わたしとあなたとの深淵を越えていく想像力 ― 谷山浩子「きみの時計がここにあるよ」について


 前回に引き続き、谷山浩子さんの曲について手短に。

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 「きみの時計がここにあるよ」を初めて聞いたのはライブにおいてであった。卓上にある置時計から思いがけぬ形で広がっていく世界に感嘆したことを覚えている。自分にはない想像力に触れた気がして、とても強く印象に残った。

 真夜中の置時計 机の上で時を刻む  文字盤の上には 頬杖ついた天使
 ふと僕は考える この天使の図案を描いた誰かが どこかにいる

 自分自身がなにかを作る側の人間ではないからだろうか、このような想像力の広がりは、少なくともこの曲を初めて聞いたときの自分にはないものであった。なにかすごく特別なものではないが、自分にとって大切なお気に入りの卓上の時計。そこから、この天使を描いた人へと想いは移っていく。


 しかし、この曲の不思議なところは “天使の図案を描いた人について考える“ ことの先にある。もう少し歌詞を見てみよう。

 淋しさは形じゃなく心が描く影の鳥 蒼ざめた翼できみを抱きすくめるだろう

 歌詞のこの部分から明らかなように、初めは天使の作者について語っていたはずの曲は、いつの間にか「淋しさ」を主題とする。じっくりと聞いていると、ここで少し混乱することになる。果たしてこの「淋しさ」はどこから出て来たのか。言い換えれば、これは誰の「淋しさ」なのか。

 この問いは、やはり続く歌詞を見ていくことで解消される。

 そばにいるわけじゃない なにもしてあげられないけど
 それでも今きみが もしも淋しいのなら
 僕はただ伝えたい 夜空こえて届けたい
 きみの時計がここにあるよ きみの天使がここにいるよ

 

 つまり、「淋しさ」を抱いているのは天使の図案を描いた人なのだ。ここにこの曲の奇妙な転換がある。

 卓上の机を見ている人物のことを〈私〉と呼ぶことにしよう。〈私〉は、いま時計の天使を見て、それを描いた人に想いを馳せている。このとき、想像の起点は〈私〉にある。

 しかし、〈私〉はそこから (あなたの「年齢も性別も名前も」わからないことを確かに認めながらも) 〈あなた〉の淋しさまで、言わば勝手に思い描いてしまう。〈あなた〉のことは何も知らないにも関わらず、〈私〉は私の想像のなかで〈あなた〉の孤独を想い、そして「きみの天使がぼくは好きだよ」と語りかけてしまうのである。


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 この転換は、おそらく谷山さんの持つ特殊な感覚に裏打ちされている。

 話が長くなるので細かいところは省略してしまうが、谷山曲の根底にはぞっとするくらい静かで孤独なイメージが流れているように思われる。『真夜中の図書館』(2015) の最初に収録されている『月とあざらし』についての文章から引用してみよう。

 幼い頃わたしがこの物語から受け取ったものは、人の心に織り込まれている、誰にもどうすることもできない孤独のイメージでした。
 安易に救うことなどできない。どこまでも自分のものとして、ひとりで耐えていかなければならない孤独。

 誰かが触れることすらできないような、たった一人で抱えていかねばならないような孤独のイメージ。これが曲の原風景になっている。

 こうしたイメージは〈個〉という言葉で置き換えることも可能であろう。私にしかわからない孤独を抱えているという感覚が、人を自分以外の人物=〈他〉から切り離し、自身を〈個〉として感知させる。こうした〈個〉のイメージは (谷山さんのようにそれを的確に描くことのできる力を持った人は少ないとはいえ) おそらく誰もが共有できるものであるといえるだろう。

 さて、このように出発点には〈個〉のイメージがあるとする。すると、次の問題が生まれてくる。果たして〈個〉と〈個〉はどのようにつながりうるのか。音楽というものが人を励ましたり元気づけたりする効果のあるものだとして、では〈個〉から出発する音楽は、どのようにして〈他〉に届けることができるのか。


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 〈個〉と〈個〉の間にある深淵をどのように越えるかという問題には、いくつかの形での対応が為されている。

 第一には、〈個〉であることをそのまま肯定するもの。たとえば「ひとりでお帰り」や「真夜中の太陽」などでは、孤独であることの力強さが描かれる。まるで「あなたの孤独は誰も背負うことはできない。だからこそ、あなたは俯かずに、その孤独を背負って進みなさい」。そのように背中を押してくれるかのような曲にしあがっている。

 第二には、〈個〉の融解という方法がある。たとえば「同じ月を見ている」などでは、〈わたし〉は歌へと溶け出して (ラジオなどのメディアにのり) 〈あなた〉へと流れていく。ただし、この溶け出す〈個〉というイメージには危険性もある。たとえば「電波塔の少年」では、受信装置が壊れてしまい少年は溶けたままどこにも行くことができない。相手に向かって溶け出していくことには常に相手に受け入れられない可能性が含まれている。

 そして、以上のどちらとも異なる形で孤独を歌ったのが「きみの時計がここにあるよ」であった。

 すでに述べた通りこの曲では、〈私〉を起点にしながら、しかし〈私〉から〈あなた〉への想像力の飛躍が起こっている。これはもちろんある種のお節介である。〈私〉は勝手に〈あなた〉の孤独を想像してしまうのだから。だから、このように他人の孤独を勝手に想像してしまうことは、迷惑ですらあるのかもしれない。

 だが、このお節介をなくして〈個〉と〈個〉は一体どのような関係を築きうるだろうか。

 人は人の孤独を背負うことはできない。絶対に。背負おうとすれば、そこにはある種の病的な関係が生まれることになるだろう。だから出発点はいつも〈個〉にある。〈私〉は、〈私〉を一人で背負って生きていくことになる。

 しかし同時に、人は人との関係を紡ぐ。ときに人の痛みや淋しさについて理解したいと思い寄り添いたいと思ってしまう。そのとき〈個〉と〈個〉の間にある深淵を人はどのように埋めうるのだろうか。


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 『真夜中の図書館』で谷山さんは、さきに引用した部分に続けて次のように書いている。

 それは、童話としては厳しすぎるイメージのようにも思えます。
 でも、たぶん幼い時に受け取ったこのイメージによって、わたしは自分の淋しさと人の淋しさをつなぎ、人の淋しさに共感することができるようになったと思います。

 「自分の淋しさと人の淋しさをつなぎ」という部分に注目しておこう。これはまさに「きみの時計がここにあるよ」で描かれることに一致している。今一度歌詞を見直してみよう。


 世界中の誰ともつながっていないように
 思えるときが誰にもある
 泣きたい夜が僕にもある

 ここで描かれているのは僕=私のもつ淋しさのイメージである。この淋しさのイメージがあるから、私は何も知らないあなたの淋しさを想像することができる。私の淋しさとあなたの淋しさをつなぐものは、この私がもつ〈個〉としての孤独の経験 (すべての〈他〉から切り離されているという感覚の経験) にあった。私は〈個〉であるからこそこの淋しさを感じ、そして同じく〈個〉である〈あなた〉のことを想像することができるのである。

 そして、歌詞のこの部分を踏まえると、実は「誰の淋しさなのか」という問いへの答えも変容することになる。淋しさは、あなたではなく (つまり単に一方的にあなたの孤独を想像しているのではなく)、〈私〉と〈あなた〉の両方の淋しさであるということがわかるのである。

 〈私〉はときに世界中の誰ともつながっていないような孤独を経験するということが曲のこの部分で述べられている。そこから、次のように想像することができる。この孤独とは、いままさに〈私〉自身が感じているものなのではないだろうか、と。卓上の時計から見たこともない他者へと想像力を飛ばすほどに、〈私〉は誰ともつながっていないという思いに苛まれている。〈私〉はいま淋しいのだ。

 だから、天使を見つめてそこから〈あなた〉へとメッセージを伝える。「きみの天使がここにいるよ」と。誰なのかもわからない、生きているかすらわからない他者へと、そっと自分勝手な思いを伝える。そうすることで私は誰かとつながっているという感覚を得ることができる。

 すると、この曲で描かれているのは、(1)〈私〉がわたしの孤独から出発して、〈あなた〉の孤独を想像できるようになること、(2)〈個〉と〈個〉が、それぞれ徹底的に孤独であるにも関わらず、その孤独であるというイメージを通じて、ほんのかすかに想いをつなげることが出来るということ。つまり孤独であるからこそつながりうるということであるといえるだろう。

 それは勝手なイメージでしかないし、どこまでも〈個〉としての自分を中心にしたイメージである。しかし、相手へと一方的になにかを求めるようなものではない。そもそも他者に受け取られるかどうかすらほとんど埒外に置いている。受け取ってもらおうとはしていない。その点で、このお節介は、ほんとに力の弱い、かすかな想いなのだ。祈りと言いかえても良い。

 このように弱い祈りに果たしてどのような意味があるのだろうか。相手に受け入れてもらえるかどうかもわからない。自分の淋しさを癒やすためだけの行為かもしれない。その程度の祈りが一体どのような力を持つというのだろうか。

 しかし、このように祈り程度のつながりでしかないというところに〈個〉と〈個〉の関係の良さを見ることもできる。

 私たちは、私たちの間に広がる深淵を越えることはできない。私たちには祈ることしかできない。

 しかし、祈ることができるのである。

 静かに、そして孤独に、私たちは誰かへとそっと寄り添うために、かすかな祈りを捧げることができる。孤独であるからこそ、それが許されている。

  


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