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ちょっと不思議な友達の話

 こんにちは、Sister Jugendの吉塚千代です。このお話はちょっと長いので、お時間がある時にちょっとずつ読んでいただけると嬉しいです。

 私は産まれてから18年間、ずっと山梨の山奥、野生の鹿はもちろん、たぬきやイノシシなんかとも毎日のように遭遇する田舎で育ってきました。学校も非常に少なく、小学校から中学校に上がる際に特にメンバーの入れ替えも無かったため、小学校入学から中学校卒業まで、9年間ほぼ固定のメンバーと学校生活を共にしました。保育園の頃から付き合いのある友人はさらに長い期間一緒にいることになります。ちなみに一人、保育園から高校卒業まで、約15年近くずっと同じクラスだった人もいました。そんな状況なので、転入生が来るなんて話になった時はそれこそお祭り騒ぎで、転校生が来る前後1週間はずっとその人の話で盛り上がるというような状況でした。私が住んでいたのは山梨県の中でも特に山奥の方でしたが、80年代に観光地として非常に栄えたり、”楽しい田舎暮らし”をイメージする人が行き着く場所ということもあり、他の地域に比べて圧倒的に都会からの移住者が多い地域でした。なので少し都会的な雰囲気を纏った、”自分たちとはどこか違う人”が入ってくることが多かったです。私も両親が東京から山梨に移住したため、同じようなものなのですが、山梨で生まれ育ったために自分が移住者だという感覚はほぼ無かったです。自分たちの知らない世界を生きてきた彼らに密かに憧れを抱いたことを覚えています。そんな中、小学校4年生の春に転入してきた、少し変わった女の子がいました。今日はその子の話をします。

 京都から転入してきたその子は、名前を黒瀬さんと言います(本人から名前を出しても良いと許可をいただきました)。芸能人には疎いのですが、似ている芸能人を挙げるとすればゆるめるモ!のあのちゃんっぽい感じで、髪型も可愛らしいボブでした。黒瀬さんは前述の通り、小学校4年生の春に京都から引っ越してきました。正確にはお父様が東京の会社で働いており、黒瀬さんが幼い頃に転勤で京都に引っ越し、その後6年近く京都で過ごした後にまた東京に帰ったのですが、ご両親が田舎暮らしに強く憧れており、すぐにお仕事をやめられて山梨に引っ越してきた。という感じみたいです。それでも黒瀬さん自身は京都での生活が長く、住んでいたのも京言葉が残る中京区だったため、自分のことを”京都出身だ”とよく話していました。そんな黒瀬さんが転入してきた日、初めて自己紹介で生の京言葉を聞いた山梨県民達は感嘆の声を上げていました。それを見て黒瀬さんが恥ずかしそうに笑っていたのが、いまだに強く記憶として残っています。アニメではよく窓際の席に座っている主人公の隣の席に転入生が座り、物語が発展していくという展開がよく見られますが、私と黒瀬さんとの間にそういう関係はなく、席も隣同士になったことはありませんでした。別に仲が悪いわけでは無かったのですが、なかなか話しかけるタイミングがなく、中学に入るまでは機会があればたまにお話しするという程度の関係でした。その割になぜか黒瀬さんは私のことを「ちーちゃん」と親しげに呼んでいました。その後中学に入り、私と黒瀬さんは数人の友達と共に美術部に入りました。お互い、美術部に強い思い入れがあったわけではなく、当時は部活動への加入が強制で、さらに文化部での選択肢が美術部か吹奏楽部のみということで、ほぼ消去法による選択でした。私はもともと少し美術に関心があったので、入部してからはなんだかんだで楽しく活動してたのですが、黒瀬さんは入部から1ヶ月もしないうちに飽きたようで、ほぼ部活には来なくなり、私自身も全く気にしていませんでした。そんな黒瀬さんが私の人生において重要な存在になっていくのは中学2年生の夏休みに入ってからのことです。

 中学1年の終わり頃、クラスの男子の間でとあるアニメが大流行していました。それが「ジョジョの奇妙な冒険」です。当時はまだ第一部、「ファントムブラッド」がアニメになったばかりで、クラス内での知名度も全然無かったのですが、熱心なファンのT君が積極的にみんなに広め、クラスでブームになっており、私もその影響でジョジョを見始めました。魅力的なストーリーやキャラクターに惹かれ、単行本を揃えるくらいにジョジョにハマったのですが、それ以上に多感な時期の私に衝撃を与えたのが、エンディングテーマに使用されていたYESの「Roundabout」でした。この世にこんな格好いい曲があるのかと衝撃を受けた私は、それ以降古今東西の様々な音楽を漁る音楽オタクと化したのです。それから半年が経ち、だいぶいろんな音楽に詳しくなった私は常に音楽が無いと不安に襲われるようになり、学校でも割と緩かった部活の時間にスピーカーを持ち込んで好きな曲を流しながら作業しているような感じでした。そんな中学2年の夏休み、部室で一人で作業している時に、私は相対性理論の「ハイファイ新書」を爆音で流しながら作業していました。

「ちーちゃんも相対性理論とか聴かはるんやね〜!」

 自分しかいないと思ってたところにいきなり呼びかけられて相当びっくりしたのですが、振り返って見てさらに驚きました。長らく部室に顔を見せていなかった黒瀬さんが目を細めてニヤニヤ笑っていました。黒瀬さんと以前よりも話すようになったのはこの一件がきっかけでした。

 黒瀬さんは話せば話すほど不思議な魅力を持った人でした。いわゆるサブカル系だったのですが、当時の私はそういう言葉を知らず、”なんでも知ってる楽しい子”という感覚で接していました。特に音楽や漫画の話で盛り上がることが多く、古屋兎丸や五十嵐大介など、黒瀬さんに教えてもらい、いまだによく読んでる漫画も多くあります。気がつけば黒瀬さんとは学校以外でも週末に遊びに行ったり、黒瀬さんが家に遊びにきたり、親友と呼べる関係になっていました。しかし、そんな黒瀬さんとの日々も中学3年に上がり、美術部が廃部になってしまったことで終わりを迎えました。もともと中学に入ってしばらくしてから、虐められていたわけでは無いのですが、ちょっと変わったところが多く、私以外にあまり友達もいない様子で(少なくとも中学に入ってからは私以外と親しく話している様子は見たこと無いです)、黒瀬さんは若干の不登校気味でした。美術部の顧問の先生が非常に良い人で、美術室自体が”学校に居場所のない奴らの数少ない憩いの場”と化していました。そのため、学校を休んだけど友達と話すため、放課後にこっそり部室に入ってくるような人も結構いました(黒瀬さんも最初こそ部活をサボっていたものの、だんだんと学校を休み部活に来るという逆の生活に変わっていきました)。だから毎日顔を合わせてたし、不登校自体はあんまり気にしていなかったのですが、その救いの場がなくなったことにより黒瀬さんと顔を合わせる機会がほぼ無くなり、学校に来なくなったこと自体が以前よりも気になるようになったのを記憶しています。不登校になってからはLINEを送ってみても既読すらつかず、結局卒業までの1年間、黒瀬さんと会うことはありませんでした。

 高校に入ってから4ヶ月ほど、私はめちゃくちゃ忙しくて、黒瀬さんのことはすっかり忘れていました。私が度々ツイッターでネタにしている、「ジャガーとジャズマスターの違いがわからない軽音の先輩」や「初ライブの日にクソダサいTシャツを着てきたので私にブチ切れられ、そのままバンドを辞めさせられたメンバー」といろいろあったのもこの頃でした。一連の騒動が落ち着き、少し経ったある晩秋の朝のことです。通学前にLINEの通知が来ていることに気づき、何気なく開いてみると、懐かしいコジコジのアイコンの人物からのメッセージでした。

「久しぶり。黒瀬です。今暇ですか?」

「通学前だわ」と思わず呟いてしまったのですが、その一言のメッセージで、今まで忘れていた黒瀬さんとの日々や、黒瀬さんに教えてもらった音楽の記憶が蘇り、頭から離れなくなっていました。「久しぶり。どうしたの?」と返信。それから1分ほど間を開けて黒瀬さんから届いたメッセージには、久しぶりに会わないかと言う誘いが書いてありました。場所は田舎の若者の聖地、イオンモール。自宅からは原付で1時間半ほどかかる場所でしたが、気づけば私は愛車のVOXに飛び乗り、学校とは真逆の方向へ、アクセルを吹かしていました。私はこの日、生まれて初めて学校をサボったのです。

 平日のイオンモールにはあまり人がおらず、まるで初めてここに来た時のような新鮮な感覚でした。何も考えずに原付を走らせてここまで来たものの、いざ到着してみると、ライブに出たり、大勢の前で何かスピーチする時とは違う、今まで感じたことのない緊張を感じたことを覚えています。黒瀬さんに会ったら何を話そう、なんて考えながら自販機でお茶を買い、駐輪場の近くのベンチに腰掛け、ツイッターを開きながらなんとなく相対性理論の「バーモント・キス」を口ずさんでいました。 少し寒いけどよく晴れた日で、車の少ない駐車場を白い太陽が照らしていました。

「ちーちゃん?」

 中学2年の夏休み、部室で相対性理論を聴いてて、突然話しかけられた時と全く同じドキッとした感覚に襲われ、声のした方向を見た時、ずっと続くようが気がしていた黒瀬さんとの日々が、全てリセットされたような感覚を微かに覚えました。

 久しぶりに会った黒瀬さんはすっかり髪型が変わり、あいみょんと同じ前髪ぱっつんのロングヘアになっていました。お互い少し緊張気味に挨拶を交わした時、二人が分断されていた時間がとても長い時間だったんだと改めて感じました。そこまでは鮮明に記憶として残っているのに、なぜか肝心の、そのあと二人で話した会話の内容はなぜかあまり覚えていません。主にお互いの近況のことでした。私としては黒瀬さんが不登校になってからのことが知りたかったのですが、なんとなく聞きづらかったのと、黒瀬さんがしきりに私のことについてばかり聞いて来たので、自分から聞くタイミングを逃し続けてしまいました。ただ、今までずっと元気に過ごせていた事、今は人生が良い感じの方向に向いて来た。その二つを知ることができて、とても安心しました。ずっと返信が帰ってこなかったLINEに関しては、不登校になってから学校の人全員と関係を切りたくなった。とのことで、私自身はあまりその感覚は全てを理解することができなかったし、きっと私の想像を超えて、黒瀬さん自身にいろいろ不安定な精神状態だったんだろうなと思い、責めるようなことはしませんでしたし、また定期的に連絡してくれるとのことだったので、純粋に嬉しかったです。

 それから黒瀬さんとは定期的に遊ぶようになりました。中学の時のように頻繁に会ったりはできなかったけど、それでも週末に黒瀬さんが家に来たり、2016年のサマーソニックでは二人で山梨から参加し(私は2日目だけの参戦でしたが、黒瀬さんは気合が入っていて、ちょっと早く東京に出て来て1日目も参戦してたみたいです)、ほぼ別行動だったものの、一緒にSUEDEのステージをほぼ最前列で見たりと、非常に楽しい思い出を作ることができました。最終的に、中学の時に毎日話していた時間よりも、高校になってから会った時間の方が長くなったのではないでしょうか。学校の友達と遊ぶときは大抵グループで遊びに行っていましたが、黒瀬さんと遊ぶときは決まって二人きりでした。私は黒瀬さんに対して恋愛的な感情は抱いていませんでしたが、黒瀬さんは時たま、「運命がちょっと違ったらちーちゃんと結婚できたかもしれないのにねぇ」といたずらっぽく笑いながら話す時がありました。黒瀬さんは自身が同性愛者であると、私にカミングアウトしてくれていたのですが、果たしてその発言が冗談なのか本気によるものなのか、今でもわかりません。本人に聞いても笑って誤魔化されてしまいました。

 高校を卒業してから、私自身が日本を出てしまったこともあり、しばらく黒瀬さんとは会っていないのですが、未だにお互いの近況報告を頻繁にしており、黒瀬さんは東京に出て来たそうです。私も帰国したら東京で働こうと考えているので、また黒瀬さんと会える日もそんなに遠くないんじゃないかな? 最近黒瀬さんはギターを始めたらしく、「日本帰って来たら私をシスターユーゲントに入れてよ笑」なんてメッセージも来ました。それが実現するかどうかはわからないけど、黒瀬さんとはこの先もずっと、一生友達でいるんだろうなって思います。黒瀬さんはなぜか、自分と完全に関係が切れるっていう場面が想像できません。中学の時のように突然いなくなってしまっても、忘れた頃にまた私の前に姿を現す。そんな気がします。なんでわかるかって? 黒瀬さんは私の頭の中にしか存在しない、イマジナリーフレンドだからです。

吉塚千代 

 

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