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ししペラのうすつぼやき 2023ベスト&ワースト5

ここでかいたてんらんかいでのことしのベストとワーストですコメントはししおにたのみましたペンペンペペンラララー
(ししお注 いったん公開後も細かいところ修正し続けてます)

ベスト5



蘇州版画の光芒 国際都市に華ひらいた民衆芸術 海の見える杜美術館
蘇州版画の光芒―国際都市に華ひらいた民衆芸術― – 広島 海の見える杜美術館 (umam.jp)
(↑写真参照)単に驚異の遠近表現や細密描写による(版画で!)作品の力とか文化史的・民俗学的なおもしろさにとどまらず、アジア美術における「近代」という概念を再考させ、江戸美術への知られざる影響など、美術史的な問題提起に満ちている点で比類がない。前期も後期も見た。図録も膨大な資料。


和田聡文個展 IAF SHOP
いのち、ばんざい。 - (tumblr.com)
展示の巧みさ、個々の造形の優美さ、奇怪な虫も人間も同等に見つめる精神の強度、声にならない不気味な哄笑、そして、とどまるところを知らない生成力。ここ10年近く見続けてきたが、以前のように饒舌な言葉を前面に出していない分、純化された造形だけで精神世界の特異性が伝わり、圧巻。大型美術館の贅沢な展示も巨大インスタレーションもこのささやかな展示にはかなわない。


「三つの硝子種」展 小林重予・八尋晋・島崎弥佳子 アートスペース獏
小林という物故作家の作品を再評価するだけでなく、八尋、島崎との組み合わが絶妙で、小空間だからこそじっくり見せる。企画力でベスト。


宗像みあれ芸術祭
糸島、久留米、大牟田(万田坑)など都市空間・野外展がいくつもあったが、どれもそれほど新しい展開があったとは思えない。この「みあれ芸術祭」も、宗像大社や森の中という展示には比較的成功しやすい場所であり、手法的にも作品的にも新しさはないが、陶芸、絵画、サウンドなどジャンルに目配りして、初めてにしてはサインやマップもわかりやすく、神湊やユリックスまで含む多様な場所に展開したのでスケールは割と大きかったし、ザイ・クーニンの大作、中林丈治の奇妙な存在感の作品も印象に残ったので、この芸術祭をあげたい。今後の展開はあるかもしれないが、繰り返すと陳腐化するから、これはこれで完結したものでもいい気がする。糸島のように徐々に広がるか、またやるなら全然別の手法か場所が求められるから。


Tropical: Stories from Southeast Asia and Latin America, National Gallery Singapore
https://www.nationalgallery.sg/tropical
日本の美術館が束になってもかなわないアジア最強美術館の意欲的な企画だから、見る人があまりいないか忘れさられそうないい展覧会を優先したいこの記事にあげるのに躊躇する。東京のメジャー美術館の展覧会はあげてないし(ベストに入れるほどのものはなかったというのもあるが)。だけど(実は)ベスト5にどうしても1つ足りなかったので入れました。
 まともに論評すると大変すぎるので簡単に説明するが、革命後のメキシコやブラジル前衛グループなどラテン・アメリカと東南アジア(一部南アジア含む)を並置・混在させ、「熱帯」とされ植民地化されオリエンタリズムのフィルターがかけられた両地域での美術における「独立」(児島善三郎なんかの和風アレンジのレシピなんかではない、生命と誇りを賭けた闘いとしての!)と、独自の造形の挑戦を見せるもので、広範な地域からの作品と資料の集積、大胆極まりない展示方法(床から立ち上がるガラス壁に絵を掛ける!など)、コンセプトを実現するには膨大な予算と調査力なしにはできない意欲作であり、アジア全域どころか世界的にもまれな意義のある展覧会ではないかと思う。特に両地域の美術家のマニフェストが感動的なイントロダクションになっていた。言葉の力は大きい。
 ただ東南アジアとラテンアメリカが並行して展開したのは途中までで、それぞれ独立を達成し、前衛的な試みをするようになると、ブラジルのエリオ・オイティシカのような「熱帯」性と実験性が結びついた作例は東南アジアには見られなかったようだ(NGSの常設展にはあるかもしれないが)。自画像のコーナーですでに対比は弱まって東南アジア優性になり(テーマと関係なくバングラデシュのカムラル・ハッサン作品はすごく魅力的だったが)、終盤ではラテンアメリカ作品がすごく貧弱に見え、アピチャッポン・ウィーラセタクンの映像はいくらすぐれた作品でも場違いにしか見えない。最後のシメのブッペン・カカール(インド)、プラトゥアン・エームチャルーン(タイ)、スムサル・シアハーン(インドネシア)の絵画3点は、テーマから完全に逸脱して盛り下がってしまった。最初の部屋であれほど東南アジアとラテンアメリカを並置する意図を大胆かつ感動的に明示していたのに…… ただ対比・平行が実際に困難になったのが現実であれば、それはそれで問題提起になったのだが、ひとつのショーとして見せるなら、終盤でもう一回盛り上げる工夫がほしかった。
 といくら弱点を指摘しても、日本で見たすべての展覧会を超高度で凌駕しているのはまちがいない。ただ日本国内の展覧会と比較できないのとネタ不足で5位に付け加えたのである。

番外(ペランのベスト)
第2回ウミウシ写真展 福岡アジア美術館交流ギャラリー
すいちゅうだしすごくちいさいいきものをとるぎじゅつもすごいですけどいろとかたちのたようさにめがくらみますてんじこうせいもかいせつもイラストもみんなよくできてますなんかいでもみたくなるてんらんかいってめったにないですペラーンラーンラン

ワースト5

本当のワーストはここにあげるに値しない、下記のような個展、グループ展。
・観客不在のお友達どうしの見せっこ
・美術史の知識も深い思考もない思いつき
・スマホとコンビニの生活をそのまま出せば作品になるという幼稚さ
・映像やインスタレーションなど定番化した手法だけで現代アートになると思う軽薄さ
どれかのことかわかると思うのでいちいち例はあげません。わからない人には説明しても無駄ですし。(ししお)


許家維+張碩尹+鄭先 浪のしたにも都のさぶらふぞ 山口情報芸術センター
台湾での作品はまだ歴史的なものを吸引力あるビジュアルで見せてよかったが、山口での滞在制作は伝統文化とテクノロジーをいくら使おうが異国趣味を免れない他者の文化のつまみ食いにしか見えず、困惑するというよりは気持ち悪かった。関連イベントの台湾音楽ライブはなかなかよかったのだけど、美術ってどうしていつもこんなエリート主義&ディレッタント的になっちゃうの? 
ただし欧米で高い評価を受けた作家が日本で滞在制作すると、伝統文化に惹かれたばかりに日本人にはつまらなくみえる作品を作ってしまった例はある。アジア作家には比較的それはないのだけど。
だから問題は、台湾作家3人+日本の伝統文化・映像技術・音作りなどやたらにいっぱいコラボレーションすることで平板化してしまったということか。 


ミン・ウォン 宇宙歌劇 Ota Fine Arts
よく知られた映画のなかに作家自らがメーキャップして登場する映像作品で知られるシンガポール出身作家で、いかにも欧米人に媚びた作品が好きでなかったが、完成度が高いから国際的な評価を得ていた。しかしこの映像と写真の完成度の低さはどうしたことか。映像は見るに堪えないのでちょっとしか見てないけど。


生島国宜展~イカイジンの肖像~」 大川市立清力美術館
福岡ベースで商業ギャラリーでも活躍するというのは福岡美術史では画期的なことであるし、絵画的な質を落とさずに大作を量産できる能力がそれを可能にする。しかしながら、元となる人物についての背景は考えなくていいのではあるが、最小限の認知できるイメージとして顔を描くという選択も安易だし、こんなにうすっぺらい造形では何も心の奥底に響くものがない。田中千智のように一般の人に訴えるセンチメントがないクールさが持ち味なのだろうけど、造形を支え展開し想像力にうったえる思考が欠如した低レベルの芸術性では歴史に残る仕事にならず、オサレ系の店舗に飾ってもらえたり、トークで福岡のお友達をいっぱい集めるだけの作家に終わるだろう。


Re: スタートライン 1963-1970/2023 現代美術の動向展シリーズにみる美術館とアーティストの共感関係 京都国立近代美術館
公立美術館としてはいち早く、かつ継続して各時代の先端的な美術を紹介し続けた功績は大きいのだが、この展覧会はすでに美術館に収蔵された作品が中心でほとんど単なる「名品展」になっていた。プレイほか美術館のなかでも制度的なプレゼンテーションを超える実験があったのに記録写真だけでは伝わらないし(1970年前後でも動画は残ってないのだろうか)、Galerie16の「THE GREAT WALL 1963-1970 -開廊時の作家の表現-」のほうが小規模でも展示プランやあまり知られていない作家の作品で当時の若手の挑戦が喚起されていた。図録も当時の図録の再録で中心で、展示でも図録でも、「美術史」を「美術館史」に収奪してしまう危険(美術館の傲慢さ)を感じた。


あそび、たたかうアーティスト 池田龍雄 佐賀県立美術館
これだけ見れば充実した意義ある展覧会なのだろうけど、すでに美術館企画の池田展は三回目なのに、生計のための絵本やイラストを加えて「たたかう」だけでなく「あそび」にも注目したといって何ら池田芸術に新しい視点を加えたとは思えない。そもそも、ルポルタージュ絵画を実践しながらも結局は瀧口修造先生をあがめたてまつったプロジェクト、退屈きわまりないブラフマン・シリーズ(それも途中からテンションがた落ち)まで、批評性なしにだらだら並べるのは、池田先生が佐賀と言う故郷に錦を飾るためでしかなかったようだ。