「嘘じゃない。アンパンマンはそうなんだ。 でも、わたしにはできない。」 ―『それいけ!アンパンマン いのちの星のドーリィ』感想 (*ネタバレあり)



*ネタバレあり*

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 ジョバンニはあゝと深く息しました。

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼やいてもかまはない。」

「うん。僕だってさうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでゐました。

「けれどもほんたうのさいはひは一体何だらう。」ジョバンニが云ひました。

「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云ひました。

(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」)


「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだらうか。」

(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」)


 この映画のモチーフには (ピノキオももちろんのこと)、星祭りから「銀河鉄道の夜」などもあるのだろうか。

 「銀河鉄道の夜」の序盤では、ジョバンニにとって星祭が〈向こうの祭り〉であることが強調される。彼は祭りの外に居て、それに入りたいけれど入ることができない。

 そしてジョバンニは、銀河鉄道に乗って祭りの上へ浮上する。彼はその銀河の旅で、さまざまな人や話と出会う。赤く燃える蠍、氷山にぶつかって船が沈み亡くなった青年と姉弟。これらの経験を通じて、ジョバンニは「ほんたうの幸」のために体を焼くことまでもを決意する

 この気付き、そしてカムパネルラの喪失を経てジョバンニは、祭りの後に降り立つ。そこでは序盤とはうって代わり、あらゆることが上手くいく。

 第一部ではうしろ姿のカムパネルラ、第二部では幻想のカムパネルラ、第三部では、死んだカムパネルラ。ジョバンニはカムパネルラの不在をめぐる。そのようにジョバンニはまた、現実の祭りの不在をめぐる。第一部ではこの祭りの外に、第二部ではこの祭りの上に、第三部ではこの祭りのあとに。(見田宗介『宮沢賢治』 P.53)

 要するに『銀河鉄道の夜』とは、共同体の外 (祭りの外) にいたジョバンニが、銀河の旅を通じて自己の身を他者のために焼くことを決心することで、共同体のなかに受け入れられる物語なのである。これは言うまでもなく、星祭りから排除されたドーリィが、自己犠牲への気付きを通じて最終的に星祭りに受け入れられるこの映画と類似した構成になっている。


 自己犠牲についての話は、ともすれば危険なものになりかねない。盲目の自己犠牲を奨めることの危険は誰もがほのかに知っていることであろう。だから、この映画を手放しに褒めることには問題がある………のだろうか?

 しかし、自己の存在について悩みぬいたうえで、その迷いのなかで、どうしても必要とされた実践であったとしたらどうであろう。少なくとも、賢治の自己犠牲はそうした性格のものであった。だから「銀河鉄道の夜」でもカムパネルラは悩むのだ。「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだらうか」。こうした悩みは結局、賢治を「ほんたうの幸とは何であろうか」という問いへと何度も押し返す。これは『銀河鉄道の夜』だけではなく、賢治の作品のなかで何度も繰り返される苦悩であった。


 さて、この映画にはドーリィの他にも〈向こうの祭り〉を眺める人物がいる。彼女との出会いを通じて、おそらくドーリィもまた「ほんたうの幸」について悩むのだろう。

「わたしには、みんながいる場所は明るすぎる」

「ねぇ、ロールパンナちゃんは何のために生まれたの?何をして生きるの?」

「わからない」

「アンパンマンは困っている人を助けるために生きるっていうの。嘘だよね、そんなの。ありえないよね」

「嘘じゃない。

 アンパンマンはそうなんだ。

 でも、わたしにはできない。」


 このシーンではアンパンマンの生き方が〈嘘ではないこと〉と同時に、〈唯一ではないこと〉が示唆されている。ロールパンナのような生き方もあるということ、そうした他の生き方がありながらも、アンパンマンは今の生き方を選んでいるのだということが伝えられているのである。

 このように、他に生きる可能性を描いたうえで (つまり自己犠牲を絶対化しないうえで)、アンパンマンの生き方も〈嘘ではない〉のだということ、そうした実践のなかに「何のために生まれたの?何をして生きるの?」という問いに対する答えを見出すことできるのだということを、この映画は教えようとしている。

 こうしてこの映画は、自己犠牲を絶対化しないまま、しかしそこに存在する理由を見出すこともできるのだということを、ストイックに描くのである。この映画の価値はこの点にあるのだと私は思う。


 “アンパンマンのマーチ”の冒頭の歌詞は次のようになっている。

 そうだ うれしいんだ

 生きるよろこび

 たとえ胸の傷がいたんでも


 彼が抱える胸の傷が果たして何なのかはわからない。

 しかし、彼の自己犠牲もまた、悩みを経たうえでの、なにかの実践なのだろう。




(2014/12/22に公開したものに加筆)


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