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情愛

明けましておめでとう。

この一言を言うためにこんなにも時間が掛かってしまった。

1月16日。年が始まってから実にもう2週間の時が経つ。

幸先よく地元では有名な初詣の場となる神社に行ったけど、既にあの頃誓った”今年の抱負”など既に朽ちてしまっている。

始まった頃から分かっていたが、あんなものは実にまやかしに過ぎないのである。

おみくじも半凶だったしね。(半凶って何??笑)
あんなの本当に全く気にしていないつもりだったのに、意外に気にしているのかもしれない。

おみくじとか占いとか、ああいう自分ではない誰かに運命を確証もなく断定されるような類は自分にはあまり合っていないのだと思う。

年初のだいたいの流れも少し分かってきたことだし、ここで一つ最近の悩みの種でも書いておこうと思う。

この頃、異様に人に腹が立つことが多い。

具体的に言うと、比較的近しい人間、友達とか。その類。

それは、自分に向けられる言葉や態度に加え、自分に向けられたわけではないその人の行動スタイルというか性格に対しても。

この歳になって、どうも人に求めるものが多くなってきている。

自分に対して「こうしてほしい」というのも勿論だが、もっと問題なのは、自分に直接的な影響が及ばない部分においても、「何でこうしないのか」というその人のスタイル・性格批判に感情が走ってしまうことだ。

私の友人周りというのは、私の元よりの気質に依り、比較的内向的な人間が多い。もう少し嚙み砕いて言うと、新しい人間関係に踏み込みたがるような人間はあまりいない。ポテンシャルの有無に関わらず。

私にはそれが気に入らない。

そのポテンシャルがない、少し失礼な言い方かもしれないけど、あまりそういうのが得意ではないというならそこに踏み出さないという選択にも理解がいったりする。

ただ、誰とでもそれとなくやっていけるだけの能力を持っている人間がそこに踏み出さないのには理解がいかない。

こう書いていると実に自分が勝手な人間なのだとも思うけど、心がついてこない議論には頭で理解してもそんなのは表面的に過ぎない。いつか牙を剥くのである。

私自身が、この数年で極端に”狭く深かった”人間関係を外に向けるようになって、かつそれを”成長”と自らが見なしていることは一つの原因だと思う。

頭の中では、単に人間関係において内向きだった意識を外に向けることだけが”成長”ではないと分かっているけど、どうにも主観的意識の強い私にとっては心がついてこない。故に自分と違う人間、イコール(私にとっては)成長のない人間となってしまい、苛立ちの対象となる。元は善意のはずだったのに。

「宝の持ち腐れ」が嫌いだ。

そのポテンシャルがあるならやればいいのにと思う。勉強、人間関係、その他諸々何でも。

やれば出来ることを、求めてない姿勢が私には理解できない。

「こうすればもっと楽しいのに」「こうすればもっと有意義なのに」
そんなことばかり考えている。

多分こういうのをありがた迷惑と呼ぶのだ。人が助けを求めている訳でもないのにこっちが差し出すのはただの押し付けに過ぎない。行き過ぎた善意である。

でもじゃあどこまで踏み込むのが人間関係の定石なのだろうか。

私にはその境界線が分からない。器用な人間でもないから、曖昧な境界線を行ったり来たりするような真似はできない。

人は好きだけど、踏み込みすぎれば妙な情が移ってしまって、反対に一線を引けば一生独りである。


わからない、どこまでもわからない。



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