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適材適所、という言葉

私たちはいつも誰かが羨ましい。

自分にないものを持っている人、自分に出来ないことが出来る人、羨んでも気質や素質というものはあって、人生においてそれはどうやっても叶うことがないと思う。

才能という言葉は何一つ信じていないけど、気質や素質に通ずるものがそれなら、才能という言葉にも理解がいってしまう。

私には人を巻き込んでいける力がない。

自分が決めたこと、それが決して揺るがないものであったとしても、それはずっと内向的な意思かつ決定であって、周りに影響を及ぼしていけるほどの力がない。これに関してはもう素質がない。カリスマ性だと思う。

カリスマ性だなんて随分カルトじみた言葉かもしれないけど、私はこれが一番意味として馴染みがいいと思う。

私にはどうすればいいか分からないものも、あの人にはなんなく出来てしまう。というか、勝手に人が付いてきたくなるような雰囲気を纏っている。

私には随分とそれが羨ましい。だから私の人生はずっと誰かの憧れの下にしか成り立たないのだ。

こんなこと言いたくなかったけど、二番煎じである。第一人者にはなれない。それだけの素質が私にはない。

追うことがあっても追われることはない。
上を見れば私にはない素質を持った人間がいる。

やろうと思ったって、そんなのは、もう、って具合に。

私には、和やかな雰囲気を作り出せる力がない。

新たなクラスに置かれるとき、新しいバイト先の環境に入っていくとき、ほとんど面識のない人と話すようなとき、私には”ここは安心していい場所なんだよ”と周りに思わせてあげられる雰囲気を作り出すことはできないし、周りから”ああ、この人は安心して話せる人なんだ”って直感的に思われるような雰囲気も持ち合わせていない。

友達に言わせれば、私は”話しやすい人”という雰囲気があるらしいけど、周りを見渡せば、全然そんなことはない。

そんなことを言ってしまったら「上には上がいる」という俗なテーマになってしまうような気もするけど、そうじゃなくて、実際私が複数人というコミュニティの中に入ればそんなことはすぐに分かる。

私は雰囲気を作り出せる人間じゃない。

本質的に言えば私は人に流されるタイプじゃないけど、周りに魅力的で素質のある人間がいればいるほど私は自分の存在価値を失ってしまうような気がして、すぐに委縮してしまう。

そんな周りの素質にによってすぐに潰されてしまう私なんかは、随分と弱いものしか持ち合わせていないのだと思う。

自立した女性なんて、天然な人なんて、意志と行動が釣り合っていく人なんて、もうあんなの全部羨ましい。

きっと”そうなりたいと思うような意思”も、”そうなれるような素質”も、私には備わっていない。

随分と魅力的で、素敵な人達だと思う。
羨ましいという言葉もどこか違うように思う。

単に私には眩しいくらいに魅力的なのだ。あなたが。

書けば書くほどに、言えば言うほどに、こんなのは暗いなぁ。笑

だからこの頃は自分自身に自信なんか持てるわけがない。
圧倒的な素質を前に、自己肯定感なんかまやかしに過ぎない。

時期的に就活のイベントなんかによく出向いているが、グループディスカッションなんかさせれば、周りの大きな人としての素質に、魅力に、打ちひしがれて仕方がない。

今まで友達に言われて根付いていた自覚も、なんだか随分と社会的には弱いものだと思えた。

私が今したいのは就活の話ではないから、その壁を乗り越えて就職できたら気持ちよく解決!とかそういうことじゃない。一つの例えとして捉えてください。

驚くことに、グループディスカッションという全員が全員初対面というリスクのある場でも、他の人間が発言しやすくなるような行動を起こしてくれる人間というのは絶対に一人はいるものなのだ。

あんなところで雰囲気づくりをしようと意気込んで「ね~」とか「あのさー」とか言って周りの反応が薄かった暁にはもうグループディスカッションなんか全て放棄して帰りたくなってしまう。だから私はやらないしそもそもそういう素質があまりないことも分かっている。

だからそういう人達、本当に凄い。本当に助かるし。

ああいう人間は普段から接しやすい雰囲気を纏わせているんだろうなぁ。大概本人には自覚がないんだけど。それが余計に接しやすいんだよ。なんだかなぁ。

また、周りにどう思われるかなどあまり気にせず、自分たちに与えられた課題をしっかりと遂行しようとする意識の高い人間というのもいる。

一見堅そうに見えて怖かったりもするけど、ああいう人間がいないことにはディスカッションは進行していかないし、ひいては社会は回っていかないのである。

あれも随分と凄いものだと思う。

課題の遂行には、論点や本質からずれたものは排除していかなければならないのだけれど、言い方に依っては随分と角が立ってしまうし、どれだけ言い方に気を遣っても、指摘された側が「責められた」という感想を抱いてしまえば、結果的に角は立ってしまう。

周りの顔色を随分と気にしてしまう私にとっては、そういう役回りは非常に精神をすり減らしてしまう。

また、「それ論点からずれてない…?」って内心思われてしまうような意見でもちゃんと言ってくれる人間というのも非常に助かる。

言ってしまえば馬鹿なだけなのかもしれないけど、ブレーンストーミングという観点で言えば、まずは質より量なのだ。全員が全員「私の意見ずれてないかな…」なんて思って発言できないようなら、そんな面白くない議論はないし、建設的でもない。

グループディスカッションにおいては、別に一人で結論をまとめないといけない訳ではないのだから、仮に論点からずれたような意見が出たって、誰かがそれに気付いて指摘すればいいだけの話なのだ。

自らの意見に懐疑的で、発言すらやめてしまうような人間より、その意見がどうであれちゃんと言ってくれる人間の方がよっぽどありがたい。

だから凄いと思ってる。ああいう場でちゃんと発言できることが。

こうやって他人の能力が、敵うことのない絶対的なものだと思わされる反面、社会構造の成り立ち方に気付けてきているという学びの面もある。

きっと、性格的なものはその人が育ってきた環境によって形成されていって、ある一定の年齢になった段階からは、無意識にその人の考え方の根幹になっていく気質とか素質が固定化されていくから、その後になって他人の性格的なものに憧れたって、もう頑張りとかそういうものでどうにかなっていくような問題じゃない。

できるものはできるし、できないものはできない。

私は長い間その”できない”方に焦点を当てて、それができる人間を羨んでいたけど、”できない”ことに関して”できない”という事実は”課題の放棄”じゃなくて、”現状を受容すること”なのかもしれない。

別に一人で生きていっている訳ではない。

プライベートな場面では友達や家族がいるし、仕事なら別の仕事仲間がいる。

できないことをできないと投げやりかのように周りに依存するのはよくないけど、自分よりもっとその分野が得意な人間がいるなら、よっぽどそっちに投げてしまった方がいい。結果としても、良いものが生まれていくのは圧倒的にそっちである。

そして、その分野において自分にあまり素質がなくても、自分がある程度できると自覚がある課題が回ってくれば、その時には自分がやればいい。

これは「適材適所」の考え方だ。

適材適所は、現状を受容したうえでの不出来であり、決して卑下ではない。

できないことを正しく見つめることと卑下では大きく意味が違う。

何のために自分の周りにたくさんの人間がいるのか、随分と長い間勘違いをしていたなと思う。

だから結局、何にしても自分がやれるところで自分が活躍していけばいいのだ。

できないものは人と助け合えばいい。

それでこそ社会のあるべき姿であるはずだ。


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