをお約束します。

それではどうぞ!

”価格は消費者が決めるべき。” 現在の流通のポジションを確立した信念

創業者の中内功(なかうちいさお)社長/ユニフォトプレス

死ぬ前にもう一度すき焼きを

“For the Customers”「よい品をどんどん安く,より豊かな社会を」

ダイエーグループ創業以来の基本理念です。この理念は創業者の中内さん自身の原体験から生まれました。

中内さんは1922年大阪生まれ。もともと実家が薬局を営んでいる家庭に生まれます。
太平洋戦争に徴兵され、大けがを負った際に脳裏に浮かんだ子供のころの家族とすき焼きを食べた光景。

「死ぬ前にもう一度すき焼きを腹いっぱい食べたい」

この想いこそがダイエーのこれからのビジネスモデルと信念のもとになっているんです。

終戦後、中内さんは薬の卸売店”「大栄薬品工業」”を開業します。「幸せになるには物質的な豊かさが必要だ」という考えのものと安売りに成功し、お店を軌道に乗せていきます。

ちなみに「大栄」は大阪の「大」と栄えるの「栄」からとっています。

創業当時のダイエー

ダイエーさんが安売りを始めると周辺のお店も負けじと安売りをはじめ、血みどろの安売り合戦に突入。ダイエーさんは差別化のため、この時期から日本で広まり始めていたスーパーマーケットの業態を目指すことに。その後はものすごいスピードでチェーン展開をしていき、全国展開に広がっていきます。また業態も、「リンゴからダイヤモンドまで」をキャッチにGMSへと
徐々に転換していき、大きく事業を伸ばしていきました。

1973年には売上高3052億円を記録し、それまで小売業界で日本一の売上高を誇った百貨店・三越を凌駕して日本一の小売業へ!創業からわずか10年数年での快挙でした。

これまでのメーカーや小売視点のビジネスから、消費者に寄り添ったサービスを積み上げていき、ビジネスモデルとして確立を貫いたからこそであり、ダイエーさんこそ、今の小売のビジネスモデルを作り上げていったといっても過言ではないでしょう。

牛肉を日本に開放するため、業界と戦う。

ここで石川が注目したいのが、中内さんの原点の想いでもある牛肉。

「すき焼き」をもっと気軽に食べられる世の中をつくるため、当時高級食材だった牛肉に注力し、肉の安売りも積極的にスタートしていきますが、これに危機感を持った精肉業者に仕入れを止められたりと反発を受けます。

が!ただここで希代の革命家は止まりません。枝肉商の上田照雄(通称ウエテル)との出会いが道を切り開きました。ダイエーに関心を持ったウエテルは、それまでに築き上げた取引先を失ってまで、ダイエーとの取引を開始します。

ダイエーの成長に合わせて納入量が増加。物量を確保しようとすれば、通常のセリ取引では仕入れ値も上がってしまうという問題に直面する。そこでウエテルは、なんと鹿児島などの家畜市場で成牛を仕入れ、それを屠畜してダイエーに納品する仕組みに変えていったんです。もはや卸売市場を通さずに枝肉を調達するルートをつくってしまったんです。
※ちなみにリンゴやバナナなども産地から直接仕入れることもこの過程で行っています。

その後は日本ハムなど取引先も増えていき、ウエテルとは共同出資で「沖縄ミート」を設立し、本格的に事業としてもスタートしていきます。

業界に合わせるのではなく、信念を貫き、業界に合わさせるというね。めっちゃかっこいいす。

PB商品の日本初も実はダイエー

ジャパンアーカイブスより

安価な値段で商品を提供し、戦後の日本を豊かにすることを目指していたダイエーさんなので、先に述べた牛肉以外の商品でもさまざまな流通改革を行っていました。

その中で今では当たり前となっているPBも着手しており、1960年に日本発のPBであるダイエーみかんをスタート。61年にはダイエーインスタントコーヒーも始まり、徐々に品種を増やしていきます。

そして、1980年ごろに「セービング」シリーズを展開。

セービングは、その名のとおりお客さまの「Saving Mind」(節約意識)に応えるため、低価格で実用本位のストアブランド商品として誕生しました。

「安売王」 VS「経営の神様」

このPB展開の中で注目したいのが、PBブランドとして家電にも参入したときに激突した、経営の神様率いる松下電器でした。

いや、そこはさすがに引くでしょと思うじゃないですか。ノンノンノン。もちろん中内さんは戦います。

1960年代、ダイエーさんは「価格破壊」のもと、松下電器の商品をメーカーの許容範囲をさらに下回る値引き率で販売をしていました。

市場では安値乱売が発生していたため、松下電器は小売に対して価格維持の徹底を訴えます。しかしダイエーさんは無視(さすがです)。

これに対して松下電器は出荷停止をし、ダイエーさんに対して徹底的な締め付けをするものの、ダイエーさんは正規ルート以外での商品入手に奔走し製品を買い漁りました。それをダイエーの店頭に並べると松下の関係者が全て買い占めてしまう。その繰り返しだったそうです。

今の時代でこんな事件があったら、newspicks大盛り上がりですよね。
しかもここからまだあるんです。

キレたダイエーさんの猛攻が始まります。メーカーへの不信感醸成の世論を形成しにいくんです。

公正取引委員会が家電業界のヤミ再販に目を付け始めた時期に、ダイエーさんは証拠となる資料を提供。それをもとに公取委は松下電器に立ち入り検査をして、独占禁止法第19条に触れると勧告。

さらにさらに、物価問題を視察中の議員たちを三宮店に招いてヤミ再販の徹底糾明を直訴。このとき、松下製品に特殊照射機のライトをあてて、肉眼では見えない秘密番号が浮かび上がるのを実演し、この番号によって流通ルートを特定することができ製品を横流しした業者を処分することができていることを証明。この「ブラックナンバー告発事件」新聞で大きく取り上げられました。

さらにさらにさらに、オイルショックで消費者が価格に敏感になっている1970年のこの絶妙なタイミングで、自社家電のPB”BUBU”を投入。当時カラーテレビは9万円代の金額でしたが、”BUBU”は破格の59,800円。
「良い品をどんどん安く消費者に提供する」姿勢を崩さず、超大手に最後まで屈することなく戦い続けました。そんな破天荒な会社、現代でもそうそうないですよね。

その後も両社の和解は進まず、終結したのは松下幸之助の没年後でした。

日本で初めて、小売り企業として売上1兆円を突破

今一度流れを整理しましょう。

57年に薬局から創業したダイエーは、徹底した消費者目線での店づくりで翌年には2店舗目を出店。60年には日本初のPB商品をリリース(この時点で6店舗出店)など、初速から爆上げです。

この急速な店舗展開は買収もあったのですが、土地の含み益を利用していたことにも起因します。 土地を購入しそこに店舗を構え地価を上昇させ、さらに土地を担保に銀行から借入れを行ないまた土地を買う、、、この手法により 「どの地域が売れるかよりどの地域に出店しやすいか」を優先し、 一大チェーン網を構築していくとともに、スーパーマーケットからGMSへと進化していきます。

70年には店舗数は50を超え、売り上げも1,400億を突破。同時期株式市場への上場も果たし、72年には売り上げトップの三越を超え、小売企業日本一になります。

先に触れたノーブランドシリーズ”Saving”の投入や自社クレジットカードブランドの投入などを展開していき、1980年、ダイエーさんはとうとう前人未踏の売り上げ1兆円を達成します。

売り上げ1兆円を突破したのちも、47都道府県すべてに出店、小売業以外にも、ホテル・大学・プロ野球・出版など事業も多角化し、グループ企業は約300社もあったそうです。
ちなみにリクルートも昔はダイエーグループの傘下だったんですよ。

バブル崩壊を機に経営難へ

急速な多角化をしていたダイエーさんの一方で、日本はバブルに突入。物質的な豊かさよりも、品質やエンターテインメントに徐々に消費者のニーズが遷ろう中、既存事業は鈍化していきました。

連結では82年度から赤字が続き、再建に注力しつつも1990年ごろから始まったバブルにより、株価や地価が急落していきました。

土地を押さえて事業拡大をしていたダイエーさんにとっては株価と地価の下落はダブルパンチです。どんなに苦しくとも店舗を閉店させることがなかったダイエーさんですが、1998年から初の大量閉鎖に踏み切り、収益性向上のために巨額の改装費を投じるものの、功を奏することはなく、赤字決算は続いていき、2001年に創業者の中内さんは経営を退くことに。

2004年に産業再生機構の支援を受け、丸紅・イオンが再建に関わりますが大きな成果を残せないまま2008年のリーマンショックを迎えます。

2013年にイオンがダイエーさんを連結子会社化し、15年に完全子会社となって今に至るのです。

終わりに

皆さんいかがだったでしょうか?

かなりボリューミーでしたが、これでもだいぶ省いたんです。
そのくらいダイエーさんは様々な変化を日本にもたらし、戦ってきました。

僕はダイエーさんの歴史を学んだときに、昔知り合いの起業家の言葉を思い出しました。彼は「なぜ起業したのか」という問いに、「人である自分はいつか死ぬが、同じ人でも法人は生き続けられるから」と答えてくれました。

まさに中内さんの圧倒的な熱量のビジョンや想いは、ダイエーさんが存続する限り残り続け、また新しい歴史を作ってくれるのではないかと思いますし、こうやって触れた僕自身にも闘魂を注入していただきました。ぞす。

ということで、近くにダイエーがある場合は、買い物は投票だという言葉もあるので、ぜひダイエーで買って応援しましょう。

ではでは。

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