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変わっていく自分が少し怖い

「変わっていく自分が少し怖い」

そうタイプする自分の指が上手く動かず、ミスタイプしては何度も打ち直す。思っているよりずっと動揺しているのかもしれない。

この頃、自分のモットーを「自分の意見に自信を持つこと」にしている。

私は器用な人間じゃないから、2つ以上のことを同時に意識しながら行動するということが極端に向いていない。

今日はちょうどインターンシップに参加してきて、職種が営業なもんだったから、『7つの習慣』を結構におすすめされてきたけど、読む前からそういうのはあんまり向いていないんだろうなってことが何となくで分かる。

7つを1つに個人的な結論でも出すんでなかろうか。営業職を選んだ世界線の自分よ。

話は少し逸れてしまったけど、「自分の意見に自信を持つこと」というモットーに対して、あまりにもその通りに身の振り方が寄っていっている自分が少し怖くなってきている。

というのも、ポジティブ思考にするだとか、考え方とか意見に対してベクトルを向けるモットーならこんなことを思っていなかったんだろうけど、自分の意見を信じて生きていくということの是非というのはかなり個人の考え方みたいなものに依存する。

それが社会において少数派なものだったりすると人にはあまり好かれないだろうし、反対に多数派なものであれば意識せずともそれなりの人にウケのいい感じになるのだろうと思う。

凄く遠回りな書き方をしてしまったけど、言ってしまえば私は結構インパクトの強い意見を持った人間である。

かつその類はネガティブで私のフラストレーションのエッセンスを纏ったものであるから、それを聞いた人間からすれば「そんなこと考えるんだ…」みたいなものだったりして時に反応に困ったりもするのだろうと思う。

でも、もう隠しようもなく私の原動力はフラストレーションや悲しさ、空しさ切なさにあるのだ。

だからどうしたってしょうがない。

勉強をもっと頑張ろうと思うのも、文章を外に発信しようと思うのも、遍く全てはその類を出ない。

聴く音楽だって、書いた作詞家しか分からないような意識のうちに向いた内向的なものを好む。

ポジティブだって好きだ。
実際「人のいいところを見つけるのが上手いね」って言ってもらうことも度々あったりする。

でも、どうしても、考えを持って、精力的な自分らしい生き方をしていくためにはそれだけでは足りないのだ。

さっき電話していたとき、友達が「私そんな考えながら生きてないからなー、何も考えてない」と言っていた。

これも初めて言われたことではなく、何だったら昨日遊んでいたときに全く同じニュアンスの言葉を友達から言われた。

少なくとも後者に関しては、その言葉にポジティブなニュアンスを含めてくれていたような気がするけど、それでなんだか2日も連続で別の人間から言われるとドキッとする。

自分の意見を表明するということ、私の場合は、フラストレーションを表し、その上で自分の立場を示すこと。

そりゃこっちにだって美学はある。

社会全体ならまだしも、特定の個人に向けたフラストレーションであれば本人の前でやってしまえば嫌がらせ以外の何物でもなく、そんないじめじみたことは私の善の判断からは逸れている。

ただいずれにしろ、何かに対して異を唱えるということは、ある程度自分の足元に対しても同時に見られる行為だということは重々に自覚している。

だからこそいずれ、自らが唱えた異の対象に自分が立っているという場面だってそうありえないことではない。当然ながら棚に上げることもできないし。

でも、そんな厳しい道のりを強いるような自分の考え方でも、嫌いではなかったりする。

物事の側面やそこから生まれる問題点だったり、全体的に自分が目をつける部分というのは鋭いというか、誇りを持っていいものだと思う。

人よりも優れている部分だよと、自己PRならば自分に言ってあげたい。

でも同時に、場の雰囲気と自らの意見を通すことを天秤にかけたとき、前者を取りたがるような私にとっては、事実少数派な意見を表明し、一定の層からはある程度のヘイトを向けられるという生き方に関しては、結構さ。辛いよやっぱり。

どっちを選び取っていくのか、それは私自身ががする選択なのである。

ただ一つ、こうやってメリットに対するデメリット、物事の側面を自然に見れている私はすごいよ、私さん。

今はそれで充分なんじゃないかな。


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