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不完全な日々の詐術

絶対これは書きたい、というほどのネタがないので久しくつぼやいてなかった。これも書きたい・書かなければというほどでもないので書くつもりなかったが、その後ぽつぽつ、ある映画についてremindされることが起こったので、いまいち気が乗らないけど、読まれることよりも考えたことの記録が主旨でもあるので。
その映画とは「パーフェクト・デイズ」である。(なお原題は英語なのだが、前に書いたように英語そのままのタイトルは納得できないのでカタカナ)
カンヌ国際映画祭で受賞し、興行成績もそこそこだし、美術サイトにも記事がのったので思い出すのだが、そんなにいい映画とは思えないのである。(自分でも特に見たくなかったのだが妻につきあって。あと主演俳優に似ていると言われたことがあったせいもあるがぜんぜん似てない、ってそんなの映画見なくてもわかるのだけど。)

この映画を思い出したのは上記リンクのartscapeの記事からもだが、大阪万博での2億円のトイレが(能登の大地震の復興に使うべきではとかの)批判をあびたニュースと、顔のアップの長回しの映画(カール・ドライヤー『裁かるるジャンヌ』ほか)を見たからである。
大阪万博のトイレの経費は、その規模だけでなく有名建築家に作らせたからのようで、もともと『パーフェクト・デイズ』もまた東京各地での超有名建築家に作らせたトイレのプロモーションのためだった。顔ドアップ長回しはもちろんこの映画のラストで微妙に変化を続ける顔演技を示す。

最初見たときにすごく気になったのは、娘をひきとりに来た主人公の平山の妹が運転手つきの車で訪れることだ。ものすごいお金持ちじゃん。ボロアパートで人のいやがる肉体労働しているといっても、(親と対立したらしいけど)本当は逃げ道があるんじゃないの? 出てくるトイレも、ものすごい予算使って奇抜なデザイン性(ほか特殊機能も)を売りにしているだけでなく、みんな割ときれいなほうじゃないの? もっと悪夢のように汚い公衆トイレを見たことありませんか?(私は昔ときどき夢に出ました)
また、いかにも庶民を描いているようでいて、役所広司だけでなく三浦友和やら田中泯やら石川さゆりやら普通でない人たちが多すぎるのも、全体の嘘くさく人工的な雰囲気を強めてしまう。

缶コーヒー、カセットでの80年代洋楽、写真、古書店で買う文庫本、居酒屋などの楽しみは、現在の私の生活に通じるところはあるもの の(特に文庫の小説)、私と違って、平山はあまりにこの生活に満足しているように見えないか。いくら昭和な風呂なしボロアパートでも、浅草まで歩ける立地でそこそこ広いから、けっこうな家賃だろうし、トイレ清掃(委託業者雇い?)の収入で生活できるのだろうか? それにトイレ清掃員は差別されたりしてないのだろうか? 初老というほどの歳でもないのに、性欲はないのか? あとデジカメでなくフィルムカメラのDPE、音楽はダウンロードでもCDでもなくカセットテープ好んで使う人は今でもいるにはいるだろうけど、中古ショップでカセットテープが高値になるというところに、貧乏生活の裏面の贅沢さを表してないか? フィルムカメラにDPEプリントの魅力はわかるし、気に入らないショットを破って捨てる決断は凡庸な組み写真で見せる学生に見せてやりたいが、デジタルカメラならフィルム代・現像代はゼロなんですよ~?(今どき安い家庭用プリンタでもけっこうクオリティよくなったからプリント代もたいしたことなくなった)

要するに ①きれいごと(トイレ掃除のしゃれ「美化」) ②都市と人間の経済と物質性の隠蔽 ③現実への無抵抗 という、どれも私を納得させるものではなかったということだ。
これを見て喜ぶのは東京都知事や大阪万博推進派、そして現政権ではないのか。
こんなに現状で満足してくれているのだから(しかも国際映画賞でクールジャパン[死語?]やって、観光客誘致にもなって)ほくほくでしょ。

なおもうひとつの「顔のドアップ」でいえば、『裁かるるジャンヌ』のほとんど(終盤の火刑シーン以外)はジャンヌ・ダルクと異端審問官ら(なかにはあのアントナン・アルトーもいる)の、拷問のようなクローズアップの連続だ。拷問のようというのは、審問官のねちねちしたジャンヌへの審問(誘導尋問も含む)にジャンヌだけでなく映画の観衆も耐え続けなければいけないからだ。顔は画面全体を覆うアップだけでなく背景がないので余計「モノ」としての顔だけに見る人は対面させられる。火刑シーンでも仰角カット(つまり空を背景)で標準レンズでもやはり人物だけをきわだたせ、エイゼンシュテインを思わせる異様なアングルもあり(『戦艦ポチョムキン』は『ジャンヌ』のわずか3年前の作品、『ジャンヌ』に近いのは『メキシコ万歳』の「竜舌蘭」だろう)、炎、戦慄的な燃えるジャンヌのシルエット、抗議する民衆、弾圧する兵士の見事なモンタージュで最後を盛り上げる。しかし最初に見終わったとき、あまりにすごい映画を見てしまったと思い身体が硬直してすぐには立ち上がれなかったのは、やはり顔のクローズアップだらけの異様さのせいだ。本当にすごい芸術には感動なんてしない。ただ驚き、ひれ伏し、生あるうちに出会えた悦びを確認するだけだ。
東京(イメージフォーラム)で見たときには一部眠ってしまったのがくやしくて福岡(KBCシネマ)でもう一回見て、強烈なキャラクターや心理的かけひきを理解できた。さらに両都市で同じドライヤーの『あるじ』『ゲアトルーズ』『怒りの日』を見ると、そのどれとも隔絶したスタイルの『ジャンヌ』とも共通するテーマが見えてきた。特に、『怒りの日』は魔女裁判(異端審問)というテーマが共通する。これら全体の根底にある現実は『あるじ』における夫に支配され侮辱された妻の生であるし、自分の欲望に忠実であろうとし実際に恋の至福も味わった『ゲアトルーズ』の主人公の墓碑銘、そして『怒りの日』で、老人に見える夫には若すぎる妻の逆襲(とその凋落)にはその両方のテーマがかぶさっているわけだ。
解説によればドライヤーは私生児で、実の母は再婚しても非常に不幸な死に方をしている。それがこれらの作品における、幸せを求めながら不幸と屈辱、さらには死まで強制される女性たちの強靭な魂の表現につながったのだろう(なお『奇跡』でも女性の復活が描かれるが、その精神の軌跡は焦点ではなさそうだった。また『吸血鬼』も見たのだがもともと難解なうえにかなりの時間寝てまったくわけわからなくなってしまったのでパス。)

私はもともと映画を「演技」で評価する習慣がない。ホームドラマ『あるじ』よりも『ゲアトルーズ』はさらに禁欲的なまでの長いシーン、芝居がかったセリフで、舞台上の芝居のような「会話劇」を純化させているので、選びとられた「映像」としてのスタイルが際立つ。『怒りの日』も会話劇を基本としつつ映像的により鮮烈である。さらに、『あるじ』の母親、『ゲアトルーズ』の壁のすごく変な顔の肖像画(うろおぼえ)、『怒りの日』の校長?、そして『ジャンヌ』の審問官の数人の、グロテスクといってもいいような異相は、(またしても)エイゼンシュテインの素人俳優を使った「ティパージュ」を増幅したような、「演技」より「映像」の強烈さをきわだたせるものだ。「演技」より「映像」を好むのは私の個人的な志向(嗜好)なのだろうし、「演技」は「映像」によって生きるのだから、単純化・一般化はできないかもしれない。ただ不思議なことに、舞台劇だったら(私には)耐え難い『ゲアトルーズ』『怒りの日』の長い長いセリフは、「映像」だから私にも向き合えたのだった(でも大事なところを聞き逃してしまう、ボケてるから)。

話をもどせば、『パーフェクト・デイズ』には、外国人監督の日本人・日本文化への異国趣味(例がいいかわからないが、藤田嗣治が描いた秋田とかメキシコ人のようなグロテスク化とか、いかにも日本趣味とかステレオタイプ化)がないのはいいとして、東京という巨大かつ複雑な都市を、そしてそこに生きる人間を、あまりに単純化、いや「美化」していることが、顔ドアップの効果を、ドライヤーと正反対にしている。ドライヤーの顔ドアップは宗教や家父長制の抑圧に抗する精神のエネルギーを示したのに、『パーフェクト・デイズ』の平山のドアップは、すべてを受け入れる妥協と諦念、そして現実(背景)の隠蔽に役立ち、それで観衆をだまくらかして映画にも都市生活の現状にも満足させるという詐術であったということだ。

でも私も平山と似たようなもんでしょと言われるなら…… これを書いていることだとしか言えない。魯迅も他人の批判ばかりしていると言われたら「自分自身も批判している」と答えた。注* ボケとツッコミを兼ねることが批評家の責任である。偉そうにいうと。
*うろおぼえではだいぶ違ってました、正確には「私はたしかに、いつも他人を解剖しているが、しかしそれより多く、さらに容赦なく私自身を解剖している。」でした。『墳』「『墳』の後ろに記す」(『魯迅の言葉』、平凡社、2011年、55頁)

なお年末年始には(妻といっしょに)『パーフェクト・デイズ』以外にも普段絶対に見ないようなメジャーな映画を見てしまった。『翔んで埼玉 琵琶湖より愛をこめて』(妻希望)、『SPY & FAMILY CODE: WHITE』(自分希望)。前者はあまりにおもしろいのでアマゾンプライムで初篇も見たが、続篇のほうがパワーアップしていた。後者はいまどきの日本アニメの高度な水準を示すのだろうけど、なんだかありきたりであまりおもしろくなかった。ヨルさんはマンガよりかわいいけど別にテレビかネットで見ればいいのだった(正月にやってた)。もちろん見どころはアーニャの激変する表情なのだけど。お菓子のおまけでヨルさんキーホルダー出ないかと二つ買ったらどっちもヨルさんだった。使いようがなかった。(ししお)

※朝起きて修正入れてます、でもまだ改稿続けるかもしれません
#その後もこちょこちょ加筆修正してます、魯迅の正しい引用を入れました