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ししおのつぼやき10 演劇はつまらない2 なんてったってアイドル

日輪の夢 伊藤野枝物語 9/9昼の部 福岡市科学館
 女性解放運動家&アナキストの伊藤野枝の話だというのと、これにかかわる劇団に気になるところがあり、(野外劇・テント劇ではないし美術にかかわるとか家から近いとかの理由もないし)普通絶対に見ないような演劇を見てしまった。ありきたりすぎるconventionalなスタイルだし(後述)、いかにも「芝居がかった」芝居で、私が生理的に耐え難い種類の演劇だったと見始めて気づいたからだ。それがわかって席を立ちたくなったのだが3500円も払ってもったいないし大杉栄(写真は静岡・沓谷霊園の大杉栄の墓。2013年1月筆者撮影)、辻潤はもちろん、野枝についても最近少し読んで興味をもったし、野枝の出身である糸島は福岡なのでいろいろ虐殺100周年のイベントがあるし、いい機会ではあるので最後まで見たのだった。
 伊藤野枝についての本は最近も何冊も出て話題になったものもあり、もともと評伝も小説もマンガもあるので、大杉、辻のみならず伊藤にも自分なりのイメージ(キャラ)を抱いている人も多いだろう。だから、登場人物がこれまでの知識(&期待)で作られた観る人のイメージ・人物像・政治や文化史の役割などと合わなくても仕方ないし、むしろ合わないほうが演劇作品としての独自性・創造性があることになるだろう。
 といいつつ、正直なところ、野枝の「文学的才能」「野性味」はセリフで語られるにしても演技からは感じられず、彼女の文章や行動、風貌から私が理解していた、粗暴・凶暴とさえいえるすさまじい反抗心と自己主張(福岡市総合図書館での展示にある後藤新平への手紙すごすぎ――「あなたは一国の為政者でも私よりは弱い。」)は微塵も感じられず、単なる明るく元気なアイドルになってしまってもいいのかと思うし、カリスマ性ゼロでへこへこへろへろした大杉、洒脱も諧謔もダダイズムもゼロの単なるいい人にすぎない辻、という見え方をしてもいいのかなとも。最近研究がすすんだ野枝の支援者・叔父の代準介役は妙に存在感があったが、それなら、敏腕ビジネスマンで政治力もあった代が大杉のアナキズムに同意するあたりもうちょっと展開しないと唐突。また神近市子が優秀なジャーナリストであることは大杉がちょっとふれただけで、ツンデレ・キャラとして目立ってしまうのではぶちこわしでは?!(ところでいつも大杉の四角関係について読むとき、正妻の保子さんがほとんど表に出ないのが気になる……) 
 この『日輪の夢』を見て、「しまった」と思ったのは、公演としては、宝塚とか博多座でやるミュージカルみたいな、完全に大衆向けに確立されたスタイル・枠組みのものだったということ。ほぼ満席で、パンフやブロマイドで宝塚スターのような写真が売られていた!(神近さん推しの男は買うかも……) プロデュースをしたLight Seekersというところがそういう仕事をしているのかもしれない。憲兵に虐殺されたアナキストという重く凄惨な話なのに。その演劇スタイルが、まったく実験的でも前衛的でもなかったことは、舞台上の人物が会話しているのに一人は観客席に向かって話し、左右の手をセリフに合わせて動かすという、私を演劇というメディアに耐え難くさせている陳腐かつ不自然きわまりないconventionが当然のように貫かれていることでわかる。
 冒頭の仮祝言で伊藤のお色直し中に『黒田節』を2番まで歌い踊ったのはまったく必要ないし、あっても1番だけでいいのだから、これは余計な観客サービスで、のっけから物語的緊張をなくしてしまうものだ。ダンサー長髪だし。だめじゃん。
 あと女学校時代から亡くなるまでを時系列で駆け足でたどるので、各場面が説明的にこまぎれになり、時間を追うことで積み重なっていく物語的な厚みの経験が欠如している。さっさと説明して次に、という構成から、本来はもっとじっくり見せてもいい所作・空間・演出(音も含め)が全部省略されている感じがする。唯一それらしいのは、日陰茶屋を訪れた神近が、伊藤がすわっていたかもしれない座布団をひっくり返すところだ。ほかはすべてわざとらしく説明的な所作とセリフでステレオタイプを再生産するだけ。演劇を文字で読むことはほとんどないのだが、イプセンの『人形の家』が意外に小道具の仕掛けが書かれて劇的緊張を高めているのがおもしろかった。だから(どうせやや聞き取りにくいナレーションで背景を説明してしまっているのだから)ナレーションやセリフの工夫で場面をもっとはしょり(今なら動画とか写真の投影とかでも補える)、ディテールの造形で大事な場面の心理をもっと深めて見せることくらいプロの演出家なら当然の仕事じゃないの? だめじゃん。
 イメージとちがうのは当然、と書いたが、やはり、大杉や辻はもちろん野枝も当時の社会では完全に浮き上がった特異なキャラであり才能であり生き方だったことを思えば、ここまでみんな凡庸化していいのかと思わざるをえない。
 要約すれば、「伊藤野枝をアイドル化するための芝居がかった芝居」だった、ということである。
 だめじゃん。
 
 なお、途中で出ることなく(幕間休憩あったおかげもあり)最後まで見たのは、お金がもったいないというだけでなく、ウンコが出そうな気配があったのに実際は出そうにならなかったからだ。出ないから出なかったのだ。そういえば九州交響楽団の公演でブルックナーの交響曲第8番という80分くらいある長大な音楽(ブルックナーの代表作であり、かつ後期ロマン派最高傑作のひとつ)の前にアクロス男子トイレの大のほうがいっぱいで一人でウケたことだ。普通夕方の6時とかにしないでしょう?みなさん曲の長さをよくご存じで。おととい聞いた9番は完成前に作者が死んだので3楽章までしかないがそれでも1時間くらいあるのでやっぱりシューマンの後の休憩で大に入った人もいた。余談だがあれを流すのは大とか小とか大きさは関係ないのだが中川いさみの『大人袋』で「今日のは“中”でしたね」というのがあったな。
 で話を戻せば、福岡市科学館のサイエンスホールというのは、入り口が舞台向かって右後方の一か所で、そこから奥のほうに出入りするには、舞台の前を通らないといけないということだ。客席の中ほどを横切っていくこともできない。左右の端にも通路はない。チェックのためには出入口を一か所にしないといけないのは当然だが、いまどきの映画館では入口の先は左右両方から入れたり客席の半分くらいのところに左右に移動する通路があるので、こんな最近できた施設にしては間抜けすぎないか。だから途中で気分悪くなったり、小さい子供が泣き出したり、重要な急用を思い出したり、そしてもちろんトイレに行きたくなったりした場合、舞台の場面転換のときをねらって舞台の前を横切るしかいない。あっ、それで気づいた、上述の、場面がこま切れになって、完全に暗転して舞台装置を変えるのは、このように舞台の中途でも観客が出入りする機会をつくるためだったのか! 賢い! というか本末転倒!!
 科学館は先週のどうぶつ展示カエル映画に続いて3回目だが屋上があるのに気づいていったん駐輪場まで下りたのにまた上がって見た。特におもしろい景色ではなかったが、動物園近くの展望台が見えた。コロナのときにはそことか西公園とか愛宕神社とか高いところによく登ったなあ。どこも特におもしろくないのだけど。